12 赤い部屋
裏庭に出るとすぐ、少年はティアを見つめてきた。
「あなたは、ルーシ人なのですか?」
不意の質問に、ティアは言葉に詰まった。
「私はちがう気がします。ティアという名も聞いたことはない。どこから来たのですか?」
少年はあくまで抑揚のない声音で訊いてくる。
「ちがう」
と、ティアは素直に答えた。彼らにどのような情報網があるかは知らないが、ここで嘘を重ねてバレた時の方が心証が悪くなる。
「シフル領から来た」
言うと、少年はティアをとがめるでもなく、無言でまた歩きはじめた、庇のある側廊づたいに中庭を回る。ティアはふと、前を歩く少年の背中に既視感を覚えた。いや、背中というより、歩き方だろうか。もっと言えば、少年の動きそのものが気にかかる。
考えていると、少年は反対側の扉で立ち止まった。
「ここで待っていてください」
そう言って、少年はティアを残してひとりで入っていく。一瞬ドアの隙間から目に飛び込んできた部屋の様子は、とにかく赤い、というものだった。壁から床までのすべてが赤一色で統一されていた。
耳を澄ますと、かすかに話し声が聞こえてくる。数分後、「お入り」という声がドア越しに聞こえた。少年の声ではない。しわがれた老婆の声だ。
入ると、やはり部屋は赤い。目がちかちかした。置かれている調度は東方の品々が多く、異国情緒にあふれていた。麝香の匂いが部屋中に漂っている。
正面中央に、老婆が座っている。杖を持ち、目深にかぶったフードの、窪んだ眼孔の底から瞳がぎらぎらと光っている。歳を重ね、皺だらけになった肌は木の樹皮のようだ。
「お座り」
厳しい口調ではないが、どこか抗いがたいものがある。ティアは言われるがままに老婆の前に腰をおろした。
『ほぅ、おかしな人間もいたものだ』
ふと、イスラが感心するように言った。
『どういうことだ?』
『さて、な。まずは話を聞いてみよ』
少年の姿はなかった。別の扉から出ていったのだろう。
「ここを嗅ぎ回っている、とクラウディアから聞いておる」
クラウディアとはクラウのことだ。ティアはやや考えてから、
「嗅ぎ回っていると言われればそうかもしれないが、悪意はない」
「らしいの」
老婆はあっさりとうなずいた。
「今の今まで、お前のことは見ておったでのう」
楽しそうに告げられ、ティアは目を丸くした。
「はじめからオレを疑っていたのか?」
「お前に限った話ではない」
驚くティアをよくよく見るように、老婆は瞳を細めた。
「なぜルーシ人と偽った?」
「事情がある。別にルーシ人でなくてもよかった。ここに置いてもらえれば何人でもいいと思って言った。事情といってもあくまでオレ自身に関することだ」
「坊主のように話しよる」
老婆は甲高い声で笑い、
「なるほど悪意はないかもしれん。じゃが、珍しい相ではある。お前の言う事情とは、お前の影に潜む者と関係のあることかえ?」
ティアは瞠目した。間違いなく老婆はイスラのことを言っている。
「……わかるのか?」
「それほどの力。わかるなと言う方が無理じゃ。お前自身からも人の気を感じぬ」
ティアはこめかみに汗がつたうのを感じた。何者なのか、この老婆は。
「……珍しい相、とは」
おそるおそるティアが訊くと、
「先ずは凶相と言っておこうかの。稀有な星の下に生まれついたものよ」
老婆が答えた。その時──
「なーんかさぁ、それって怪しすぎるってことじゃない?」
若い女の声がした。老婆の背後の机のむこうで、スグリの実が宙に上がり、落ちていく。
部屋にはもうひとりいたのだと、ティアはこの時はじめて知った。
机に足を乗せ、少女がふんぞり返ったように座っている。こちらを見もせず、天井を仰ぎながらスグリの実を指で弾いては、それを自分の口に放り込んでいる。
同じ部屋にいながら、ティアは少女に気づかなかった。
少女の気配の消し方が、それほど見事だったということだろう。
癖のない黒髪を高いところで結い上げ、さきほどの少年同様、瞳は碧い。着ている服は東方風のそれを折衷したような造りで、上衣の長い裾から、健康的な肌を惜しげもなくさらしていた。
この少女のことを、ティアは知っていた。
「カホカ=リュニオスハート……」
気がつくとその名を口にしていた。が、その名を口にした時、少女の瞳に胡乱な光が宿るのをティアは見た。カホカがこちらにスグリの実を指で弾いて飛ばしてくる。ティアが首を横に振ってよけた。次の瞬間、身を起こしたカホカが一足飛びに老婆の頭上を飛び越え、こちらめがけて迫ってくる。
「くっ……!」
凄まじく鋭い蹴りがティアの頭を刈り取ろうとするのを、ティアは椅子ごと身体を倒して寸前でやり過ごした。かすめ、切られた髪先が宙に舞う。
「待て、カホカ!」
ティアは後転して起き上がった。
「アタシをその家名で呼ぶんじゃねぇ!」
カホカが二度、三度と、その場で踊るように足踏みをはじめた。
──マズい!
ティアはとっさに腰を落とし、両腕で顔の右側を防御した。カホカが反転し、こちらに背中を見せたと思った時にはもう、カホカの脚がティアの両腕に着弾している。この予備動作を知らなかったらと思うとゾッとするほどのキレだ。おまけに防御しているにもかかわらず、腕が折れるかというほどの衝撃である。
「やぁるぅじゃあん」
ヒュゥと、カホカが口笛を吹く。
トットット、とカホカが再び足踏みをはじめる。
「次は右かな、左かな、上かな、下かな。本気でいっちゃおうかな」
ひひ、とカホカが笑みを浮かべる。愛くるしいまでの無邪気な少女の笑みが、ティアの眼には死神が微笑んでいるように見えた。
カホカが反転しかけたとき、ティアの脳裏にある言葉が思い浮かんだ。
「やめろ緋カホ!」
「んあ?」
が、間に合わなかった。カホカの背中がティアの瞳に映る。
『右じゃ』
イスラの声が聞こえ、ティアは両腕で防御する。が、受けきれず、
「流す!」
鋭く言い、ティアは脚を両腕ですべらせつつ、自分もカホカと同じように反転した。カホカの身体がティアの回転に巻き込まれ、宙を舞う。壁に激突するかと思いきや、カホカは身をひねると、長靴の底が吸いつくように壁に着地した。
「んんんんん?」
何事もなかったようにカホカが床に降り、こちらに歩いてくる。殺気はなくなっていたが、カホカは半眼でティアの顔を見つめてくる。
「なんでお前がそのあだ名を知ってんだ?」
カホカはティアの髪を掴むと、軽く引っ張った。それから確かめるようにティアの口を広げ、目を広げ、耳をつまんでくる。
「んんー……?」
カホカは腕組をして、その場で考え込む。
「オレは、タオだ。タオ=シフルだ」
言うと、カホカは「タオ?」とティアをひとしきり見つめた後、いきなり胸を揉んできた。
「……これ、どこで買ったの?」