9: 出立する
「忠志様、朝です。起きてください」
肩を揺すられ、目が覚めた瞬間に、肩の裏と背中が針金でも通したかのようにガチリと張った。
痛みで眠気が引っ込む。同時に昨日、寝ずに魔王を倒す方法を考えていたことを思い出す。まぶたが重くて、少し休むつもりが、床の上で寝こけていたらしい。案外床でも眠れるものだ。お陰で体が凝った。
目を開けると、ミルシエーラの翡翠色の瞳が見える。
「おはよう、ミルシエーラ」
「はい、おはようございます」
くすりと笑って、ミルシエーラの顔が引っ込んだ。
起き上がると、殺風景な魔女の家が見渡せる。木箱に腰掛けて、魔女がドライフルーツをかじっていた。
その傍らには、剣が鞘に入って立て掛けられている。
「起きた?」
「……まあな」
重く沈んだ声が出る。結局、なにも、答えなんて見つからなかった。寝たとか、どうすんだ。
「そう悲嘆することはないわ。あなたは充分なだけ分かっている。あとは、気がつくだけ」
「それがうまくいかないから困ってるんだ」
「言ったでしょう、悲嘆することはないと」
魔女はにこりと微笑んだ。
立て掛けていた剣を俺に差し出す。
「これ以上の滞在は許さない。魔王もノンキに待ちはしない。さあ、天の塔に向かいなさい。時機を前に気がつけば、あなたの勝ちよ」
絶句した。
「ま、待てよ。分からなかったら魔王を倒せないんだろ?」
「ええ。そのときは、その結末を迎えるだけ。勘違いしないでね。あなたがここで愚図っていても、話は同じだから」
「そんな」
ミルシエーラが怯えたように言った。ついに常々恐れていた破滅が訪れると言うのだ。怯えて当然だ。
「でも、今から行けば間に合うんだよな?」
「ええ。間違いなく」
「じゃあ」
息が切れた。
どうも動揺しているらしい。苦笑を笑みに変える。
「やるしかないってことじゃないか」
「結構」
黒の魔女は笑った。
「鞘を換えておいたわ。ただの刃を収めるための鞘では、剣が傷ついてしまうから。それで呪文が消えるわけじゃないけれど、まあ、念のためね」
「ありがとう」
受け取って、ベルトを外し剣を付け替える。
魔女は立ち上がり、踵で木箱を叩いた。
「食べ物を好きなだけ持っていきなさい。天の塔には、ここの裏手から回っていけば一直線に行ける。半日掛からないわ」
「助かる。分かった」
革袋に必要なだけ譲ってもらう。
水も食料も新しくさせてもらえたのはありがたかった。とはいえ、それもあと半日の旅路なのだが。
「じゃあ、行くか。ミルシエーラ」
「はい」
「ま、気をつけなさい。転ばないようにね」
「俺は子どもか。分かってるよ」
笑ってしまいながら、答える。
黒の魔女は軽く手を振る。わざわざ見送る気はないらしい。
ミルシエーラは深く一礼して、別れの挨拶に代えた。
空は明るく晴れ渡る。聞き慣れた滝の遠い音色が響く。
盤座のような岩盤の裏に、絶壁を回りこむように小道が伸びている。おそらくここを回り込んでいけばいいのだろう。
砂利道の下は急勾配になっていて、昨日登ってきた崖の上にたどり着くようだ。かすり傷では済まないだろう。
ミルシエーラと顔を見合わせて、うなずき合った。
岩山の見晴らしは不気味なほどよく、遠くまで朝靄に白んだ灰色山脈の稜線が見える。峯禄山の頂上は鋭角になってまだ遠い。頂上を目指すならロッククライミングの装備が必要だろう。その高い山が壁になって、ここからでは天の塔が見えない。
「た、高いですね」
ミルシエーラが乾いた声でつぶやいた。
見れば、壁にすがりつくようなへっぴり腰で、一歩ずつ確かめながら歩いているらしい。たいがい俺も慎重にゆっくり進んでいたが、彼女はさらに遅く離れていた。
追いつくのを待って、手を差し出す。
「ほら。手を貸せ」
「え?」
「多少違うだろう。たぶん」
いざとなったらファイト一発リポっとビタンで助かるだろう。
いや、冷静に考えたら、もろとも落ちる可能性のほうが高いか。実際ファスからも、そうやって振り落とされたわけだし。
しかしミルシエーラはそろっと手を握り、さあこれで安心とばかりに力の抜けた笑みを向けてくれた。
その細められた翡翠の瞳が、思いがけず美しくて、見惚れそうになる。慌てて前を向いた。
「じゃ、じゃあ行くぞ」
「はい」
ミルシエーラはやや落ち着いた口調で答える。
「私、高いところって駄目なんです」
「そうなのか?」
「高いところっていうか、足場の悪いところが」
そりゃあ大好きって人はなかなかいないと思うが、そういえば確かに、ミルシエーラは聖剣の祠でも細道を怖がって留守番していたな。
あのときは一人で行かせることを狙っての行動だと思っていたが、こうしてみれば確かに、足の歩みは探るようで重い。
なんだか、笑えてきた。
「人が怖がってるところを笑わないでください」
ミルシエーラが怒ったように手を強く握ってきた。
「ああ、悪い。違うよ。思えばミルシエーラとも長い付き合いだと思ってな」
「長い、ですか? まだほんの数日じゃないですか」
まあ、そうなんだけどな。
そう思ったらミルシエーラも笑い声をもらした。
「そういえば、忠志様と出会って、まだ数日でしたね」
「な? おかしいだろ?」
「ええ」
今度はミルシエーラも同意した。
長いようで短い旅路だ。とはいえ、本番はこれからなのだが。
小道がきつく曲がり、そこを越えると急に視界が開けた。
まるですべての山が申し合わせたように、その中心に向かって下っている。
灰色山脈の盆地。
その中心には天の塔がそびえている。
まだ遠い。
しかし、もうすぐだ。
振り返ってミルシエーラを見る。翡翠の瞳が美しい、異国人のような高い鼻と白い肌を持つ少女。
「この旅の道連れが、神子がミルシエーラでよかったよ」
「私も、神子でいることができてよかったと思います」
本当にミルシエーラとでよかった。
「あれ?」
「どうされました?」
ミルシエーラが足を止めた俺を嫌そうに見る。
視線に急かされて歩き出しながら、意識は思考に没頭する。
俺はずっとミルシエーラを生命の象徴と、俺の命の象徴と考えてきた。
でもそれは、壮絶に当たり前だが、神子がミルシエーラでなければ成立しない。
すなわち、勇者の半身といえる神子が、ミルシエーラであることに、意味がある。
ミルシエーラは色々と気が利いてサバイバル能力に長け頼りになる、しかし滅多に表に出さない繊細な側面も持つ、芯の強い女性だ。
村人や魔女とも違う、綺麗な翡翠の瞳と異国人めいた風貌をしている。それは隔絶された、強い他者性を持つ。つまりは、外在性に強い要素がある。
つまり、なぜ勇者が灯火のペンダントを扱えないのか、だ。
それはもともと神子にしか扱えないものである、という現実の他に、勇者は単体で完成しないという側面があるのではないか。
神子とは、勇者ではない別の何かが勇者に深く関わっている、ではなく、勇者に足りないものを補完する、逆説的因果関係にある存在なのではないか。
事実、ミルシエーラは俺にできないことがたくさんできるし、彼女の知識には常々助けられてきた。
逆にミルシエーラの奥ゆかしさが懊悩を招いたように、俺のふてぶてしさは彼女にはない、んだろう。
「忠志様!」
強く引っ張られて我に返る。
止まった足が滑って、指先が虚空に飛び出した。
「わ。うわっ、うおわあっ!?」
足を引っ込める。腰が突然冷たい腕に鷲掴みされたかのように冷えて震える。
「こんな危ないところでボケッとなさらないでください! 本当に! 意気揚々と崖に歩いていくなんて、私、胆が潰れるかと思いました」
「す、すまん。悪い、ごめん。マジ助かった」
まだ体が震えている。ほんのちょっと爪先が出ただけだが、完全に油断してたせいで、本当に生きた心地がしなかった。
はあっ、とため息をついたミルシエーラは、微笑んだ。
「無事で済んでよかったです。こんな危ないところ、さっさと通り抜けてしまいましょう」
「ああ、そうだな」
もう少し行けば、道も少しずつ広くなって、山の裾野に合流する。
危険な崖道もあと少しだ。
ガスの抜けるような音。
パラパラ、と土が降ってきた。
なんだ、と思う暇もなく、目の前に青紫の塊が落ちる。それは両の足で立ち、両の腕を威嚇するように広げ、醜く歪んだ顔で笑う。
ディエドだった。
「なっ」
ミルシエーラが息を呑む。
慌てて剣を引き抜いた。見慣れない図形で文字らしいものが彫り込まれており、その文字は淡く青く輝いている。
「ファスは、ファスはどうしたの!」
ミルシエーラの言葉など初めから聞こえていないかのように、ディエドは反応を見せない。
剣尖を向けても、ディエドはあざ笑うような表情を作るだけだ。
かすれた、吐く息だけで言葉を作ろうとしているような声で、ディエドは言った。
「お前に、俺は、倒せない」
「そうだろうな」
そんな気はしている。
ディエドは死の象徴で、俺にはそれを振り払う手段がない。これが俺の象徴だと考えるのは、あまりにおぞましい。
しかし、逆なのだ。
この存在ほどのおぞましさが、俺の中に存在している。
死は、否定しても、意味がない。
「死には再起の意味がある」
ディエドが飛び掛ってきた。リーチを生かして剣で後の先を取って切りつける。
だがディエドは切られた肩をかばう様子もなく、なぎ払うように腕を振るう。
剣で受ける。
そのまま押し込んできた。
ずりっ、と靴があっけなく滑る。
「くそっ」
跳ね飛ばした砂利が崖に飛び込んでいく。
強引に振り払った俺を、ディエドは蹴りつけた。跳ね上がった砂利の匂いが妙に鼻につく。鉄球が腹に直撃したような衝撃に、息が漏れた。
砂利を跳ね散らして体が転がる。ミルシエーラは一瞬それが音だと認識できないような悲鳴をあげた。
とんでもない痛み、臓腑が潰れて血が腹を圧迫しているような、妄想の錯覚。
横隔膜と胃袋が痙攣している。息が出来ない。
ディエドは笑う。
歯を食いしばる。
生で死を振り払うことは出来ない。
それでも。
死は正しく送れば、生を育む。
「ミルシエーラ、こいつを焼け!!」
息を吐くだけで、腹の中身が雑巾絞りされるような激痛を押して、叫んだ。
想像より十分の一も小さい声だった。
ディエドが顔を跳ね上げる。
目が合って凍りつきかけたミルシエーラは、腕をぎこちなく動かし、ペンダントを握った。
「はァっ」
腐れてめくれ上がった口角を吊り上げて、ディエドが笑う。
ミルシエーラは怯えと恐怖で顔をくしゃくしゃに歪めて、
「う、あああああああああああああっ!」
ペンダントを投げつけた。
大して速くもなく、かんしゃくを起こした子どもだって、もうちょっといい球を投げる。ディエドは避けようともしなかった。
しかし、飛ぶ途中でルビーは、まるでその中に星が埋まっているかのように強烈に輝き、内側から弾け飛ぶように砕けた。
中に残った星は、火の粉としてディエドに降りかかる。
火の粉はディエドにぶつかり、その体をなぞるように転がり落ちる。
途中で消えず、それどころか、触れたそばから燃え広がりながら。
「ぐ、が?」
体が燃えていることに初めて気づいたかのように、自分の体を見下ろす。
その一瞬の間に、火は全身に燃え広がっていた。
「が、ぐ、あぎ、あがあああああああああああああああ!」
火をもみ消そうと体中を叩き、もがきながら火達磨になったディエドは後ずさり、
そして、崖から転がり落ちた。
「ごああぁぁぁ――……」
声はすぐに途切れた。
ほんの少し、浅い呼吸を少しずつ繰り返す。
ミルシエーラがすぐに俺の体を横倒しにした。足を組み、自分の腕を枕にするような姿勢。なんだったか、確か回復体位。
「大丈夫ですか?」
「それなり。ごっ、ひ」
咳き込むと死ぬほど痛い。
少なくとも痣にはなっているんじゃないだろうか。喀血の気配はないから、ひとまずは安心したほうがいいだろう痛い。
「ディエドは……」
「落ちていきました」
ミルシエーラが恐る恐る崖から首を伸ばす。
声を出そうとして失敗した。呼吸が安定しない。
ホラー映画では、こういうときは死に損ないの敵が戻ってきて、覗き込んだやつを道連れにするか、または殺したあと平気な顔で元通りに動くのだ。ミルシエーラには任せたくなかった。
しかし彼女は、緊張した顔で俺の横に這い戻ってきた。
「底で燃えたまま動きません。死んだのでしょうか」
「死んでるよ、もともと」
はあ、とため息を吐く。
死者を燃やすのは、正しく自然に返すために。
「やっと、居るべき場所に向かったんだ。ディエドは」
それは、俺も。
蹴られた痛みとは別に、胸がえぐられるように痛む。
どうしようもないのか。どうしてそうでなければならないのか。
抗えば、抗うだけ、つらくなる。
分かっているのに。
「忠志様。傷の手当をいたします」
「ああ……すまん、頼む」
仰向けに転がる。ディエドに切り傷は貰わなかったが、打撲だからよかったとは行かない。
治療道具を広げてミルシエーラが手早く腹の打撲を診てくれる。細い指先が腹に触れて、くすぐったい。
しかしミルシエーラは鈍い手つきを止めて、顔をうつむけた。
「忠志様……」
「どうした?」
まさかそんな、自覚症状が一切ないくらい、見るに耐えない惨状なのか?
見てみようにも、自分の腹を見下ろすための腹筋を動かすと、全身がよじれそうなほどつらい。
「よかった、です……生きていらして……」
指先が震えていた。
「ファスみたいに、いなくなってしまったらって、怖くて……私……」
涙が垂れて、腹に落ちる。その衝撃でも地味に痛かったが、それは嫌な痛みではなかった。
苦笑して、手を伸ばす。
「お前のおかげだ。ありがとう」
「はい……」
ミルシエーラは大人しく頭を撫でられた。




