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この平穏な世界にようこそ

 僕は自分が赤なのか青なのか、それを確かめようとした。

 すると黒だった――当然混乱して然るべきだったのだが、自分でも意外なほど簡単にそれを受け入れた。


 そうか、黒か。赤でもなく、青でもなく、黒なのか。


 見慣れぬ同僚におざなりに挨拶をしながら、砦を見回った。これ以上ないほど素晴らしい要塞だった。あまりに理想的なので建築上の不合理があるのではないかと思ったほどだった。柱の死角から敵が現れた。それは黒い影だった。僕は躊躇することなく剣を抜き放った。


 僕には守るべき人はいなかった。


 戦う理由もなかった。


 けれど、剣が与えられている。


 ゆえに、戦った。


 どれだけ傷ついても、どれだけ血を流しても、僕は動き続けた。


 手足が切断されても、首が飛んでも、心臓を貫かれても、僕は斃れなかった。


 ただひたすらに敵に向かい、屍を積み上げた。全ては無臭、無音の中の出来事だった。


 これが夢であることに、いつ頃から気付いていただろう。


「夢から醒めなければいいのに」


 僕はいつも、こう呟く。心の底から、そう思うからだ。しかしこの台詞は、困ったことに、僕を夢から浮上させる合言葉だった。僕が覚えている限り、この台詞を発して醒めなかった夢はない。


 案の定、僕はこうして夢から醒めた。粘り気のある水面からすっと躰を引き上げるときのような、肌を撫でるくすぐったい感触が、疲労の残滓を掬い取ってくれている気がした。

 僕は食堂の椅子を三つ並べて、そこに寝そべっていたようだった。薄暗い。むくりと躰を起こして、真っ先に目に入るのは、真紅の旗幟であった。


 そうか、僕は赤だったか。少し前まで、青だった気がするが。


 半端に伸びた黒髪に乱暴に手櫛を入れ、立ち上がった。厨房から明かりが漏れていた。誰かが食糧庫に忍び込んで、つまみ食いでもしているのだろうか。今は夜明け前のはずだ……。


 躰の節々が痛い。軽鎧を着たまま横になっていたので、無理もない。椅子の背に立てかけてあった得物を腰に吊るし、食堂を出ようとした。


「待ってよ、ねえ、待ってよ」


 廊下のほうから声がした。女の声だ。聞き覚えがあるような気がするが、顔と名前までは思い出せない。ただ、戦場に立ったとき、その独特の息遣いを聞いたことがあるような。


 僕は食堂の入口に突っ立っていた。廊下からやってきたのは二人の女性で、僕の姿を見るなり腰を抜かした。

 一人はろくに話したこともない人だったけれども、もう一人とは長い付き合いだった。長いと言っても、たかだか六週間ほどなのだが。


「あっ、なーんだ、隊長さんじゃない」


 僕を見てほっとしたように、六週間の付き合いの女性が言った。新顔の女性は幽鬼でも見るような目つきで僕を睨んだ。


「隊長さん? ああ、この人がそうなんだ。こんなところで何やってんですか?」


 僕は新顔の声を覚えた。人の顔や名前を覚えるのは不得意だが、声なら別だ。新顔の声は女性にしては低く、発声が不明瞭だが、その一方で温かみを感じる。今は警戒心が優っているようだが、根は優しい女性だということが分かった。


「寝てた。きみたちは?」


 僕の質問を、二人の女性は顔を見合わせて軽く笑い合い、受け流した。それから、六週間の付き合いの女性が、僕の顔をまじまじと見つめ、にやりと笑う。


「隊長さん。私の名前を憶えてます?」


「え? ああ――何度か聞いたね」


「憶えてないんでしょ? リューちゃん、この人酷いんだよ。何回私の名前を教えても、憶えてくれないの。いい、隊長さん、私の名前はね」


 六週間はまた名前を言った。しかし全く頭の中に入らなかった。努力していないわけではないのだが、どうも頭の中の記憶を司る部分が、余計な情報を仕入れることを拒絶しているようだった。


 その一方で、リューちゃんと呼ばれた新顔の女性の名前は、きちんと耳に入っていた。僕だって、全ての人の名前を憶えられないわけではないのだ。しかし、その成果を発揮する機会は滅多にない。


 僕はリューちゃんの顔を見た。彼女は怪訝そうにした。


「何ですか」


「何歳?」


「一六歳ですけど」


「配属されて間もないわけだ」


「一五歳の誕生日に訓練所に入って、半年で卒業しました。それからは現地で指南を受けて、つい最近前線に配属することが決まり、三日前、この安っぽい砦に着きました」


「じゃあ、戦争はまだ経験してないんだね」


 リューちゃんはやや鼻息を荒くした。


「魔導人形を使った模擬戦争なら、何度もありますけどね。訓練所での成績は上位でした」


「そうか。頼もしいな」


「はい、まあ」


 頼りない隊長だ、と言わんばかりに、リューちゃんは肩を竦めた。


 僕は二人とすれ違いざまに、


「つまみ食いなら先客がいるよ」


 と教えてあげた。


 二人はびくりとして僕を振り返った後、曖昧に笑った。


「見逃してくださいね。罰金とか喰らいたくないんで」


 六週間が言った。僕も笑い返したのだと思う。二人はほっとしたように互いの目を見た。


 僕は廊下を歩きながら、この覚醒し切れない躰を引き摺って、何をしようか、考えていた。外に出て夜明け前の荒野を眺めるか、訓練所に行き人形相手に汗をかくか、それとも女性二人に倣い、錠の壊れた食糧庫に詰めかけるか。

 しかし僕は景色を楽しむような雅趣心も、武芸を磨き高みを目指す戦士としての向上心も、生への渇望にも似た果てなき食欲も、持ち合わせていなかった。つまるところ僕は暇だった。戦争がないとき、僕は暇を弄び、何をしていても地に足が着かない思いを味わった。


 それはもしかすると、都で平穏な日常を過ごす人から見れば幸福な日々なのかもしれない。けれども、そういった想像力を駆使するのも、最近は倦んでしまった。他人が何を考え、何を信条に置いているかなんて、実際のところ、分かるはずがない。分かるはずもないことを考えるのが普通なんて、人間とは何と不毛な運命を背負わされている生き物なのだろう。


 僕は何所へ行くのか結論を出せぬまま、廊下の端まで歩き続けた。しかしこういうとき、鐘というものは良い仕事をするもので、砦中にその不愉快な金属音を響き渡らせた。


 それまで寝静まっていた砦が一挙に活性化した。まるで地鳴りだった。部屋という部屋から寝惚け眼の少年少女が顔を出し、着慣れない鎧だの靴だのに手間取りながら、一応は臨戦態勢を整えていった。


 この鐘は敵襲の合図。


 それと同時に僕を生き返らせる天使の声。


 惰眠と安寧と知的欲求の充足こそ至上の幸福と捉えている穏やかな人々にとっては、これからの時間は恐怖と絶望で気が狂いそうになるだろう。


 しかし僕や、刺激を求めて戦士になることを求めた愛すべき同類たちは、この瞬間を待ち望んでいたはずだ。


 外に出た。

 青の旗幟を掲げた戦士の隊列が荒野の彼方から駆けてくる。僕は律儀にも閲兵場に並んだ部下を見回した。多くの者が初めての戦争らしく、緊張と興奮の入り混じった顔をしている。


「きみ、名前は?」


「は? ルードですけど」


「きみは?」


「ロイテルです」


「きみは?」


「ぼくは――」


 次から次へと部下の名前を訊ねた。僕は大半の者の名前を憶えることができた。

 激しい戦闘になりそうだ。ゾクゾクする。気合いを入れて声を張り上げた。


「準備は良いか。僕らは赤だ。青い旗印を掲げた者だけを斬るんだ。友軍を攻撃すると罰金の上に永久追放。家族に迷惑がかかるぞ。相手も新人ばかりだから、技倆の差はほとんどない。だから安心しろとは言わない。ただ、懼れるな。それと、ノミ屋を介して賭博に興じている奴もいると思うけど、正規の手続きを踏んだほうが安全だぞ。僕は一回、それで痛い目に遭ったことがあるから」


「隊長――」


 名前を憶えることができない、六週間の付き合いの女性が、手を振っていた。


「若いコたちが怖がってますよ。隊長の戦績を教えてあげたら、安心できるんじゃないですか?」


「戦績? ああ、どうだったかな……。ええと」


「私が言いましょうか?」


「頼むよ、ええと……、うん」


「私の名前、もう忘れましたね」


「ごめん」


「もういいですよ。こほん、皆、聞いてね。我らが隊長の名は●●●。●●●っていうんだ。おっと、知ってる人もいるみたいだね。そうなのよ、百人斬りの●●●とは彼のこと。戦績は三三勝四敗一四分。現役の戦士の中では五指に入る強者なんだから」


 おお、と声が上がった。僕は簡単な計算をして、もう自分が五一回も参戦していたことに驚いた。つい最近、戦士になったと思ったのに。そう言えば先輩が味方にも敵方にも一人として見当たらない。いつの間にか僕が最古参となり、全く向いていないことが初対面の人間でも分かりそうな、部隊長まで押し付けられている。


 まだ一八歳なんだけどな。無理をしたい年頃だ。僕みたいな無責任と無鉄砲を混ぜ合わせて出来たような人間でも、部隊長という薄っぺらな肩書き一つで、枷を繋がれた気分がするのだから、なるほど、大人たちが肩書き一つに拘泥するのも、理解できる気がする。


 砦の射手台に乗った赤の戦士が、襲来する青の戦士に矢を射かけた。と、言っても、射手は二人しかいなかった。これは互いの部隊で取り決められた事案で、今回は白兵戦を中心にやって行こうという、胴元側の采配だった。


 夜明け前で、あまり明るくないが、放送は大丈夫なんだろうか。戦場の端に立つ赤いローブを着た少年たちを一瞥した。彼らは僕の案じたことを察したか、大きく頷いた。


 ああ――始まる。


 僕は隊の先頭に立って、息を荒げながら駆けてくる愛すべき青の同胞たちを見据えた。僕と彼らは斬り結ぶ。互いに憎んでいるからではない。けして譲ることができない大義があるからでもない。


 ただ僕と彼らはここに立つことを望んだ。そして、殺し、殺されることが幸福であると考えた。


 こうした考え方は一般的に広く認められている。一つの価値観として、保護されるべきものらしい。保護なんかされなくても、僕は戦場に立ち続けることに躊躇なんかしないけれど、全ての人間が俗世のしがらみを捨てられるわけではない。


 いや、ここも俗世だ。


 ここが僕の居場所なんだから、特別でも何でもない。ここに来る前は、きっと、自分が何か得体の知れないものに変貌するのだと思っていた。実際は何も変わらない。戦士になる前も、なった後も、僕は変わらず戦場が恋しい。


 青の戦士の群れに突撃した。僕は抜剣し、その不壊なる妖剣で早速一人を斬り殺した。その憐れなほど弱い戦士は、自分が何を求めてここに来たのか最後まで分からない顔をしていた。


 妖剣は血を吸い、膏を溶かした。そして次の獲物を待ち焦がれる。僕に槍を突き入れる者がいたが、軌道が逸れた。味方に押されて狙いを外したらしい。


 その絶望に満ちた顔をじっくりと観察してから、僕はそいつを斬り殺した。これが僕の平穏だった。その者の絶叫が鼓膜を震わせ、強固な記憶として頭に刻み込まれる。これが日常だった。


 僕とは違った価値観を持った都に住む人々の為に、戦争の光景を撮影する赤いローブの少年たちが、滅茶苦茶に殺し合う少年少女たちの周りを慌ただしく巡る。ちょっと無謀な奴は戦場の中心まで入り込んできて、より刺激的な映像を確保しようとする。そういう奴は例外なく新人で、僕は目に付き次第殺すことにしている。別に恨みや憤りがあるからではない、戦士に斬り殺されるというのがどういうことなのか、映像を通して伝えることが、僕が都に住む人間に課せられた使命だと思うからだ(単純に言うと、ウケが良いのだ)。


 それから僕は無我夢中に戦った――どいつもこいつも話にならないほど弱かった。別にそれはそれでいいのだが、そんな青の部隊に押される、我らが赤の部隊が何とも情けなかった。戦局は七対三で青の優勢。間もなく、赤に降伏許可が降りるだろう。全兵力の三割が失われた部隊は、隊長の宣言によって、降伏が可能だ。


 しかし僕は降伏するつもりがなかった。同じ部隊の仲間からは恨まれるかもしれない。中には死なずに安全な都へ帰りたがる者もいるだろう。金目当てで参戦し、早く離脱することだけを考えて戦場を這い回っている者もいるだろう。


 しかし僕はそんな人たちに意地悪をしたいわけではなく、ただ、この瞬間を楽しんでいる連中の邪魔をしたくないだけだ。楽しんでいる連中というのには、もちろん、僕自身も入る。この瞬間の為だけに生きている者がいると確信しているから、僕が死ぬか戦う相手がいなくなるまで、戦う。


 群がる青の戦士を斬り続け、十まで数えたとき、笛の音が鳴った。降伏許可が降りたのだ。しかし僕は予定通りそれを無視した。敵方の戦士は驚いたようだ――中には無防備なまま僕に斬られる戦士もいる。笛の音が終戦の合図だと勘違いしたお馬鹿さん。


 ああ、これが日常なんだ。やっと僕はここに戻って来れたんだ。血で躰を清め、屍の臭気を全身に浴びながら、僕は無表情のまま喜びを表現する。


 なんて幸福な時代だろう。


 魔導器の発達によって食物の大量生産が可能となった。ゆえに飢餓はない。強大な魔導兵器を独占した平和維持軍の活躍によって領土紛争もない。誰もが豊かで、自分が善いと思う人生を歩むことができる。長く細い人生を歩むこともできれば、細いか太いかも分からないほど短い生涯で全てを終わらせることもできる。


 この世にある戦争は空虚だ。誰かの意図によって生まれ万人が了承した善き戦争が、僕たちのような人間の受け皿になってくれている。


 そして僕は、戦場に駆り立てる砦の鐘の音が、あるいは奇妙な昂奮で雄叫びを上げる幼い戦士の声が、偽りの世界に沈む僕を呼び覚ます誰かの声のように思われて仕方がない。


 ようこそ、平穏な世界へ。


 僕は、ここ以上に幸せな世界を、想像できない。


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