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0820 ~パラドックス~  作者: 加藤水城
第五章 青木詩音という後輩女
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第五章 青木詩音という後輩女(3)


 

 

 何やら話が詩音の方からされていたのか、受付で学生手帳を提示するとすぐに面会証を渡され病室へと案内された。何やら緊急事態でも起きているのかと不安になり、竜也は案内してくれるナースさんに「なんかあったんスか?」と聞いたところ、「当院では精神面について細心の注意を払っておりまして、可能な限りすぐに面会の方は病室へ通すという規則になっています」と言われてしまった。そうですかとしか言えず、竜也と紫は案内されるがままに『青木詩音』と書かれたプレートが差し込まれている病室のドアの前へ。

 どうやら個室らしく、ナースは、

「一度ノックしてからお願いしますね」

 と言うと行ってしまった。多忙なのだろうか。

 などと考えていると、紫が横からすぐにノックをする。

「詩音ちゃーん。入りますよー?」

 言い終わるかどうかといううちに、中から返事が来た。

『あ、紫ちゃんやっと来た!』

 別にどうぞとは言っていないのだが、しかしこれでどうぞという意味だろう。

「失礼しまーす」

「失礼しますよ、っと」

 ドアを開けると、そこは白としか表現しようの無い病室が広がっていた。

 何から何まで、純白。

 唯一白とは程遠いベッドに腰掛ける女性の朱色の髪が、一層際立っている。

「あ、如月先輩も。こんにちは」

「おう。……うーん、なんかお前に先輩呼ばわりされると仰々しいなあ」

「そうですか? じゃあ昔みたいに呼びましょうか?」

「い、いやそれもいいや。やめよう」

 すると紫は少しだけにやついた顔で、

「あれれ、先輩。昔の呼び方ってどんなんでしたっけ~?」

「お、お前! やめろっての!」

「ねえ詩音ちゃん、どんなのだっけ?」

「え、『竜也おにーちゃん』…………だよね?」

「う、るるあああ! むず痒い、痒い痒い痒い!」

「背中掻きましょうか?」

「お前の所為だろ!」

 紫に一通り怒鳴ると、廊下を通り過ぎる恐らくは先ほどとは別のナースさんの、わざとらしい咳払いが一つ聞こえてきた。うるせぇお前らと言いたいんだろう。

「ち、ちょっと静かにしてるか」

「まったく。先輩はうるさいですね」

「誰の所為だと――――っと危ない危ない」

「慌てて声を小さくしているのは分かりますけど、あまり気にしすぎるとツッコミが出来ませんよ? ここにいる意味がなくなってしまいます」

「お前は俺の存在意義がツッコミオンリーだと言いたいんだな?」

 久しぶりの幼馴染に対する怒りにわなわなと拳を震わせていると、突然ベッドの女性が――青木詩音が笑いを漏らした。

「……ぷっ、ふふっ」

「どうかしましたか?」

「ううん、紫ちゃんと如月先輩って素で面白いなーって……」

「そうでもありませんよ。M-1で予選敗退するレベルです」

「プロへの登竜門と比べちゃ駄目だと思うけど……」

「言えてるな」

 ハハハ、と三人で合唱のように笑った。

 計ったようなタイミングで、更に同じように笑い終える。

 昔からの癖に近いものとなっているこの笑いは、ある意味の意思疎通なのかもしれない。

 面白いときは笑うし、皆が笑う時は自分も笑う。ある意味の掟のようなものだ。

 こういうと強制的に聞こえるかもしれないが、しかしそれは勘違いである。別に無理に笑うことはなく、自分が面白いと思ったとき、他の二人も面白いと思っているのだ。

 そこまで親しい関係に、三人はなっていた。

「ところで、なんですけど」

 と、そこで詩音は突然尋ねてくる。

「どうしました?」

「あ、紫ちゃんより如月先輩に聞いたほうが良いかも……です」

「無理に敬語じゃなくても良いぞ?」

「あ、なんか甘えた感じになるから……なりますから」

「変なこと気にするな。お前が好きとかなら別だけど、もうそんなの気にする関係じゃないだろ?」

「いえ、いいんです。自分なりのけじめみたいなやつですから」

「ま、そこまで言うなら……つーか、聞きたいことあるんじゃねえの?」

「あー、そうです。いや、実はさっき……」

 そして詩音は、物凄いことを口走った。

 

 

「なんかグレーな髪のおじさんが来てですね、今から先輩が来るだろうけど無視してって」

 

 

「九条ぉぉぉぉうっ!」

 思わず竜也は、窓を開け放って叫んでいた。

 それは閉鎖的な中庭へと通じる窓であったため、見事に木霊している。

「「ちょ、どうしたんですか先輩!?」」

「ハモって驚くな! 今一番驚いてるのは俺だ!」

 しかし、竜也とてここはブチギレたくもなる。思わせぶりなことを言われて少し『異能』を調べてみようかなーという感じで来たら、実は先回りされていたという情けない事実を否定したいというのもあったが。とにかく無気力感というか倦怠感に近いものが生まれてしまう。

 例えるなら、金持ちと命掛けのギャンブルをして勝った翌日に宝くじ一等がキャリーオーバーで当選したみたいな、昨日の努力はなんだったのというアレである。しかしこの例の方が、利益があるため幾分かマシだ。

「それで……その、九条? さん? がですね、それ以外にもう一つ言ってきたんです」

「何をだ……」

「えー、伝言なんですけど、ちょっと長くて。確か、こんな感じです――」

 オホンと咳払いを一つ、詩音は喉に手を当てながら伝言を言った。

「『あー、如月君。どうもお先させてもらってます』」

「上手っ! そして九条の挨拶が心の底から腹立つ!」

「『まあまあそう怒らないで』」

「しかもタイミングを予測していた!」

「あ、今のはアドリブです。すいません」

「そーゆーのナシでお願い! 頼むから!」

「了解です。では続けます……『君の先を越させてもらってるのは、面として言い難いことだからだよ。電話越しでもキツイ話題だからね。こうして他人を介してもらってる。……って、大丈夫かい? 本当にこれ全部暗記出来るんだろうね? え、完璧? うーん、なら良いんだけど。あ、今の台詞は一通り省いて良いから』」

「省けと言われた所も忠実に再現するんだな……」

「詩音ちゃんは昔、人間録音機と言われていましたから」

「それはいじめって言うんだと思うけどな」

「『あーそこ、勝手に喋らない』」

「いやそういうアドリブいいから!」

「い、今のは本当だったんですけど……」

「…………マジ?」

「マジです」

「マジで決めるぜ」

「マジレンジャー」

「昔から変わってないな」

「何の確認ですか……」

 ちなみに詩音は、特撮大好き星人としても有名だ。

「続けます。『あー、そろそろ九条さんの抱腹絶倒なトークを一通り笑い倒したかな? そろそろ本題だけど、聞ける状態かい? 息が切れたりしてないかな?』」

「自分を抱腹絶倒の話術師とでも思ってたのか……」

「『それでだね、話したいのは他でもない稲生さんのことさ』」

「は?」

 思わず声を上げてしまったが、しかしすぐに竜也は気付いた。

 稲生さんとはつまり、そのまんま『異能』という意味なのだろう。だがそこらへんについては無知な詩音に暗記させる訳にはいかなかったから、敢えて分かりやすい偽名(?)を使った……という解釈で良いはずだ。

「『最近君は結構稲生さんを助けているみたいだけど、あまりやりすぎるなという忠告だよ。いや、むしろ背中を押して手助けをしていた俺が言える台詞でもないんだけどね。これは君自身の問題ではなく、稲生さん達側の問題なんだ』」

 稲生さん達側……つまり、『異能』を所持した人間たちという意味か。

「『確かに君の行いは崇高だ。だけど同時に軽率でもある。子供の喧嘩と一緒さ。ルール無用で周りを気にせず、ただ相手へ真っ直ぐぶつかる。間違いではないんだろうけど、でもそれは同時に、君は現在の稲生さん達における可能性を一つ封じてしまったことになる』」

「可能性……」

「『自分で今、道を開く可能性だよ。昨日の先輩なんていい例じゃないか。彼女は稲生さんが生み出した枯れ尾花に翻弄されたけど、君に活を入れられてあとは自分で枯れ尾花を消しただろう? あれが他にも言えるかもというお話だよ』」

 枯れ尾花。

 確か諺に、『幽霊の正体見たり枯れ尾花』というのがあったのを憶えている。

 この諺は、幽霊だと思っていたものをよくよく見たら枯れたススキの穂でしたよというエピソードから来ている。筈だ。

 ここまで来れば分かるが、枯れ尾花は昨日の亡霊を暗示している。

「『別に君の所為と責めている訳じゃないよ。ただ、君のおかげとも一概には言えないということさ。本当にその選択で良かったのか、絶対に後悔しないかなんて分からないけど……それでも少しは考えよう。それに君は善人気質なところがあるからね、あまり厄介事ばかりに顔を突っ込んでいると、それこそラノベの主人公もびっくりな状況になるよ。…………ああそれと、最後に』」

「…………」

「『あまり主人公気取りすぎるなよ。……それじゃあ、またね』」

 そう言って。

 詩音の復唱は、終わった。

 完璧に伝言をしたと言って良いだろう。再現率が高すぎる。本当に伝言ランキングとかがあるなら、間違いなくベストスリーに入る。

 しかし、だからこそ。

 腹が立った。

 竜也は紫の肩に手を置くと、

「……すまん。ちょっと、電話してくる」

「……え? あ、ああ、はい。分かりました任せてください」

 誰も何か任せるとは言っていないのだが。

「それと、詩音。今の伝言は忘れて良いからな。それじゃあ」

 すると詩音は、少しだけフッと笑って、

「お気をつけて、如月先輩」

「いや電話するだけだから」

「あれ? 明らかに喧嘩前みたいな顔してましたけど?」

「…………気にしすぎだぞお前。元からこんな顔だ」

「そうですか? そんな気はしないのですが……まあ良いです」

 そう呟く詩音を背にして、竜也は病室を出た。

 ゆっくりドアを閉め、完全に締め切ったところで、

 駆け出した。

 病院を走り回るのは流石に非常識だ。それは分かる。許されるのは小学校低学年までだというのも頭では理解している。理解しているが、それでも理性を塗り潰す程腹が立った。

 来る時に少しだけ建物内の図を見ていたが、この精神科はどうやら中央の正方形に広がる中庭を囲う形で建物が構成されているらしく、真上から見ると漢字の口または片仮名のロのような形状をしているらしい。そのため、中庭へ行けば電話は出来るし面会証を受付に返す面倒な手間がない。

 しかし、奇数階にしか中庭へ通じるドアはないらしく、ここは十階。少し迷った挙句階段を駆け上がり十一階まで上る。すると、廊下の奥の方へ中庭へと通じるドアが見えた。そこまで大股で駆け寄り、勢いで開け放つと、中庭というより中庭を見下ろすデッキ……いや、ベランダのような場所へ出た。

 だが、いくら中庭と言っても外だ。薄ら寒い風が、竜也の頬を撫でた。

 しかしそんなことに構いもせず、竜也はポケットへ手を突っ込み携帯を取り出すと、すぐさま九条の番号へコールした。

 相手は、ワンコールで着信した。

『もしもし? 如月君かい?』

 ただただ無性に、腹が立った。

「っざけんなっっ!!」

 思考をまとめて言葉をどうこうするより先に、口は動いてしまっていた。唐突の叫びの所為か、中庭の樹木にいた小鳥が飛び去っていく。

『……っ、たく、電話越しで普通叫ぶかい? 耳がキーンてなったよ』

「て、め……ッ! さっきの伝言、どういうことだ!!」

『ヤンキーみたいになってるよ』

「るせぇ、元からだ! それで、どういうことなんだオイ!?」

『何がだい? さっきの伝言のことかな?』

「それ以外に何があんだよ!」

 すると唐突に、電話越しで溜息が聞こえた。

『君は自分を否定されたのを怒ってるのかい?』

「は、はあ!?」

『それとも、彼女たちの精神が予想以上に強かったことを嘆いているのかい?』

「……な、」

『残念だけど、どっちにしてもお門違いさ。それで俺に当たられても困る。一日掛けて解いた問題が不正解だからって、採点した人の胸倉掴んだりはしないだろ?』

「…………ッ!」

 今度こそ、ブヂンという音がした。

 こいつは。

 そんなことすら、分からないというのか。

「……ふざけんなよ。俺が否定された? アイツらの精神が予想以上に強かった? そんなことどうだって良いんだよ。そんなことはどうでもいいんだよ!!」

『じゃあなんだって言うんだい?』

「なんで伝言なんかしたんだって意味だっ!!」

 関っただけでそれこそ、死んでしまいかねない『異能』。

 それに関ることに、敢えて協力させるなんて。

 絶対に間違っている。そう竜也は信じている。

『――――っ』

 叫びっぱなしと竜也とは対照に、九条は息を呑んでいる。

 それは、困惑しているようにも思えた。

『――まさか君は、そんなことの為に、そんなに怒り狂ってるのかい?』

「そんなこと? ……もっかい言うぜ、ざけんなよ!! 無関係の人間巻き込んで伝言なんて、どうしたって間違いだろうがよ!」

『……そういうことなら、詫びるよ。そこまで気が行かなかった』

「な、なんだ。やけに素直だな」

『こちらとしては、論点は別の場所に置きたいんだけどなあ。君は一つ勘違いしてるようだけど』

「な、なんだよ」

 

 

『青木詩音は、無関係じゃない』

 

 

「…………………………何言っ」

 言い切る前に、『それ』は起きた。

 真下の階から、凄まじい悲鳴が響き渡ってきたのだ。

 

 

 

 

「あららー。行っちゃいましたねー」

 二人残された病室で、紫が間抜けな声を上げた。

 横から詩音が、少し不安そうな表情で尋ねてくる。

「如月先輩、なんか怒ってるの?」

「よく分かりませんけど、さっきの伝言から考えれば農業関係みたいですね。稲生さんだとか枯れ尾花……まあススキの穂というか、明らかに変なワードですけど」

「じゃあ、何かの暗号とかかな……?」

「その線が一番ありそうですけど、そのグレーな髪のオッサンというのはどんな感じの?」

「えーと……白衣の上から黒いコートというかマントというか……」

「怪しさメーターを全速力で振り切りましたよ今。三百パーセントぐらいの確率でそれは不審者のカテゴリです、通報しても怒られませんよきっと」

「それで窓から入ってきたんだー」

「どうして平然と伝言請け負ってるんですか!? ナースコールという存在を知らないんですか!?」

「なんか怪しい人には見えなかったし……それに、」

「それに?」

 詩音は苦笑すると、

「少しだけ似てるんだ、如月先輩に」

「…………えぇー?」

「怪しまないでよー。似てるって言っても雰囲気がこう、少し似てるってだけで……」

「あれですかね。実は生き別れの兄弟とか」

「あぁ、普通にありそうだよね」

「でもそれ以上に、怪しいというところが似てそうなのは分かります……」

 すると詩音がえぇーと大げさに驚く仕草をして、

「……紫ちゃん、それは酷くないかなぁ?」

「でも昔から、素顔はよく分からないところが多いんですよね」

「…………あー、成程。確かにそうかも」

 得心したようで、詩音はうんうんと頷いている。

「でしょう? 中学校の時なんて、いつのまにか勝手に先輩を『兄貴』と呼ぶ人が五十人ぐらい現れて……しかも上級生ですよ?」

「あー、それウワサで聞いたことある。確か『如月連合』とか出来かけたんでしょ?」

「出来て二日で先輩自身が解散って言いました、確か」

「へえ。如月先輩、あんまり持ち上げられるのは苦手なのかな?」

「そういうのでも……あ、まー苦手っちゃ苦手なんですけどね。それ以上に、あんまり自分が好きじゃないって部分があるんですよね」

 少しだけ影が差した表情の紫を見ながら、詩音は意外そうな顔をする。

 ようやく近くの椅子に腰掛けると、紫は少しだけ溜めてから語り出した。

「こういうのもアレですけど、先輩ってあんまし頭は良くないじゃないですか」

「んー、勉強的な意味ではそうだよね」

「だけど、頭が良いんです。人の心とかそういうのは簡単に察せてしまうし、悩みの種とかも大体は突き止められる。だから人望が勝手に集まるような人でして」

「…………」

 詩音は黙って聞いていた。

「簡単に悩みを察して、悩みの種を見つけて、解消してしまう。そんな自分が嫌なんだと、前に少しだけ聞きました。確かに贅沢な悩みだとか言われてしまうかもしれませんが、先輩は基本的に目立つのは嫌いな人なんですよ。……ここ最近はどうも変ですが。だからこそ、なんて言うんでしょう、その、有能で目立つ自分が嫌いということなんです」

 そんなの、やりたい奴がやればいいだけじゃないか。

 二、三ヶ月前、紫は竜也にそう言われた。

「冷たい人じゃないのは、詩音ちゃんもよく知ってますよね。特に高校入学してからは、冷めた態度を取るようになりましたけど。取り敢えずはその『有能さ』を隠そうと必死だったようですし、『有能さ』を知られれば安全とは言いがたい何かが起こるのもまた事実ではあります。ですけど、それを極端に解釈でもしちゃったんでしょうね……『有能さ』を隠さなければよくないことが起きると、そういう一種の自己暗示的なものになってしまったようです、今年の先輩は」

 そこまで言い終えると、紫は言葉を止めてポケットからティッシュを取り出した。どうやらただくしゃみが出そうなだけだったようで、必死に「へっ……へ……っ、」と堪えている。

 っくしょん! と鼻をかんでいる紫を見ながら、詩音は疑問を感じた。

「……今年の先輩? ねえ紫ちゃん、『今年の』って表現は変じゃない?」

「!」

「普通に今の先輩とかで良いのに……」

 詩音は少しだけ探るような視線を飛ばしながら、

「『今』は……違うの?」

 紫は、少しの間沈黙を貫いた。

 しかしすぐに「ふー」と溜息を吐くと、

「あっちゃー。言葉ミスりましたよ。…………はいそうですよ。恐らくですが、本当に違うのはここ一週間ではなく、八月二十日からです」

「え」

「……ほら、ご家族の失踪ですよ。もう知ってますよね? それすらも先輩は、自分が『有能さ』を隠しきれなかったことの代償かなんかと勘違いしてるんじゃないですか? それに、普通に考えれば自分の家族が丸ごと失踪して、平然としているなんて異常です。それは多分、無意識のうちでしょうけど、その『有能さ』で誰かを助けることで償いとしたい……のではないでしょうか。…………あはは、語りすぎちゃいましたね」

 あははー、と笑って誤魔化す紫に、詩音は率直な感想を言った。

「……頭、良いね。詩音ちゃん」

「私、これでも特待生ですから」

 えへんと胸を張る紫だったが、そこから別の話題を探す前に病室の扉が開き、ナースが入ってきた。

 会話を中断するのに引け目を感じたような顔をしていたが、ナースはすぐに言う。

「もうすぐ面会時間は終了です。これから青木さんは診察なので」

「あ、そうですか……。分かりました」

 とても残念そうな顔をして椅子から腰を上げる紫を見て、詩音もまた悲しそうな顔を浮かべる。

『まだ、お話していたい』

 そう念じてしまう。久しぶりに今の生活で一番の楽しみとなっている友人との会話が出来たのだ。それをもう少しと望んだところで、不思議は無いだろう。

 問題はそれを、強く願いすぎたことだった。

 次の瞬間、何か奇妙な音がした。

 プツンという、何かの筋が切れるような音が連続して響いてきた。

 それは、

「きぁ、ぁぁああああああああああぁぁぁぁあぁぁぁあっ!?」

 ナースの下半身に渡る筋肉の筋が、切断される音だった。

 凄まじい悲鳴を上げながら、しかしその場へ操り人形のようにナースは倒れこむ。当然だ、下半身の筋肉がロクに動かせないのでは、まず足は動かせない

「え、あ、ひ……っ!?」

 訳も分からない紫は、悲鳴にもならない悲鳴を上げながらナースへと近寄る。

「あ、え、な、何なんですかあなたは!」

 しかしその場にいただけの紫に、筋肉の筋が切れたなど分かるはずもなかった。ただ突然奇声を上げてナースが倒れたようにしか見えない。

 当のナースは激痛で涎と涙が垂れているが、それ以外の反応は無い。死んだ訳でもないだろうが、一気に下半身の筋肉の筋を切られて意識を保っていられる人間はいないだろう。ナースが気絶したとやっと理解した紫は、振り返って詩音の方を見た。

 そこに、詩音はいなかった。

 そこには、ただの糸くずの山となったベッドしかなかったのだ。

「し……おん、ちゃん?」

 

 

 おかしい。

 何かがおかしい。

 悲鳴が聞こえた直後、何かが自分の目の前を通り過ぎたのだ。

 それ自体に不思議は無いが、一番の不可解は、中庭を向いていた竜也の目の前を何かが飛来するのは、どうやってもありえないということだ。

 中庭は全て芝生で小石などはないし、鳥が飛来するのにも向きがおかしかった。下から上にならまだ飛び立つのだと予測可能だが、竜也は上から下へと何かが通り過ぎるのだけを認識した。確かに鳥も低空飛行などをする場合は一旦高度を下げるが、垂直落下に近い形ではないだろう。

 ならば答えは。

 上から、何かが落ちたという以外にはないだろう。

 下を覗くとそこには、

 鳥がいた。

 小鳥が、地面に叩き付けられている。

「!?」

 まず残虐性より先に、奇妙さが頭に浮かんだ。

 別の犬や猫なら不思議はないが、鳥はいくら落とそうが投げようが途中で羽ばたくのではないだろうか。いや、そんなのは子供の考えなのかもしれない。そう考えている竜也の目の前で、

 小鳥が、不自然な軌道で浮かんだ。

 小鳥はそのまま植えつけてある樹木へと浮かび上がり、枝に引っ掛かるような態勢で動かなくなった。

「…………あ、れ」

 羽を広げずに。空気を振動させずに。空中に浮かんだ。

 その物理法則を狂わせるような事実が、一つのワードを竜也に連想させた。

 超常的な力――――『異能』。

『おい、如月君。どうしたんだい? 何か悲鳴がきこえたけど?』

 電話を繋げっぱなしだった九条が問いかけてくるが、しかし答える余裕は無い。

 だから竜也は、自分の質問だけを優先した。

「……おい、確かお前って『異能』については詳しいんだよな」

『そりゃあそうさ』

「いきなり鳥が叩き付けられて、その後に不自然な動きをして樹木の枝に引っ掛かった。こんなこと出来る異能はなんだ!」

 そこまで言って、ようやく九条は今言ったことが目の前で起きたのを察したらしい。

『焦るなよ。それは多分「重力」系だけど、分からないのは不自然な動きってやつだ』

「浮いた。羽を動かさないで」

『なら「重力」系で話を進めよう。それ以外にもあるにはあるけど、犯人に心当たりがないんじゃあね』

「今は詩音の病院だぞ。……あいつじゃないのか!?」

『残念ながら、あの子に重力を操るだけの「仝」は感じなかったよ』

「……は、いや。『仝』自体があったってことは、『異能』があるのは確定じゃないか?」

『その通り。だけど言ってるだろう、脅威じゃないって』

「……ちょっと待て!」

 そこでいきなり竜也は、声を荒げた。

「大した『仝』じゃないっても……物体の状態をどうこうすることは出来るんだよな?」

『そりゃあ、それも出来なきゃもう「異能」って呼べないよ』

「………………心当たりがある。切るぞ」

『は? 何言ってるんだい、心当たりも何も――』

 何か言いかけたようだったが、それを意識する前に指が動いてしまっていた。

「……まさか」

 廊下へ戻る。

 階段へと駆けながら、彼はここで思い出そうと思う。

 青木詩音が精神科こんなとこへ来る原因となった、あの事故のことを。

 

 

 青木詩音は当時、小学四年生だった。

 まだこの頃は竜也や紫と普通に雪合戦したりしていた時期であり、一番自由であった時期はいつかと聞かれれば間違いなくこの時となるであろう、ある意味子供だった時期。

 別に詳細を事細かに知っている訳ではないし、かといって聞く気にも竜也はなれなかった為、端的に事実を述べればこのようになる。

 彼女は両親と一緒に電車で出掛け、脱線事故に遭い、両親がシートで圧殺されその顔が更にガラス片でぐちゃぐちゃになるのを間近で目撃した。

 一文にしてしまえる内容だが、しかし小学四年生にはあまりにも重く、深く食い込む出来事だろう。実際、ぐちゃぐちゃの顔面と言っても、口と鼻の位置しか分からないのだ。

 しかし技術は進んでいた。いくら死人だろうと、骨格と細胞の情報があれば顔を復元出来るという『体肉復元技術』とかいうのを使えば、時間はかかるがぐちゃぐちゃの顔面のまま逝かせないで済むと知った詩音は、自分の全財産と母の遺したへそくりを使って依頼をした。二週間程で完了するということで、彼女はその二週間を両親と決別をする期間だと受け取り、一人で考え続けた。さよならをする方法を、自分を納得させる理由を。

 考え、考え抜いた末に決別することを決めた詩音は、復元された両親へと会いに行った。

 しかし、そこで見たのは思い描いた理想ではなかったのだ。

 いくら復元出来るとはいえ、二週間死体を放置しておく訳にもいかず、かといって死体の保存にまで掛けられるほど金はなかった。その為、先に体を焼却処分し、復元の依頼は必然的に頭部のみとなった。

 当然の帰結ではあったが、病院で小学四年生の詩音を出迎えたのは、

 

 

 台座の上に並んで鎮座する、精巧に造られた両親の頭部のみだった。

 

 

 髪の毛の質感も目も痩せこけた頬も何もかもがリアル過ぎて、まるで普通に見れば、両親が断頭されたかのような光景。しかも、微妙に口元が笑みを浮かべていた。

 まるで、こっちにおいでとでも言わんばかりに。

 一緒に、首だけになろうよとでも誘っているかのように。

 そして彼女は、

壊れてしまった。

 

 

 その後、詩音は祖父母関係も全員他界していた為、孤児院である『ひまわりパーク』に預けられた。親戚もいたらしいが、精神科にいく詩音を積極的に引き取ろうとは思わなくとも仕方ないのかもしれない。

 そしてそこから、詩音は学校へ来なくなった。小学校卒業まで彼女は結局登校せず、中学校での再会となる。二年ぶりだというのに、彼女は変わっていなかった。

 そう、変わっていなかった。外見は。

 しかし内面は……今でも、分からない。

 

 

 

「うわっ、ちょっ、あれぇ!?」

 精神科の受付前で、詩音は素っ頓狂な声を上げていた。

 まるでムーンウォークのように、足が前に進もうとしているが後ろに下がってしまうという状態に陥ったのは、今から数分前のことだ。

 突然病室でナースが叫んで倒れこんだかと思うと、自分の体が勝手に一階まで降りて来てしまっていたのだ。

 しかし、それで声を上げていたという訳ではない。

 そんなことでは、ここまでおかしな奇声は上げない。

 今、一番驚いているのは――――、

「…………っ、」

 詩音は勝手に動く体に抗うように、壁に手を押し当てて踏ん張ろうとした。

 だが。

「!」

 ぬるり、と。

 コンクリート製の壁が、まるでぬかるんだ泥のように簡単に形を崩した。ならばと思い、そのぬかるんだ部分に更に腕を突っ込みストッパーのようにしたが、しかしいとも簡単にその周囲の壁もぬかるんでいく。まるで、白いスライムだ。

 しかしこうしている間に、身体の引っ張る力がどんどん強くなっていた。

「ぬ、ぬぬ……ぅっ!」

 完全な液状にはなっていない壁を最大限利用し、どうにか腕ごと突っ込む。肩が嫌な痛みを発するが、異常事態だから仕方がない。我慢するしか方法はない。

 だが、その我慢も時間の問題だった。

 もはや重力さえ無視したような動きで、体は詩音を吹き飛ばすような勢いでもって精神科の病棟から出そうとしている。下半身が完全に浮き、まるで崖で落ちかけて窪みに掴まっているかのような態勢になる。

(く、の…………と、というか、どうして誰も助けてくれないんですか!?)

 頭の中だけで非難をして、ちらりと受付を見る。しかしそこには、いる筈の受付ナースはいなかった。それだけではない、周りの様々な患者やその親族、清掃員もいなかった。

 

 

 そこには、赤子が四十人ほど倒れていただけだった。

 

 

「……?」

 あまりに唐突な出来事な為、思わず腕の力を緩めてしまった、瞬間。

「ぁ、」

 声を上げるよりも早く、詩音の身体は自動ドアのガラスを砕きながら吹き飛んでいく。

 

 

 

 紫は受付へ向かう為、病室のある十階から階段を降りていた。

 しかし、ロクに廊下が視認できないその場所でもやはり異変は起きている。

「な、ん……」

 思わず呆然としながら、階段の下を見る。

 まずは壁と床。全てスライムのようにブニブニになっている。次に手すりだが、これはだんだんと透明なコーティングが剥がれ、中の木材がバラバラに崩れていく。窓ガラスも半液状化し出し、そこらじゅうに倒れている人は全員が赤ん坊となっていた。しかも、赤ん坊が着ていたとは思えないダボダボの病院着やナース服、白衣などは全て糸くずとなっている。強引に破いたのではなく、元からその糸だったような錯覚が芽生えた。

「………………」

 分からない。

 どうやっても分からない。

 世界は、どうなってしまったんだ。

 完璧に狂っているのに、原型を留めていない訳でもない。

 だがそこで、この世界で唯一狂っていない声が響いた。

「だーもう! どうやってもこうなるのかよ!?」

「!」

 声がした方向――階段の上を見る。

 そこにいたのは、

「…………せん、ぱい?」

「…………………あれ、紫?」

 二人とも、目を丸くする。

 この二人だけは、世界が変わっていない。

 双方が双方で、ある意味異常となった二人が、同時に声を発した。

「「…………………………………え?」」

 

 

 竜也は紫と並走するように、階段を駆け下りていた。

 なんちゅうこっちゃ、と言いたい気分だった。

 それが現在の、竜也としての心境だ。

 まさか、

(紫まで巻き込むことになるとか……想像する中で最悪だなぁ)

 と心の中で思いながら、竜也は表情を出来るだけ険しくせずに紫に話しかける。

「なあ」

「なんですか」

「やっぱりお前は、病院から出て待ってたほうが」

「嫌ですよ」

「……あのなあ。さっきから説明してるだろ? 今の詩音は多分、危険なんだよ」

「何がどう危険なのかは説明してないじゃないですか」

「説明しても荒唐無稽なんだよ」

「荒唐無稽以外の何でもないですよ、この状況」

 と、足元に視線を移す。スライムのようにぬかるんでいる、足元。

「いやまあ、確かにな」

 と言いながら、悠々と駆け下りている竜也を見て紫は、

「先輩。最近なんか放課後いなかったりしたのって、こーゆーやつに首を突っ込んで……」

「………………ぐ。………………そ、そうだよ悪かったな」

「別に悪くはないですけど、少し自分を粗末にし過ぎです」

「そうでもないけどな? やっぱり自分が一番な――――」

「自殺を食い止めたのも、自分が一番な結果ですか?」

 竜也は少しだけ驚くような表情をしながら、

「……知ってたのか」

「そりゃ、知らない人はいませんよ? 言っておきますが、例の自殺騒ぎは先輩が救出した人らしいと知って、耳に入れた先生方に慌てて柏木家の名前チラつかせて面倒なお説教をなしにしてあげたんですから」

「えぇっ!? そうなの!? 無駄なトコで活躍するなお前!」

「無駄って言わないでくださいよー!」

「……まーそれなら、お礼に教えても良いか」

 すると竜也は、階段を降りるのを途中でストップした。

 二階のフロアらしいそこで、竜也は紫へ向き直ると、

「……今、詩音はある意味で病気に罹ってる。けどそれは、普通の病原体じゃない」

「……ノロウイルス程度じゃない、凶悪なヤツってことですか?」

「違う。俺も患ってるんだけどな」

 皮肉混じりに竜也は右手をスッと出し、手の平に『時間の膜』で作った灰色の円柱を出現させる。この場全体の時間停止をしない限り、灰色のそれは誰にでも視認できる筈だ。

「……………………………え、と。なんですかそれは」

「九じょ……知り合いの専門家モドキが言うには、『異能』っつーらしい」

「なんとストレートな……」

「呼び方はまあいいだろ。重要なのは、こういう力に飲み込まれる場合があるってことだ。知り合いが言うには、なんだっけな――『「異能」の発現した原因を上手く認識していないか、無意識かまたは意識的に拒否していると、飲み込まれやすい』とかなんとか」

「つまりは……暴走状態ってことですか?」

「有り体に言えば、そうだ。止めるには、使用者を殺すか――原因を上手く受け入れさせることだ」

「げ、原因って、なんの…………?」

「全部の『異能』には、それぞれ発現した理由があるらしい。よく聞く言葉なら、トラウマってやつだな。それが刻まれるような体験を何年のでもいいが、八月二十日にすると、低確率で発現する……んだったな。多分」

「それは、その、説得とかでも大丈夫なんですか?」

「大概はそうする。そうしなきゃ、相手を傷つけなきゃならないからな」

「そんな……!」

 紫が演技ではない、素の顔を悲しそうに歪ませる。

 それほどまでに、詩音が心配なのだ。その気持ちは竜也も同様だが、しかし経験者として少し困ったことが一つある。

 それは、

「…………紫。お前は、詩音の友達か?」

「当たり前です。世界一の友人ですよ」

「そっか。……なら、詩音の世界一の友人に、一緒に考えてもらいたいことがある」

「はい」

「詩音の……トラウマについてだ」

 詩音のトラウマは、どう考えても先の復元された両親の頭部なのだろうが、しかしそれにどのような悩みを抱えているのか、よく分からないのだ。

 単純にショックなのは分かるが、それ以外の理由では引っ掛かりはないはず。両親を失ってからの詩音とも過ごした竜也は分かる、彼女はもう踏ん切りをつけていた。

 なのに今更、なにをトラウマの切っ掛けとしているのか。

 それとも、六年前の出来事の時に既に、『異能』は発現していたのか。

 分からない。

 だが、詩音と最も長く一緒にいた親友なら。

 分かるかも、しれない。

「…………多分、悩んでるのは『そこ』じゃありません」

「は? ……『そこ』じゃない…………?」

「はい。恐らくは……いつまでも『そこ』から動けない、自分のことを…………、」

「……どうした、何か気付いたか?」

「………………」

 紫は真顔のままフリーズしており、そのまま微動だにしない。

 あまりに突然だった為、流石に心配になってきた時だった。

「…………あ」

「あ?」

「あ、あぁぁぁああああああ!」

「うおっ!?」

 突然、何かをようやく理解したかのような声を紫があげた。

「な、何だよお前っ、ビックリすんだろ!」

「せ、先輩! 私達はずっと……その、『異能』? に晒されてたんですよね!?」

「いや、まあ詩音が無自覚タイプなら……」

「……重要なことです。それでいて、根本的なことに気付いていませんでした」

「ど、どうしたんだよマジで。気付いたことがあるなら教え」

「その前に、です。先輩は詩音ちゃんの『異能』がどんなものか、知っていますか?」

「仮説、というか予測はある」

「教えてください」

 言われてしまっては仕方が無いので、竜也は自分のそれなりに自信のある仮説を紫に出来るだけ要約して教えた。我ながら上手くまとめたものだ、と思う。

 伝え終えると、紫は再び少し考え込んだ後、

「……先輩は『これから相対する「異能」について』対策を打とうとしてるんですよね?」

「あ? そりゃまあな」

「それが、勘違いだったんですよ」

「……………………どういうことだ?」

「私達はずっと、『異能』の攻撃を浴びていたんです。だからこんな間違いをした」

「『こんな間違い』?」

 竜也が首を傾げていると、紫は懇切丁寧に説明してくれた。

 そしてその説明を聞いた途端、初めてではない感覚が竜也の体を包み込む。

(こ、れ……は……)

 そう、初めて体験したのは『妄想』の騒動時だ。

 竜也はあの時、平崎の妄想によって生み出されたのがB組だと理解した途端、平崎以外の『妄想によって構築された生徒』が視認不可となり、言うなれば現実を直視した。

 それと同じだ。

 今まで当たり前と思っていたが、しかしきっかけがあると、途端に鍍金が剥がれ出す。現実という素材をコーティングしていた、虚像の鍍金が。見方を変えれば、すぐ分かる。

 これは、『異能』による偽装を見破った時の感覚。

 竜也はしばらくその感覚に浸ると、自分の意見を口にする。

「確かにそれは、意図的な操作を感じるな……」

 そして再び少しだけ黙り込むと、自分の中で意見を帰結させたらしい。「行こう」と一言宣言し、紫と一緒に再び走り出した。

「……それにしてもお前、勉強以外でも冴えてるんだな」

「だから特待生ですよ、私」

 

 

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