五
散々帰ろうと諭した紅珠を振り回した酔っ払い紫英は、部屋に案内された途端、ごろんと横になって眠ってしまった……ように思えたが、いきなり起き上がり、ちょこんと寝台の上に正座して周囲を見渡した挙句、おもいっきり腕を上げて伸びをした。
ようやく正気に戻ったらしい。
「おはようございます。義兄上」
紅珠は爽やかな最上級の笑顔で、紫英を迎えた。
「お加減はいかがですか? 外国産の渡茶でも飲みますか。二日酔いに効くらしいですよ。さすが、権力者の邸宅。私が空腹を訴えたら、すぐにこのようなものを用意してくれました。毒なら心配いりませんよ。悪いとは思いましたが、一応、毒味もしてもらいましたし、毒についての訓練なら、御殿吏時代に、私も少し積んでいるんです。恵祝殿もお一つ、どうぞ」
「いえ。私は」
恵祝は、親指で摘めるような小さな杯に湛えた茶を啜っている紅珠から、壁を後ろにして距離を取りつつ慎重に首を横に振った。本来ならば、家宰と主が一室にいることなど滅多にないのだが、今回ばかりは仕方ない。秦正は余分な部屋を用意してくれなかったのだ。
「では、義兄上。どうぞ一杯」
「…………えっ。ああ、はい」
押し付けられるように、紫英は茶器を受け取った。
「この野菜の揚げ物も、美味しいですよ。油と火力自体が高価ですからね。このような腹持ちの良さそうなものは、なかなか食べられません。義兄上もお一つどうです?」
「うーん」
紫英はぼんやりとした瞳のまま、天井を見上げてぽつりと呟いた。
「紅ちゃんは、麗華に似てきたね。その笑顔で嫌味言うところ。可愛いなあ」
「ふざけるな!」
途端に、紅珠は円卓を持ち上げてひっくり返そうとしたが、恵祝に止められて、なんとか踏み止まった。
紫英は取り乱すことなく、前髪の微妙な寝ぐせを直している。
布で包んでいる後ろ髪の方が崩れているのだが、それを教える良心は紅珠にはなかった。
「義兄上。貴方はこの状況をどうお考えなのでしょうか?」
「あ。そういえば、恵祝も来てたんだよね。久しぶり」
軽やかに無視をしてくれた。その割に、散歩の老人が自然に談笑に加わるような気安さだ。
「旦那様~。私をお許しくださるその広い御心嬉しい限りですが、しかし。今は……」
紅珠の腕を押さえながら、恵祝は涙目で空気を読めと紫英に訴えているが、紫英は肩を竦めるばかりで反省の色など微塵もなかった。
「私の声が聞こえていないのですか。義兄上?」
「聞こえているよ。でもね……」
神妙な面持ちで、周囲をうかがう紫英に、紅珠は小さく首を振った。
「誰も聞いてはいません。その程度のことなら私にも分かりますよ。義兄上」
「えっ。でもね、私が一人の時は結構、ここで私の様子を盗み見している人たちがいたんだよ。落ち着かなくて、ついお酒に手が伸びちゃった」
「言い訳ですか?」
紅珠が三白眼で問うと、大人しく紫英は認めた。
「ちょっとだけね」
「旦那様。立ち聞きしていた不届き者は、紅珠殿が捕えてくださいました」
「おおっ」
さすがに寝台と壁のあいた部分に、人がいると思っていなかった紫英は後じさった。
紅珠が捕えた三人の黒ずくめの男たちは、そんな騒ぎの中でも逞しく気絶したままだった。
(……強く殴りすぎたか)
「まあ、殺意はないので大丈夫でしたが、こういう所です。どんなに良い印象を持ったとしても、ここに留まるのは良くない。帰るのが無難ですよ」
「お腹も一杯になったから、帰ると?」
「宋林のように殴られたいのですか? 私は仮にも、義兄を殴るような趣味はありません」
「嫌だな。紅ちゃん。普通の人にあれやったら結構な確率で死ぬからね?」
あれって、紅珠のどんな行為を差しているのだろう。
色々と心当たりが多すぎて、特定できない。
首を傾げていると、さすがに紫英が話を戻した。
「しかし、ここまで強かったとはね。だったら、屋敷にいた時に、もう少し突っ込んだ話ができただろうにな。いやあ。人の出入りが激しいから立ち聞きされているんじゃないかって、気が気じゃなくてね。場所を変えようにも、変に思われるのも面倒だったし」
「それにしてもですね。もう少し事情を話してくれないと困りますよ」
「ああ、うん。そうだよね。でも、君ならいつか分かってくれると信じていたよ」
紅珠が拳を握りしめているというのに、この男……。楽観的なのではない。非常識なのだ。
「ちなみに、紅ちゃんは色々事情が分かってきたみたいだけど、誰から聞いたの? 宋林殿?」
「もちろん、衛射の隆貴殿ですが?」
「ふーん……。隆貴がね。へえ」
いつも無闇に熱いくせに、なぜか淡白な対応だった。
「何です。その態度の悪さは?」
「いや。そうかと、思っただけだよ。まあ、彼も仲間は仲間だしね」
どこか距離のある言動だ。
意外に好き嫌いが激しい男なのかもしれない。
「時に、屋敷の方はどうなっているかな。可愛い私の英清はちゃんと護られているだろうか?」
紅珠は茶をすすりながら、非常識な親馬鹿に投げやりに言った。
「英清の方は隆貴殿がいらっしゃるし、人も多くいます。宋林はたいして頼りにならないかもしれませんが、陛下の喪中の間は、大丈夫なんでしょう?」
「うん。紅ちゃんがそう言うのなら、そうかもしれないね」
毎回のことながら、微妙に歯切れが悪い紫英だ。
「何か問題でも?」
「いや。英清が怒っているだろうなあ……と思って」
紅珠は優雅に茶を口に含んでから微笑んでみせた
「天地がひっくり返るほど、怒っています」
「ああ~」
紫英が頭を抱えて、懊悩している。
……事実だ。嘘はついていない。
「義兄上。だから、よりにもよってどうしてここに? 姉さんが無事なことは義兄上だって、気づいていたんでしょう。ここで殺されなかったのは奇跡に近いんですよ」
「紅ちゃん。君を巻き込んだのは、申し訳なかったよ。てっきりここには宋林殿がいらしてくれると思っていたんだ。でも、駄目だったみたいだけどね?」
「興公の狙いは宋林なんでしょう? 魚に餌を与えるような真似をして良いんですか?」
「へえ、よく分かったね? それも隆貴から聞いたのかな?」
「はぐらかさないで下さい」
「宋林殿なら大丈夫だよ。彼は仙人だからね。むしろ誰かを護る方が得意ではないはずさ」
「意味が分かりません。宋林が持っている神獣が皇帝との血縁だと、唯一証明できるものだから狙われるのでしょう?」
「おおっ。紅ちゃん。すごい! そのとおりさ!」
紫英は、寝台でぴょんと跳ねた。
「さすが、私の義妹。まあ、それもあると思うんだよ。陛下の所有していた神獣について、側近は皆周知のことのようだからね。興公は自分が暁虎の所有者だということを、周囲に見せ付けて、最終的に自ら皇帝になろうとしているんじゃないかな。息子殿を興州から呼んでいるっていうけど、対応も遅いような気がするし」
やはり、自分が皇帝になりたいのか……。
そのために神獣を使おうとしているのならば、貸した宋林もいい迷惑だろう。
そして、神獣という大きな護りを取り上げられてしまったら、英清も危険かもしれない。
「……しんじゅう。何ですか。それは?」
恵祝がぽかんと口を開けて、紫英に訴えた。
「そうだったな。お前は知らないはずだ。今まで父も私も仕事の話はしなかったからね。よし、ここは特別に私が解説してあげよう」
「是非、お願いします」
恵祝が恭しく頭を下げる。
何をしているのか。まったく……。
紅珠は自棄になって、残っていた茶を口内に流し込んだ。




