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72話:せっかくわたくしが可愛らしく呼んで差し上げましたのに、その態度はなんですのー!?

「へ?」


 ミレアの薄い唇から、彼女の普段のクールなイメージからはおよそ似つかわしくない、ひどく間抜けな声が漏れ出た。

 数々の数式を解き明かし、最先端のマキナ技術を牽引してきた天才の脳が、レタリアの刹那の即答によって、完全にフリーズしてしまったかのようだった。


 完全に形勢が逆転したその様子を見て、レタリアはベッドの上で小さく胸を張り、実になだらかな動作で口を開く。


「あなたが、そうした方が良いと思って言ってくれたのでしょう? ――なら、わたくしがそれを疑う余地など、どこにもありませんわ」


 ふふん、と誇らしげに、しかし確信した声音でレタリアは言いきった。

 あまりにも真っ直ぐで、一片の濁りもない信頼の眼差し。それを正面から受け止めたミレアは、普段の冷静さをどこかへ置き忘れたように、珍しくおろおろと視線を泳がせ、逆にレタリアを制止させようとしてしまう。


「で、でも、そんなに早まったら……。もう少し、こう、よく考えた方がいいんじゃないかしら? 戸籍を移すということは、公的な記録に一生残るし、私の親族としての責任や義務も、あなたに発生することになるのよ……?」


 論理的であることを信条とするミレアが、あろうことか自ら持ちかけた提案に対して、支離滅裂な防衛線を張っている。完全に混乱の渦中にある彼女をレタリアは見つめ、言葉を重ねた。


「ミレア。あなたが今まで、わたくしの為にならない事をしたことが、ただの一度でもありましたかしら? この世界に放り出されたわたくしに居場所をくれて、剣も騎士も与え、言葉を尽くしてくれた。……もう、そんなことは分かっておりますのよ」


 自信満々に、そして誇らしげに微笑むレタリア。その表情には、かつて元の世界で歪んだプライドに縋り付き、誰も信じられずに周囲を睨みつけていたかつての面影はなかった。正しい場所で、正しい人と出会い、愛されていることを自覚した少女の、あまりにも気高く美しい強さがそこにはあった。


 そのレタリアの姿をじっと見つめていたミレアは、やがて、自分がどれほど杞憂を抱いていたかを悟ったのだろう。張り詰めていた肩の力が、すとんと抜けていく。


「……そう。ふふ、本当に敵わないわね、あなたは」


 ミレアの端正な顔立ちが、今度こそ、心の底から柔らかく綻んだ。

 いつもどこか一線を引いていた紫の瞳が、今はレタリアを本当の身内として――守るべき大切な家族として、温かく映し出している。


「ありがとう、レタリア」


「お礼を言うのはわたくしの方ですわよ、ミレア。……ふふっ、これからも宜しくお願いしますわ」


 レタリアは少しだけいたずらっぽく首を傾げ、最高の笑みを浮かべて、その名を呼んだ。


「――お姉さま?」


「……っ、その呼び方は、流石にまだ耳に慣れないわね」


 ミレアは一瞬だけ驚いたように目を見張ったあと、決まり悪そうに顔を背けた。白皙の頬が、ほんのりと朱に染まっている。普段、ラボで指示を飛ばしている彼女からは想像もつかない、あまりにも初々しい姉としての反応だった。


「なんでよ! せっかくわたくしが可愛らしく呼んで差し上げましたのに、その態度はなんですのー!?」


「可愛らしく、ねぇ……。いつもの高笑いが混ざりそうで、なんだか落ち着かないのよ」


「失礼なことですわ! わたくしはいつだって気高く、可憐ですわよ!」


 ぷう、と頬を膨らませるレタリアと、それを見てついに耐えかねたように声を上げて笑い出すミレア。

 部屋の外では、相変わらず人工の雨がしとしとと窓を叩いていたが、室内に満ちる空気は、先ほどまでの物憂げな静寂が嘘のように、明るく、そして温かいものへと変わっていた。


 ひとしきり笑い合ったあと、ミレアは再びレタリアに向かい合った。


「よし、それじゃあ手続きは私の方で行っておくわね。上の人間への根回しも含めて、明日にはすべて完了させておくわ。……ああ、そうそう。ひとつ伝えておかなきゃいけないのだけど、籍を入れるにあたって、あなたはこれまで通り『アーデニアム』を名乗っても良いし、私の姓である『イチノセ』を名乗っても良いわよ」


 優しい口調で語りかけてくるミレア。


「わかりましたわ」


 レタリアは素直に頷いた。この世界で過ごすうちにある程度の『お作法』を理解してきていた。そしてこのセルディアという社会において、『イチノセ』という名前を使った方が、今後様々な面で事が運びやすいケースがあるということくらい、想像がつく。


 なにより、自分を無条件で庇護してくれた「姉」の姓である。ならば、どちらか一方を選ぶなどという妥協は、このレタリア・アーデニアムの辞書には存在しない。


「決まりましたわ! これからは、両方の良いところを取って――『レタリア・アーデニアム・イチノセ』ですわね!」


 完璧な名案だと言わんばかりに、レタリアは腰に手を当てて胸を張った。公爵家の誇りである「アーデニアム」と、新たな家族の絆である「イチノセ」を合体させた、実に見事なフルネーム。


 ミレアはじとーっとした半眼でレタリアを見つめ、静かに、しかし明確に言い放った。


「……それは違うわ、レタリア」


「へ? 何が違いますの?」


「名前はそういうシステムでつくものじゃないから、使い分けていいってことよ」


「なんですってー!? わたくしの高貴なひらめきをシステム風情が拒絶するなんて、ふざけるなーですわー!」


 再び始まったレタリアの賑やかな抗議の声を聞きながら、ミレアは今度こそ、呆れ果てたような、しかしこの上なく幸せそうな苦笑いを、その表情に浮かべるのだった。

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