四
「おや。宋林殿は来なかったんだ」
間の抜けたその言葉に、紅珠の伸びかけていた手は、所在をなくした。
紫英は、顔を鼻まで真っ赤にしていた。官吏の正装はしているが、着物ははだけ、ついでに酒臭い。典型的な酔っ払いだ。
「何しているんですか。一体?」
「そりゃあ。陛下の葬礼について、宝正として、大司徒様に進言しているんだよ。ねえ?」
「……ああ。最初の頃はそんなこともありましたかな」
あからさまな皮肉を口にしたのは、紫英と向かい合って座っている立派な衣装の小男だ。
大輪の花が刺繍されている豪奢な黒の上衣と白の下衣。袖の先は、金色で縁取られている。黒と白をふんだんに使い、白涼帝の喪に服しているというのを全面に出したいのだろうが、黒色が金色を引き立たせているので、かえって派手に見えてしまうということを、この男は分かっていないようだ。
鶴の羽で出来ている扇で風を起こすと、口髭が揺れた。
――興公・蕃 秦紹だ。
こんな対面の仕方は、失礼だと悟った紅珠は、深々と一礼しようとしたが、秦紹に止められた。
「お前が紅珠だな。莉春が会いたがっていた」
「……はっ」
紅珠は辺りを見渡した。
(早速、宰相の妹がお出ましか……)
何処だろうと目を凝らす。夫同様、高価な衣装を身につけた傲慢な女性だろうと、目を凝らすが見当たらない。
茶を淹れていた女官の一人が、意味ありげに紅珠に微笑みかけた。
「貴方が紅珠さんね?」
「はい」
「私が莉春と申します。貴方のことは紫英殿から聞いています」
(…………何だと?)
想像していた人物像とは、正反対だった。
まず、身にまとっている空気が違っていた。
とても穏やかで優しい。母性の象徴のような人だった。
年齢は紅珠の母より少し若いくらいだろうか。
地味な灰緑の長衣を身に纏い、簪も小さな翡翠がはめこまれた感じの良いものを一つだけ白髪の混じり始めた頭に差していた。
白涼帝の喪に服しているということとで、衣装は質素にしているのかもしれない。
それでも、女官と同じようなものを身につける必要はないのではないか?
興公と莉春共に、和やかな眼差しで見つめ合っていた。
仲が良いらしい。
それも意外だった。
「妻と楽しみにしていたのだ。紫英殿が色々と話してくれたからな」
「いまどき時代に流されず、結婚しないというのは、とても素晴らしいことだわ」
「しかし、税はもっと上がる予定だぞ。結婚できるならしておいたほうがいいだろう」
……何だか、いきなり心配されている。
紫英は一体何を話したのか。
紅珠は拍子抜けした。
会った途端ばっさり斬られるか、捕らえられるか。
そのいずれかだろうと、紅珠は覚悟していたのだ。
(もう、いっそ倒れてしまいたい)
安心した途端、力が抜けた。
膝をついて頭を下げるつもりで、本当はそのまま座り込んでしまいたかったが、挨拶はらいないと指示された手前、そうすることもできなかった。
「どうだ。この芳全は? 道士だが結婚相手には悪くないぞ」
「まあ、いいんじゃないかしら。お似合いよ」
二人で勝手に盛り上がっている。
「申し訳ありませんが、私には無理です」
芳全が頑なすぎるほど、きっぱりと断った。
「…………駄目か」
「無理です」
一言だった。
(……違う意味で、ばっさり斬られてしまったな)
芳全には想い人がいるのだと、紅珠は言ってしまいたかったが、本人が喋らない話をおいそれと話すわけにもいかない。
その場にいた全員が、紅珠に向けて残念な表情を浮かべた。
ここまで来て、どうしてこんな目に遭っているのか。
泣き叫びたいのは紅珠のほうだ。
「ほら、貴方ったら」
莉春が興公を突っつく。
「すまないな。まあでも、落ち込むことはない。男は星の数ほどいるんだ」
ありきたりな慰め方だ。
男と同様に女だって星の数ほどいるということなのだから……。
その無数の星の中から、紅珠を選んでくれというのも酷な話ではないか。
間違いなく、紅珠は元気のない星の部類なのだ。
「……かわいそうに」
(あんたが言うな……)
諸悪の根源である紫英を、蹴飛ばしたい気持ちを何とか打ち消して、紅珠は平生を維持した。
「この度は、おっしゃっていた仙人ではなく、私めなどが参じてしまい、申し訳ありませんでした。義兄は早々に連れて帰りますので、何卒ご容赦頂きたい」
「仙人は無理だったらしいな。まあ、仙人は気まぐれなものだ。仕方ない」
興公は意外にあっさりしていた。……怖いくらいだ。
「宋林殿とは旧知の仲でな。色々話したいと思っているのだが、ずっと逃げられてばかりだ」
「…………なっ?」
紅珠には興公の言葉が通じない。あの襲撃は、興公の仕業だったはずだ。
恵祝は芳全に英清が奉界山にいることを告げたのだと、つい今し方聞いたばかりではないか。
「興公は、てっきり仙人がお嫌いなのだと?」
思わず紅珠は真相を話していた。興公は苦笑している。隠すつもりもないらしい。
(このおっさん、本当に敵なのか?)
疑いたくなるほどだった。恐れ多いことに、莉春が手ずから紅珠に茶を差し出してきた。
花の香りがする。変わった茶だった。
「まあ、座れ」
紅珠はうながされるままに、紫英の隣に呆然と腰をかけた。
「私は馬鹿でな……」
「ごほっ」
唐突に何を言うのか? おかげで、口に含んでいた茶を噴き出しそうになった。
……馬鹿だって。
興公が馬鹿だったら、紅珠は何だというのか。
大馬鹿どころでは済まない。
「本当のことなのだから、仕方ないだろう?」
興公は公然と自嘲しているらしい。そういう性格だったのか?
「私は本当に何もない。平凡な男だった。青嵐を妹に持たなければ、一豪族で終わっていただろう。いや、その地位も確保できたかどうか。生意気な妹だが、あれのおかげてここまで上り詰めることができた。それは感謝している。だが、その恩恵がいつまで持つか分からない」
……それは一体、どういう意味なのか?
「権力というのは、恐ろしいもので、自分はこのままでいいと甘んじていると維持できない。過去何回か私もそれを目の当たりにしてきた。今のままでいたら、私は宰相に消されるだろう」
「兄様は、そのようなことなさりませんわ」
きっぱりと、莉春が言い放つ。
「そもそも、宰相は兵力など持っていないではないですか。宰相が動かせるのは陛下の命を受けた禁軍だけ。でも、その陛下はもういないのです。兄様が恐れているのは、貴方ですわ。だから、兄様を牢から出してあげ下さい。そういう約束だったではないですか?」
莉春は知らないのだ。宰相がわざと捕まっていることを……。
「ごめんなさい、恵祝。私はただ兄様を何とか助けたくて。貴方を使おうとしました」
「め、滅相もございません。そのような真似をおやめください」
ただでさえ、歩いたことで息切れしているのに、突然、莉春に頭を下げられて、恵祝は恐縮の余り倒れてしまいそうだった。
興公は静かに息を吐き、照り返しの激しい水面に視線をやる。
「莉春。とっくに宰相は外に出ている。あまりに大人しいので正式に人をやり調べたら、もぬけの殻だった。牢の番人ごと消えたのだ。これで、お前の兄を信じろと?」
「……そんな」
莉春は目を見開いた。
「私はむざむざやられるつもりもないし、埋もれるつもりもない。その為に必要なことはする」
この男は……。虚勢だと分かっていながら、生きているのだ。
自分が器ではないと知りつつ、まっとうしなければならない仕事ほど厳しいものはない。
馬鹿だというだけで、諦めてしまっている紅珠とは立場が違うのだ。
「陛下が今際の際に、英清様の存在について青嵐に言ったらしい。私は知らなかった。陛下に御子がいたとはな……。私は確かめられずにはいられなかったのだよ。本当に実子かどうかを」
「それで、麗華と英清を攫おうとしたんですか?」
紫英が暢気に尋ねた。
「陛下の意思はともかく、常識的に考えて、私が養子にしている先帝の御子が皇位継承するはずだ。興州にも人をやって、太子をこちらにお呼びしている。……それなのに、急に本物が出てきたのだ。しかも、宰相は最初からそれを知っていた節がある」
……そうだろう。
八年前、白涼の子を身籠っている麗華を、紫英の妻に寄越したのは紫英の上司である宰相だ。紫英もそう言っていた。
「それで、殺そうとされたわけですか?」
「いや。あの子に神獣がいるのなら、何人で攻撃をしかけても簡単に殺せるものでもない」
当然のように、興公も神獣の存在を知っていた。
「じゃあ、なぜ?」
無駄なことをしたのか……。
「私はただ宋林殿かどうか確かめたかっただけだ。簡単な攻撃では仙人は死なないからな。攻撃を強化して捕らえてやろうと思った。そこに、お前のような娘がいたとは知らなかったんだ」
一度目は、英清の身分確認のため。
二度目は、宋林の身元確認のため。
(頑張りすぎだろう?)
むしろ、紅珠がここにいないほうが良かったのではないか。
これでは、宋林を楽にしてやっているだけではないか。
肩を落としている紅珠の背中を軽く紫英が叩いた。
「とりあえず、英清は継ぐつもりはないみたいだし、皇位継承から逃れるために、仙人になろうとしていたくらいだってお話したんだ。これで一件落着だって、先ほども話していたんだよ」
(……一件落着なのか?)
紅珠が複雑な気持ちで、興公に目を向けると、あからさまに曇った表情で髭を撫でていた。
「……しかし、紫英殿。私はそのつもりでも、宰相はどう考えているのかな?」




