お迎え
今日の講義が終わり、ノートや筆記用具をしまっていると、後ろに座っていた杉野くんに話しかけられた。
「鈴木さんの弟って、えらいよね。」
弟?と振り向くと、杉野くんはもう荷物をまとめ終わったところだった。
「最近、毎日迎えに来てるからさ。お姉ちゃん想いだなあ、って。」
その言葉で、ああ、勇斗くんのことかと合点がいく。
先日、本屋の帰りに会ってからというものの、予備校の終わる時間が遅いときは見計らって迎えに来るのだ。終わって帰るときにはもう出入り口の植え込みの傍に立っていて、一言「お疲れ」と言って一緒に歩いてくれる。
…寒さが増してきたこの時期に、いつから立っているのだろうか、白い頬を寒さでほんのり赤らめた勇斗くんのかわいさは、尋常でない。思わずマフラーをぐるぐる巻きにしてあげたくなるかわいさだ。
「う~ん…多分夕飯を楽しみにしてくれてるんだと思う。」
杉野くんの言葉に、私は苦笑いをしながら答えた。
別にそんなに急かさなくても、勇斗くんの夕飯作りには遅れないようにするつもりなんだけど。駅前だし帰り道も暗いわけでもないし。何日か前にもそう伝えたけれど、視線を逸らされて「…寄り道するかもしれないじゃん」と呟かれた。う~ん、君は私の保護者かっ!と言いたくなる態度である。おかしい、保護者役は私のはずなのに。
「鈴木さんが夕飯作ってるんだ?」
目を見開いた杉野くんは、ああそれでこの間料理の本を買っていたんだ、と納得している。
「勉強もあるのに大変だね…お母さんとかは忙しいの?」
心配そうにしてくれる杉野くんに、勇斗くんのお母さんは家に戻って来ませんなんて重い話をするわけにもいかないので、うんと頷いておく。
「鈴木さんてすごいね。弟は中学生?高校生?」
「中学生だよ。最近は反抗期でね……。ほっぺをむにむにしようとすると手をはたかれるんだ…。昔はそんなじゃなかったのに…。」
「あははっ、鈴木さん、そりゃ怒られるよ。中学生でしょ。」
「うん、私もダメだってわかってるんだけど……。つい……こう昔のクセで……。」
「たしかに、かわいい顔してるよね。最初は女の子かなと思ったね~。」
杉野くんの言葉に思わず同意しかけたが、かわいいと言ったらキレる勇斗くんにもし聞かれでもしたら、しばらく口を聞いてもらえなくなりそうだ。いくらこの場にいないとはいえ、頷きかけた言葉を飲み込んで、なんとか曖昧に微笑むにとどめる。
「中学生でもこれから伸びるから、よく食べそうだね。」
「そうなの!なかなか作る量が掴めなくて、いつも足りないって言われちゃうんだよね」
「慣れば大丈夫そうだけどね~。あれから何かレパートリーは増えた?」
「とりあえず本に載っているのを順番に作っているだけだからレパートリーという程ではないんだけど…あっ、でもからあげは簡単だし好評だったなあ。」
好評というか、いつもは不味くても何でもひたすら私の料理を口に運ぶだけの勇斗くんが、珍しく「うまい」と言って目を丸くしていたのだ。それを思い出して、ふふっと微笑んでしまう。やっぱり褒めてもらえると記憶に残りやすい。また今度挑戦してみよう。
「からあげは男子の好物のランキング上位じゃない?鈴木さんわかってるね~」
「!杉野くんも好きなの?」
そうなんだ。きっと勇斗くんもからあげが好きだったのかもしれない。勇斗くんの好物がわかれば、「うまい」とからあげを見つめたときのびっくり顔をもう一度見られるかもしれない。是非とも他の料理でも試したいところだ。
「オレも好きだよ。定食屋さんとか行くと、ついからあげ丼とかからあげ定食とか頼んじゃうな」
「他には何が好きなの?」
「オレ?」
うんうん、と頷くと、杉野くんは顎に手をやって「そうだなぁ~…」と一生懸命考えてくれる。からあげが好きな杉野くんの好物なら、勇斗くんももしかしたら同じ物を好きかもしれない。参考にさせてもらおう。
「ちょっと子どもっぽいかもしれないけど、ハンバーグとかカレーかな」
「おいしいよね!私も好き!」
少し恥ずかしそうに言う杉野くん。出てきたのは好物代表の料理だった。作るのが難しそうな料理名が出てこなくて良かったと、私は杉野くんの方に身を乗り出して笑顔になった。
私が同意したのが予想外だったのか、杉野くんも照れたように笑った。
なんだ。結構一般的な好物でいいのかもしれない。勇斗くん喜ばせ作戦の糸口がわりと身近なものから見えてきた。
私はなんだか嬉しくなって、杉野くんに笑顔でお礼を言った。杉野くんはそれに微笑んで、どういたしまして、と言う。
「もしかしてオレにも作ってくれるの?」
杉野くんの言葉に、私は目を瞬かせた。
彼は彼で、私の一瞬の間に、あれ、と目を瞠る。
「うん、いいよ。機会があったら」
慌てて笑顔で返事をする。
その瞬間、杉野くんは「うわあ~」と呻いたかと思うと、俯いて片手で眼鏡を押さえた。
「オレ何言ってんだろ、恥ずかしい………」
「!? ど、どうしたの?」
「いや、ごめん……えっと」
口元を押さえたまま顔を少し上げた杉野くんは、こちらも恥ずかしくなりそうなくらい、赤面していた。
「オレ、鈴木さんの言葉に勘違いしちゃったみたいで…その、ごめん。」
「え?え?す、杉野くん?」
「いや、あのいいんだ、気にしないで。オレがバカだから!」
「えっと…その」
つられて私も赤くなってしまう。顔に熱が集まるのを感じる。
勇斗くんの好物調査の参考にしていたつもりだったのだけど、杉野くんに興味をもっているように聞こえてしまったのかもしれない。私の聞き方が悪かったのだ。赤い顔がさらに耳まで赤くなるのを感じた。
しばらく二人でもじもじしていたけれど、どちらともなく「そろそろ出ようか」と部屋を後にすることにした。
部屋から出るときに、杉野くんは部屋に残っていた知り合いの人に「お前なに青臭いことやってんだよ」「バカだなー」「いや楽しいもの見させてもらった」とか色々と声をかけられていた。杉野くんは赤面したままだったけど「うるせー」と言って笑い飛ばしていた。でも私のせいだ。申し訳なくて、部屋を出てから前を歩く杉野くんの服の裾を引っ張って、少し足を止めてもらった。杉野くんが、「鈴木さん?」と、顔だけこちらに向けてくれた。
「杉野くん、あの、私のせいでごめんね」
「え?いや、鈴木さんが謝ることじゃないから!」
「でもさっきの人達から……。」
「ええ?あんなのただの軽口だから!むしろあいつら、オレが鈴木さんと喋ってるのを羨ましがってて…」
「え?」
「いや、なんでも」
「でも…」
「ああ、とにかく!」
杉野くんは体も私の方へ向けると、視線をしっかり合わせて勢いよく言った。
「今度機会があればオレにも作ってくれるんだよね?」
「う、うん!」
「なら、よし!以上!!」
鈴木くんの勢いに思わずうなずいた私に、杉野くんは言い聞かせるように短く言う。
あっさりしたその言い方に、思わず笑ってしまった。
「杉野くん、ありがとう」
何だか気を遣わせてしまったようだ。私のせいで恥ずかしい思いをさせてしまったのに。
杉野くんは私の言葉にどういたしまして、と言うと、ホッとしたように笑った。
成り行きで杉野くんと一緒に外へ出ると、いつものように勇斗くんが植え込みの傍に立っていた。今日もマフラーをしていない。薄着すぎて寒そうだ。
「勇斗くん!」
私は声をかけるが、それよりも早く勇斗くんは私に気が付いたようだった。というか、視線は私よりも杉野くんへと向いている。
「おお、今日も迎えに来てるんだ。えらいね。」
見られていることに気が付いたのか、杉野くんが感じ良く勇斗くんに声をかけた。
勇斗くんを肯定的に言われて、姉として嬉しくないわけがない。二人が仲良くなれるなら、今日は三人で歩いて帰ることになるかな~と一瞬考えた私の幻想は、勇斗くんの次の言葉で打ち砕かれた。
「すみれさん。こいつ、何なの?」
勇斗くんの目は敵意といってもいいくらいの険しいもので、私の隣に立つ杉野くんに注がれている。
「ゆ、勇斗くん!こいつって何…」
年上に向かってこいつだなんて、失礼にも程がある!慌てて今の言葉を取り消させようとしたけれど、勇斗くんに手を引っ張られて、つんのめって前に倒れそうになった。その私の身体を抱き留めて、スイと自分の後ろにやると、私と杉野くんの間に立ちはだかる。何だというのだ、一体!
「勇斗くん何やってるの?」
「すみれさんこそ、こいつと何やってるの?」
「何って…帰ろうと……」
「俺が待ってるの知ってたよね?」
「う、うん。」
「じゃあ何でこいつと一緒になって遅くなってるの?」
「待たせちゃった?ごめんね寒かったよね」
「俺かなり待ってたんだけど」
「ご、ごめん……!」
顔をこちらに向けない勇斗くんの背中に、慌てて謝罪の言葉を投げかけるが、頑として杉野くんから目を外さない。
勇斗くんの肩ごしに杉野くんの顔を窺うと、「あ~…」と言葉にならない声をあげてすごく困った顔をしている。ごめんなさい!私は手を合わせて、杉野くんにだけ見えるようにごめんねのポーズをした。
「ちょっと遅くなっちゃったもんね。弟さん、心配したよね。」
杉野くんは所在なさげに手を頭にやって、穏便に済むよう言葉を選んでくれた。年下に失礼な態度をとられても、キレない大人の対応です。ただ、勇斗くんの対応としては、一番間違っていたかもしれない…。
「弟……?」
不愉快極まりないという声に、勇斗くんの顔は見えないけれども、いかに気分を害したか手に取るようにわかってしまう。
「あんたの目ってどこに付いてるわけ?俺とすみれさんのどこが姉弟に見えるっていうの?付いてたとしても腐ってんじゃない?大丈夫?眼科紹介しようか?」
「ゆゆゆ勇斗くん……!!!」
「えっ、姉弟じゃないの?」
勇斗くんの暴言が止める間もなく火を噴くが、杉野くんはそれよりも姉弟じゃないことにびっくりしている。あれ?そういえば、さっきの杉野くんとの会話で、勇斗くんは弟、というのに否定をし忘れていたかもしれない…。
「どこからどう見ても姉弟になんて見えないだろ。むしろどこが似てるっていうの、このぼんやりした人に。」
勇斗くんは嫌そうに言う。そうだよね、私なんかの弟に思われるなんて、心外ですよね。
「いや、鈴木さんはぼんやりしてるとこがイイというか…。」
「………はあ?」
「す、杉野くん?」
「あぁ、そうじゃなくて、弟くん、じゃないんだっけ。えっと、勇斗くん?」
「お前に名前で呼ばれるとか反吐が出るからやめてくれない」
「えぇ~っと…まぁいいや。とにかく、お姉さんじゃないにしても、なおさらお世話になってる人に『ぼんやりした人』なんて言っちゃだめだよ」
ああ!私が言えなかったことを、杉野くんは真正面から勇斗くんに伝えてくれている。目上の人に対する礼儀。私のことはいいにしても、杉野くんに対して言ったことは許せることではない。
私が口を開こうとしたところで、勇斗くんがいきなり私の前から離れた。そして杉野くんへと近づいて、私に聞こえないように何かを言った。
「えぇ、ああ………そういうこと。」
杉野くんは勇斗くんの言葉に何か納得したように頷いた。けれど、表情は困った顔のままだ。勇斗くんは何を伝えたんだろう?
杉野くんも勇斗くんに合わせて、低い小さな声になってよく聞こえない。二人で私そっちのけで何か話し始めてしまう。
「確かにオレはまだ出会っ………………………………弟くん(仮)の………鈴木さんと長……………いや、だって名前呼ばれたくないって言うから!こう呼ぶしかないよね!?……………イイとこはもちろん他にも…………………………だけどまだ…………………日が浅いから…………………でもさっきの弟くん……………は言い方が………………………………………でもオレも……………さんと仲良くなりた…………………………なんで弟くん……………決め……………?…………………………あぁもう、わかりづらい子だな!素直に言えよ!それ!」
「うるさい!」
何故か二人して声を大きくして会話が終わった。勇斗くんはつやっつやの髪が今にも逆立ちそうに見えるくらい怒っているし、杉野くんも初めて見る苛々したような顔をしている。
かと思えば、杉野くんは私に微笑みかけた。
「鈴木さん、弟くんが」
「弟じゃない!」
「鈴木さんに近づくなって言うんだけど、どう思う?」
「えええ?勇斗くんがそんなこと言ったの?」
「なんで言うんだよ!ふざけんな!」
「ごめん、ちょっとここは大人げないかもしれないけど」
杉野くんが、勇斗くんにだけ聞こえる声で一言呟く。ライバルだから、と。
「勇斗くん、杉野くんは勉強も教えてくれるし私とお喋りしてくれるとっても貴重な存在なんだよ!近づかれなくなったら悲しいよ。失礼なこと言わないで」
「勉強なら俺が教える」
「いや勇斗くん中学生でしょ」
「受験勉強くらいできる」
「高校受験ならいいかもしれないけど……」
「すみれさんは知らないだけ。俺学年トップだからちょっと勉強すれば高校の勉強くらい楽勝。」
そうだったの……。って、いくら秀才でも飛び級レベルの勉強はさすがに無理だと思う。
なんだか子どもがむきになっているようだ。こんなに根拠のないことを言う勇斗くんも珍しい。どうしたというんだろう。
「…わかった。じゃあ今度一緒に勇斗くんがどれくらい勉強できるか見るから。一緒に勉強しよう」
埒が明かなそうなので、私はそう言って自分のマフラーを勇斗くんの首にかけた。後ろからぐるぐる巻きにする。勇斗くんの手を握ると、すっかり冷たくなっていた。
「今日は待たせちゃったから嫌な気持ちになったんだよね?ごめんね」
「……子ども扱いすんな」
「うん、ごめん」
手を軽く引っ張ると、勇斗くんはくるりと体をこちらへ向けた。拗ねたように目を伏せている。でも、帰る気になったみたいだ。寒さですっかり鼻の頭まで赤らめて、口元は私のマフラーに埋めている。勇斗くんの気が変わらないうちに、杉野くんの前から退散しよう。
「じゃあ、帰ろう。杉野くん、今日はごめんね。」
勇斗くんの失礼な態度については、また後日きちんと謝ろう。そう思って別れの挨拶をすると、杉野くんは勇斗くんに話しかけた。
「弟くん。そうは言ってもオレ、さっき振られてるから」
何の話?と思って杉野くんを見やるが、何となく面白そうな表情を浮かべている彼は、勇斗くんの反応を見ている。杉野くんのそんな表情に気を取られて、勇斗くんがどんな反応をしたのか見逃してしまった。次の瞬間には、
「…悪かったな」
という勇斗くんの呟きが聴こえて、ああ杉野くんへの態度を謝ったんだと理解した。
杉野くんはそれに対して、
「いいよ。これからもよろしく」
なんて答えている。なんて大人の対応。
勇斗くんはそんな杉野くんを嫌そうに一瞥して、握っていた私の手を引っ張って歩き始めた。
「鈴木さん、寒いから風邪ひかないようにねー」
「す、杉野くんも!またね」
後ろから杉野くんの声が追いかけてきたので、慌てて返事をする。それが聞こえると、私の手を引く勇斗くんの力が一層強くなった。
「差が3縮んだくらいじゃ何にもならない……………」
勇斗くんの悔しそうな呟きが聞こえた気がした。