第1話 星を見上げる少年
ステルヘイム暦2026年 ―― ルミナール
「レオ兄、あの星にも人が住んでるの?」
ミラが指さした先には、青白く輝く星があった。
第三軌道居住区の展望デッキ。大きく湾曲した窓の向こうには無数の星が広がり、その手前を一隻の貨物船がゆっくりと横切っていた。遠くにはルミナールの港湾施設が連なり、発着する船の航行灯が星々に紛れて瞬いている。
「どうだろうな。まだ調べてない星もあるから」
「じゃあ、誰も知らないの?」
「そういうこと」
「レオ兄が調べに行けばいいじゃん」
レオルは笑った。
「船も持ってないのに、どうやって行くんだよ」
「お父さんに借りたら?」
「父さんの船は巡視艇だぞ。勝手に持ち出したら捕まるって」
「じゃあ、ミラがお金貯めてあげる」
「そりゃ助かるな」
「でも、お土産買ってきてね」
「何がいい?」
「きれいな石。知らない星の、ピカピカのやつ」
「石なら、ここでも買えるだろ」
「知らない星のがいいの!」
レオルは妹の差し出した小指に、自分の小指を絡めた。
「分かった。約束な」
ミラは満足そうに笑い、再び窓へ顔を向けた。
レオルも星々を見上げた。
ルミナールから延びる航路は、どれも何百年も前に開かれたものばかりだ。新しい交易路が次々と発見され、かつて商船で賑わったこの国の港は、年々静かになっている。
けれど、まだ誰も通ったことのない場所だってあるはずだった。
自分の船で、そこへ行く。
そう考えている時間が、レオルは何より好きだった。
「レオ兄、あの船、こっちに来てない?」
ミラの声で、レオルは我に返った。
さっきまで窓の端に見えていた貨物船が、いつの間にかずいぶん大きくなっている。
「あれ?」
レオルは窓へ近づいた。
船首がこちらを向いていた。
この航路を通る船なら、居住区の外側を回り込むはずだ。
「変だな……」
端末を取り出したとき、展望デッキの照明が赤く変わった。
耳をつんざく警報が鳴り響く。
『緊急事態が発生しました。第三軌道居住区の皆様は、直ちに指定退避区画へ移動してください』
窓際にいた人々が、一斉に振り返った。
「レオ兄?」
ミラが服の裾をつかんだ。
レオルは貨物船を見た。船は減速していない。むしろ、さっきよりも速く近づいているように見えた。
「ミラ、行くぞ!」
妹の手を握り、出口へ走った。
*
『第三居住区への衝突予測、六分四十秒』
巡視艇の艦橋に、船の運航を担う《アルゴ》の声が響いた。
アーデン艇長は手元の報告書を閉じた。
「船籍は?」
『ヘリオン共和国。貨物船。無人運航として登録されています』
「呼びかけは?」
『応答なし。外部からの航行制御も受け付けません』
副長が航路図を拡大した。赤い予測線が、第三居住区の中央を貫いている。
「故障か?」
「分からん。アルゴ、中央管制につなげ」
通信が開いた。
『《ハルバード》、こちら中央管制。対象船への武器使用を禁止する』
「待て。衝突まで六分しかないぞ」
『ヘリオン側から、航行制御を回復できる見込みとの回答があった。現在、緊急停止を要請している』
「見込みじゃ困る。いつ止まる?」
『確認中だ』
アーデンは顔をしかめた。
「こっちでも警告を続ける。だが、間に合わなければ撃つ」
『許可できない。積荷と船内の状況が確認できていない。外国の民間船への発砲は、武力攻撃と受け取られる恐れがある』
「八万四千人が暮らしてるんだぞ」
『承知している。命令に変更はない』
通信が切れた。
副長が椅子の背にもたれた。
「向こうは本当に止められるんですかね」
アーデンは答えず、アルゴに尋ねた。
「こちらから進路を変えられるか?」
『牽引は間に合いません。推進器を破壊すれば、進路を逸らせる可能性があります』
「破片は?」
『居住区に到達する危険があります』
「どの程度だ」
『船体の破損状況によって変わります。現時点では確定できません』
アーデンは予測線を見つめた。貨物船はまだ、真っすぐ居住区へ向かっている。
「アルゴ、ヘリオンへの呼びかけを続けろ。副長、居住区の防災管制と直接つなげ」
「了解」
アーデンは背もたれから身体を起こした。
「避難を急がせろ」
*
避難通路は人で埋まっていた。
「押さないでください! 走らないで!」
係員の声が警報にかき消される。
レオルはミラの手を握り、壁際を進んだ。前方の案内表示には、最寄りの退避区画まで三百メートルと出ている。
「レオ兄、何があったの?」
「船が航路を間違えたんだ。すぐ何とかなる」
「ぶつかるの?」
「ぶつからない。父さんたちがいるから」
口にしてから、レオルは自分の言葉が妙に頼りなく聞こえた。
『衝突予測まで四分。退避区画の収容を急いでください』
前方で人の流れが止まった。レオルが背伸びすると、退避区画の入口に人が殺到しているのが見えた。
「満員です! 第七退避区画へ移動してください!」
係員が別の通路を指している。
レオルはミラを抱き上げ、人混みから抜け出した。
「ミラ、ちょっと走るぞ」
「うん」
妹を下ろし、再び手をつないだ。
二つ目の角を曲がったところで、端末が震えた。母からだった。
『レオル! 今どこにいるの!?』
「第三居住区! ミラも一緒!」
『どうしてそんなところに――』
「展望デッキに来てたんだ。今、避難してる!」
母の声が一瞬途切れた。
『ミラは? そばにいる?』
「いるよ!」
『お願い、絶対に離さないで』
「分かってる!」
通信を切ると、ミラが不安そうに見上げていた。
「お母さん、怒ってた?」
「帰ったら怒られるな」
「レオ兄が連れてきたって言っていい?」
「おい、ずるいぞ」
ミラが少しだけ笑った。
レオルも笑おうとしたが、頭上の表示を見て足を速めた。
残り三分。第七退避区画の入口は、まだ見えなかった。
*
『衝突まで二分二十秒』
《ハルバード》に中央管制から通信が入った。
『ヘリオン側からの制御回復報告はない。武器使用禁止命令は継続する』
アーデンは返事をしなかった。
「艇長、もう間に合いません」
副長の声を聞きながら、アーデンは航路図を見つめていた。赤い線は依然として居住区を貫いている。
「アルゴ。推進器を狙えるか」
『可能です。ただし、破壊後の進路は保証できません』
「分かってる」
「艇長、撃つんですね」
「ああ」
副長は短く息を吐き、自分の端末を操作した。
「居住区の防災管制へ最終警告を送ります」
アーデンはうなずいた。
「アルゴ、射撃準備」
『中央管制の許可がありません』
「俺の命令で実行しろ」
『了解。命令違反として記録します』
正面の画面に照準が現れた。
『照準完了』
「撃て」
閃光が走り、《エルナ》の推進器付近が爆発した。巨大な船体が傾き、航路図に新しい予測線が描かれる。
『進路変更を確認』
「逸れたか?」
副長が身を乗り出した。
『衝突予測は継続。外縁構造物への接触が予測されます』
船体は居住区の中心から外れたものの、外側の居住ブロックへ向かっていた。
「もう一度、船尾を狙え!」
『現在の射線では貨物区画に命中します』
「船尾側へ回り込めるか?」
『可能。ただし、射撃可能時間は極めて短くなります』
「やれ!」
《ハルバード》が急加速した。副長の身体が座席へ押しつけられ、正面の画面を貨物船の船体が埋め尽くしていく。
『衝突まで三十二秒』
「まだか!」
『姿勢制御中。衝突まで二十一秒』
副長が叫んだ。
「艇長!」
『射線確保。残り十六秒』
「撃て!」
二度目の閃光が《エルナ》の船尾を貫いた。
貨物船がゆっくりと回転し、船首が居住区の外殻をかすめるように通り過ぎていく。
『衝突を回避しました』
副長が大きく息を吐いた。
「……助かった」
だが、アーデンは画面から目を離さなかった。《エルナ》の船尾から無数の破片が広がり、その一部が居住区へ向かっていた。
『警告。高速破片群の一部が居住区へ向かっています』
「防護網は?」
『迎撃中。複数の破片が防護範囲を突破しました』
アーデンは通信を開いた。
「中央! 破片がそっちへ向かっている! 外縁区画の隔壁を閉めろ!」
『こちらでも確認している!』
「被害予測は?」
アルゴの返答が、一拍遅れた。
『第三居住区、第六から第八外縁区画に損傷の可能性があります』
アーデンの手が止まった。
第七区画。
今朝、妻から届いた家族の予定が頭をよぎった。レオルがミラを連れて第三居住区の展望デッキへ行くと言っていた。
「……アルゴ」
『はい』
「家族の端末につないでくれ」
『通信回線が混雑しています』
「何度でも呼べ!」
*
第七退避区画の隔壁が見えた。
「ミラ、あそこだ!」
レオルは妹の手を引いて走った。入口では係員が人々を誘導しており、隔壁の向こうには、すでに大勢の避難者が集まっている。
「急いで! あと少しで閉鎖します!」
レオルはミラを前へ押し出した。
「先に行け!」
「レオ兄は?」
「すぐ後ろ!」
あと十メートル。
そのとき、床が跳ね上がった。
何かが遠くで破裂し、通路全体が大きく揺れる。レオルは壁に肩を打ちつけ、手をついて転倒をこらえた。
照明が消え、悲鳴が上がった。
「ミラ!」
暗闇の中で妹の手を探すと、すぐ近くから声がした。
「レオ兄!」
伸ばした指先に小さな手が触れた。レオルはその手をつかみ、非常灯が点灯するのを待たずに走り出した。
隔壁の向こうで、係員が叫んでいる。
「早く! 急いで!」
突然、天井の奥で金属が引き裂かれるような音がした。
通路の端から白い霧が噴き出し、壁面の警告灯が一斉に点滅する。
『区画損傷。緊急隔壁を閉鎖します』
「待ってくれ!」
レオルはミラを抱えるようにして入口へ飛び込んだ。
隔壁が動き始める。
あと数歩。
その瞬間、背後から猛烈な風が吹きつけた。
レオルの足が床を離れ、妹を抱えていた腕が引き剥がされる。必死に手を伸ばしたが、指先はミラの鞄の持ち手に引っかかっただけだった。
「レオ兄!」
声がした。
レオルは振り返ろうとしたが、避難区画の内側から伸びてきた腕に身体をつかまれ、そのまま床へ引き倒された。
重い隔壁が閉じる。
鈍い衝撃が足元から伝わった。
しばらく、自分がどこにいるのか分からなかった。
「……ミラ?」
レオルは身体を起こした。
周囲には避難してきた人々が座り込み、負傷者を運ぶ係員の声が飛び交っている。
妹の姿はなかった。
「ミラ!」
立ち上がろうとして、右手に何かを握っていることに気づいた。
妹の小さな鞄だった。持ち手の片方が千切れている。
レオルは隔壁へ駆け寄った。
「開けてくれ! 妹が向こうにいる!」
係員が走ってきた。
「駄目だ! 向こうは減圧している!」
「まだいるんだよ!」
「危険なんだ!」
「ミラがいるんだって!」
レオルは係員を振り払い、扉の操作盤に手を伸ばした。
赤い警告が表示される。
外部区画、気圧喪失。開放禁止。
「開けろよ!」
何度も操作したが、扉は動かなかった。レオルが拳を叩きつけると、係員が後ろから抱きとめた。
「離せ! 妹が!」
その拍子に鞄が手から落ち、中から小さな硬貨が何枚もこぼれた。
ミラが船を買うために貯めていたお金だった。
レオルは係員の腕を振りほどこうとしたまま、床を転がる硬貨を見つめた。
*
《ハルバード》は第三居住区の救難活動に加わっていた。
アーデンは何度も家族へ通信を送ったが、つながらなかった。中央管制からは武器使用に関する事情聴取のため帰投命令が出ていたものの、損傷した居住区を前にして艦を動かす気にはなれなかった。
「艇長、こちらで救難活動を引き継ぎます」
副長が言った。
アーデンは返事をせず、外縁の一角が暗くなった居住区を見つめていた。
『アーデン』
アルゴが呼んだ。
「何だ」
『ご家族の端末の所在を確認しました。レオルの端末は第七退避区画内。生命反応も確認されています』
アーデンは身を乗り出した。
「ミラは?」
『ミラの端末は、減圧した隣接区画にあります』
「救助は?」
『当該区画への進入は、現在不可能です』
アーデンは椅子の肘掛けを握った。
「レオルにつないでくれ」
数秒後、通信が開いた。
『……父さん?』
「レオル! 無事か!」
『ミラが……』
息子の声が震えていた。
『ミラが、向こうにいるんだ』
「今、救助隊を向かわせている」
『扉を開けてくれないんだよ』
「レオル、落ち着いて聞いてくれ」
『父さん、助けてよ』
アーデンは息を呑んだ。
『父さんの船なら、助けられるだろ?』
副長がそっと視線を落とした。
「……今は、入れない」
通信の向こうで、何かを叩く音がした。
『何でだよ!』
「レオル……」
『父さんが撃ったんだろ!』
アーデンは動かなかった。
『ニュースで言ってた! 父さんが撃ったから、破片が飛んできたんだろ!』
「……ああ」
『ミラがいたんだぞ!』
声が割れた。
『俺が連れてきたんだ。俺が、ちゃんと手をつないでたのに……!』
アーデンは息子の言葉を聞いていた。何を言っても、今は届かないことが分かっていた。
『父さん』
「……何だ」
『ミラがあそこにいるって知ってても、撃った?』
アーデンは答えられなかった。
艦橋には、アルゴが救難班と交わす通信の声だけが響いていた。
『父さん?』
「……レオル」
『答えてよ』
アーデンは目の前の航路図を見た。
そこには、貨物船が衝突していた場合の被害予測が残されている。
八万四千人。
その中に、自分の娘もいた。
「……撃ったと思う」
通信の向こうが静かになった。
アーデンは続けようとした。
「レオル、俺は――」
『もういい』
通信が切れた。
アーデンはしばらく、その画面を見つめていた。
やがてアルゴが静かに告げた。
『第七外縁区画の救助隊から報告です。減圧区画の捜索が終了しました。生存者は確認されていません』
副長が小さく息を呑んだ。
アーデンは顔を伏せ、両手で目元を覆った。
*
第三軌道居住区への衝突は回避された。
翌朝、ルミナールの報道は《ハルバード》の行動を大きく取り上げていた。中央管制の命令に背いて八万四千人を救った艇長として、アーデンの名前が繰り返し読み上げられている。
一方、居住区では破片による損傷が複数確認され、犠牲者の身元確認が続いていた。その中に、ミラ・アーデンの名前もあった。
レオルは退避区画の隅に座り、膝の上に置いた小さな鞄を開いていた。
中には、床から拾い集めた硬貨が入っている。ミラがいつか自分の船を買うために貸してくれると言っていたお金だ。
一枚を取り出して指先で転がしていると、端末が震えた。母からの通信だった。
レオルは画面を伏せた。
少しして、今度は父の名前が表示された。しばらく見つめていたが、やがて通信は途切れた。
退避区画の窓の外では、港を離れた商船がゆっくりと加速していた。船尾の灯火が遠ざかるにつれて、船体は星々の中に紛れていく。
あのとき、妹は知らない星の石が欲しいと言っていた。
レオルは硬貨を鞄に戻し、窓へ近づいた。商船はもう小さな光になっていたが、その行き先を確かめたくて、しばらく目で追い続けた。
*
同じ頃、漂流する《エルナ》では船内調査が始まっていた。
無人貨物船として登録されているにもかかわらず、貨物区画の一角には、人が暮らせるように改造されたコンテナが並んでいた。
探査機がその一つに入ると、狭い通路の両側に簡易寝台が現れた。折り畳み式のテーブルには飲みかけの容器が残り、壁には衣類が掛けられている。
「何人分だ?」
調査官が尋ねると、解析結果が画面に表示された。
『寝台数、三十二』
「乗員登録は?」
『ゼロ名。本船は無人運航として届け出されています』
調査官は眉をひそめ、探査機をさらに奥へ進ませた。寝台の脇には携帯端末が落ちており、誰かが急いで立ち去ったようにも見える。
「生体反応は確認できたか?」
『船内全域で検出されていません』
「脱出艇は?」
『搭載されていません』
調査官は画面から目を離し、隣の職員を見た。
「人がいた形跡はある。なのに、逃げた形跡がないってことか」
職員は黙ってうなずいた。
探査機が通路の突き当たりへ進むと、床に小さな輸送容器が転がっていた。内部には特殊な緩衝材が敷き詰められていたが、肝心の中身は見当たらない。
「容器の表面を拡大してくれ」
映し出されたのは、幾重にも重なる光の輪をかたどった紋章だった。
調査官は身を乗り出した。
「モルディアの紋章じゃないか」
「間違いありません。宗教関係の物資でしょうか」
「さあな。ヘリオンの貨物船に積まれていた理由も分からん」
調査官はもう一度、三十二人分の寝台を映し出させた。
衣類も食器も残されている。船内のどこにも人影はなく、脱出した記録もない。
「航行記録を調べよう。どこから来て、途中で何があったのか知りたい」
職員が端末を操作したが、すぐに手を止めた。
「調査官、航行履歴がありません」
「記録装置の故障か?」
「いえ。直近の記録だけが消去されています」
調査官は画面に並ぶ空白の時間帯を見つめた。
「……誰が消した?」
返事はなかった。




