7: 邂逅する
運命ってものは、あるのか?
「事実に意味をつけるのは、いつだって、人間だ」
質問の答えは。
「運命が、あっても、なくても、きみの現実は変わらない。事実っていうのは、そういうものだよ」
鋸滝の脇をたどるようによじ登る。蛇行するように行けば、なんとかキツイ階段のように歩いていける。
鋸滝は一帯の水源で、岩の裂け目から噴き出しているのが見えた。
「本当に、黒の魔女はこんなところに住んでいるのでしょうか」
「どうやらそのようだぞ」
滝を上りきった先を指差す。
磐座のようになっている奥に、小屋がひっそりと建っていた。
煙突から煙が上がっている。
ミルシエーラと顔を見合わせる。
行こう。
扉を叩く。
乾いた軽い木材は、密度が薄そうで軽い割には、繊維がしっかりしていて硬そうだ。
「入りなさい。穂村忠志」
女の声。
「……失礼します」
木戸を開ける。
地面はよく掃き清められた土だ。家具がなくがらんとした、桶と水瓶と竈だけの家。
その木と土のなかにひとつだけ。不釣り合いに精巧な揺り椅子に、肘を突いて黒服の女が腰掛けていた。
「待っていたわ」
極めて簡素な作りの黒いワンピースを着た、若い女が、にっこりと微笑んだ。
歳はミルシエーラと同じくらい。顔つきは日本人だ。目が大きく、小ぶりな鼻やすらりとした顎など、その容貌は不気味なほど整っている。
ふと、変な既視感に見舞われた。
「あなたが黒の魔女、ですか?」
「そうよ。あと、敬語は要らないわ」
空寒いほど愛嬌のある微笑みを浮かべ、彼女は軽く手を振る。
「ここまで来たからには、私に頼みがあるのでしょう?」
「あ、ああ。この剣に、呪文を刻んでほしい」
「容易いこと」
魔女はさらりと言って、笑みを深めた。
「けれど、それでは足りないわ。呪文だけでは、意味がない。あなたが剣の使い方を知らなければ、魔王を倒すことはできない。決して」
「……それは、どうすれば?」
「あなたはそれを知るだけの材料を、すでに持っている。ヒントをあげましょう」
言って、魔女は立ち上がる。
ミルシエーラよりも小さい。
彼女は俺の前に立って、微笑んだ。
「すべては、今、このあなたでなければ、ありえない」
そうして、彼女は柄に手をかけて勝手に剣を引き抜いた。
剣を蕩然と眺めた魔女は、ひらりと背を向けると、木の蓋を開けて梯子に足をかけた。
そこで振り返る。
「今夜は泊まっていきなさい。呪文を刻むのに一夜かかる。食べ物はあるものを好きに使っていいわ」
言い残して、地下室に降りていった。と思うと腕が伸びて木蓋を掴み、閉じようとして少し開けて、
「地下室には入らないこと。危ないからね、勝手に死んでも知らないわよ」
言い残して、木蓋を閉めた。
遠い滝の音が、時間をさかのぼって聞こえてくる。
「取り残されちまった、な」
「そう、ですね」
ミルシエーラが沈んだ面持ちでつぶやいた。
ファスのことをまだ気にかけているのだろうか。
「外にいてもいいぞ」
「いえ。そういうわけには参りません」
苦笑を見せて、ミルシエーラは首を振った。
「それよりも、先ほどの話です、忠志様。……呪文を刻んだだけでは魔王を倒せない、なんて」
「ああ。剣の使い方って言ってたな。なにか、知らないか?」
「いえ……伝承には、なにも。申し訳ありません」
「いや、いいんだ」
今の俺が知っていることだけで、剣の使い方を導き出せる、と魔女は言った。
ここでの魔女は、鍵を完成させてくれる賢者の役割を負っているのだ。信頼してもいいだろう。
おそらく魔術的だったり技術的だったりする用法ではない。俺はその手のことをなにも知らないからだ。
しかし、かといって、そのいずれでもない方法なんて、なにも分からないぞ。
ミルシエーラは考え込む俺から目を逸らし、窓を見つめていた。
魔女は呪文を刻むと言ったが、具体的にどうするのか、なにも聞いていない。木蓋は見た目以上に厚いのか、それとも地下が深いのか、物音ひとつ聞こえない。
家は本当にものがなく、棚など収納家具が一切ない。ベッドに類するものは地下室にあるのだろうか。
ただ木箱はいくつかあり、そのなかに根菜や果物などは収められていた。
竈には薪を使っているが、薪の量がさほどない。裏手当たりに倉庫でもあるのかもしれない。
飾り気のない屋内に、唯一窓辺に、鉢植えで若木が飾られていた。
ため息をつく。
「難しいな」
思考が泥沼にはまったように鈍っていた。集中力がもたない。
窓辺に立っていたミルシエーラが歩み寄ってくる。
「思い付きませんか?」
「ああ。どうにもな」
「忠志様の勇者になられる以前の記憶には、ございませんか?」
「ないな。剣なんて本物を見たこともない」
本当は魔剣だとかの概念も知っているが、使い方を知るとなるとそれはノーだ。そんなもん知るわけがない。
ミルシエーラも一緒になって考え込んでくれる。
「この今の、忠志様、ですか」
黒の魔女が残した意味深な助言を繰り返すが、そんな文章に実際自分の名前が入ると気恥ずかしい。
待てよ。
「……俺?」
この今の俺、人生を歩んで、それなりに知識をつけた穂村忠志という人間でしか、ありえない?
つまり、全ての状況において、それが俺であることに必然性がある、ってことか?
「いや、違うな。必然性なんて言葉は後付けだ」
順序は逆で、俺だからこの状況になった。正確には、俺こそがこの状況に向かって進んできた。
「あっ」
思わず立ち上がる。
ぶつぶつと独り言を漏らす俺を、不気味そうに見ていたミルシエーラが、驚いた拍子に木箱にふくらはぎをぶつけて、しゃがみこんだ。
「俺が勇者をやっている、ってことに、意味があるのか?」
どこの誰でもいい勇者が魔王を倒す、という構図ではない。
俺が勇者として魔王を倒す、ということか?
「待てよ、待てよ」
揺り椅子に腰を下ろし、目を伏せて集中する。
俺は、穂村忠志で、元の世界で死んだからこの世界に来た。
ホムラタダシの名は、ホムラとは炎のことだ。炎は破壊と発展の象徴であり、善悪両義的なものである。しかし、タダシの名でその善的な概念を抽出している。そしてホムラは、炎は、神話においても神を殺しうる現象だ。
その穂村が姓にある。姓とは家を、つまり血を意味する。忠志、志に忠するという信念が、個性としての名にある。
意味としては通る。まるで英雄だ。我ながら恥ずかしい。
そして、それとは別に、考えるべきものがある。
つまり、俺は既に「死んでいる」ということだ。
死者というのは悪的なものだが、英霊というように、純粋に負の面だけを持っているわけではない。
そう、ディエドのときにも考えたが、死という概念には「再起」の意味が含まれている。
死を経るという強力な経験は、神話においてもよく見られる。英雄が死を経験していることは多い。
通常ありえないはずの「死からの復活」は、その者の聖性を高めるのだ。
なんてことだ。俺はまるで英雄じゃないか。
ものすごい馬鹿のような字面に失笑する。
どうやら俺が勇者とやらに祭り上げられたのは、偶然ではないらしい。
ああ、だが、しかし、ダメだ。
「剣の話につながらない」
まだだ。まだピースが足りない。
そこでぱったりと道が途絶えてしまったかのように、思考の回転が終わってしまった。
少し苛々する。脳を急かすように額に手を当てても、手のひらの闇が閉じたまぶたに映るだけで、何か思いつくわけでもない。
見かねたミルシエーラが、肘掛に手を置いて隣に膝を突いた。
「忠志様。もしかしたら、今忘れてしまっていることが、鍵なのかもしれません。最初から、たどってみましょう」
「最初から……。そうだな」
疑問に思っても、聞く機会を逸したうちに忘れたこともあるかもしれない。
「最初に確認するが、天の塔は突然現れたんだよな?」
「はい。そして、呼応するように忠志様が現れられました」
どう考えても対の関係だよなあ。
いや、待てよ。対といっても、対立する存在ではなくて、類似する存在という解釈もあるか。
「それから、ミルシエーラが現れて」
「はい。快く請けてくださいました」
ミルシエーラはその翡翠色の瞳をくすぐったそうに細めて、はにかんだ。
対の関係といえば、勇者と神子も、常に同行する存在だ。なにか対応関係にあると言えるかもしれない。
……対応関係、と、いえば。
生命の神秘が神子で、故人が勇者。
神子は、ミルシエーラは、失った俺の命を暗示している?
「すぐに聖剣の祠にお連れしましたね」
ミルシエーラが懐かしむように言う。
「忠志様がなにともなく聖剣を携えて戻られたときは、本当に、感動致しました」
「そんな大したものには思えなかったけどな」
今でもあまり思っていない。今までの旅でまともに役立ったことがない。
それでも、勇者の証として、そして魔王を倒す鍵として、欠かすことの出来ないものであるのだろう。
「それから、私は……」
ミルシエーラは言葉を止めて、唇をかみ締めた。
ああ、そうだ。
その後は、ファスに乗って村まで連れて行ってもらったのだ。
ここが俺の知る世界ではないことを痛感させられた。ファスは、走狗はまさに、俺の中での異界性の象徴だ。
その後は、長老に初めて伝承を聞かされた。結局、あのとき以上の情報が伝承から聞けたことはなかったが。
出立して峯禄山の話を聞いたりしながら、晩になってディエドと遭遇した。
手も足も出ず逃げ出して、あの時初めてミルシエーラの灯火のペンダントとやらを見たんだったな。
あれは神子にしか扱えない、ということは剣と同じで神子の証と言えるだろう。
「……ん?」
何ともなしにミルシエーラのペンダントを見て、思わず声を上げてしまった。
「どうしました?」
「それ、また白く濁ってるぞ」
ペンダントが内側に白いもやがかかったかのように濁っている。以前よりもひどくなっていて、ルビーとしての輝きがすでに失われかけていた。
ミルシエーラが慌てた手つきでペンダントを手のひらに乗せる。
よく見るとそれは濁っているのではなく、微細なひびが内側に広がっているようだ。
「そ、そんな。どうして」
「これって、使うと壊れていくんじゃないか?」
ミルシエーラがハッと顔を上げる。切羽詰ったような表情で、白い顔をさらに蒼白にして前のめりに叫んだ。
「そんなはずがありません! だって、これは神子にしか扱えない、勇者様を補佐するための大切な……!」
急に力を失ったように口をつぐみ、手のひらのペンダントに視線を落とす。
「勇者様を助けるためにしか使ってはならない。そう、固く、言われてきました。もしかして、そもそも使うことの出来る機会が、限られているからなのですか……?」
「分からない。念のため、もっと慎重に使うか決めたほうがいいかもな」
ミルシエーラは無言でペンダントを見つめていた。
「忠志様、私は、本当に、何のためにいるのでしょう」
ペンダントを握り締め、胸に掻き抱いて、ミルシエーラは顔を伏せる。
「ずっと勉強してきた伝承は役に立たず、レテル様にも助けられてばかりで、魔女様のように知恵も力もなく、ファスを踏み台にせねば何も出来ない。頼みのペンダントは、私の存在意義は、こんな簡単に壊れてしまうものですか」
肩を震わせるミルシエーラは、雪が解けて消え始めるような、そんな儚さで小さく見えた。
「そんなわけないだろ。ミルシエーラは偉いぞ、ずっと。俺は、俺なんて、もっとひどい。剣ぶら下げて運ぶことしかしてないのに、レテルやミルシエーラたちに散々迷惑かけている」
ああ、全く、本当に。朝から晩まで助けられ通しだ。
せめてと巡らせる思考は、本当に役に立つのかどうか。
ミルシエーラは俺の後ろ向きな笑いを否定してくれた。
「そんなことありません。だって、忠志様は勇者でいらっしゃいますから」
「実際、俺が何かしたか?」
「もちろんです。たとえば、あの……お、お待ちを……」
生真面目なミルシエーラが、額に指を当てて必死に考え始めてしまった。
いや、いいからそんな無理矢理フォローしなくても。むしろここまで絞り出せないところを、むざむざ見せつけられると、逆にへこむから。
「ま、魔王に対抗できるのは、忠志様だけなのです。他の誰にもできないことをしなさるのは、とてもすごいことではないですか!」
「ありがとうな。ま、今のままじゃ絶対に魔王は倒せないらしいが」
はは、と乾いた笑いが出てきた。
「あの、その、そうだ! 晩御飯にしましょう! もう空も暗くなってきましたし!」
「はは、そうだな」
誤魔化しが露骨すぎる。
「あの、それでは、お手伝いいただけますか?」
「もちろん。最善を尽くすよ」
下手な冗談にミルシエーラが失笑した。
置いてある食材は保存がききそうな根菜が中心で、ミルシエーラの発案で煮物にするらしい。
皮剥きだざく切りだと手伝ったが、俺がひとつ片付ける間にミルシエーラはみっつ終わらせてしまう。
ふふ、あんた、いい嫁になれるぜ……。
鍋に一通り入れてしまうと特にすることもない。主食がないと困るということでパンを発掘したミルシエーラは、さらに手早くきんぴらも作った。
俺はその横で、薪を定期的に放り込んで火力の調整をするだけ。
ミルシエーラは横から竈と薪を覗き込み、顎に指を当てた。
「んー。薪が足りないかもしれませんね。すみません、忠志様。たぶん裏に予備の薪があると思うので、取りに行ってもらえませんか?」
「分かった」
最後に薪を突っ込んで立ち上がる。
ミルシエーラが一人で薪と鍋の面倒を見ているのを背に、小屋を出る。
夜は暗い。
窓から漏れる屋内の灯りを頼りに、裏に薪割り場を見つけた。そこから積まれた薪を取る。
丸太のまま乾燥させているものも大量に積まれていた。あとで薪割りを手伝っておこうか。
「ん?」
そこに変に丸めて投げ込まれた布を見つけた。窓から捨てたような感じだ。
タオルかなにかだろう、と深く考えずにつまみ上げる。
なぜわざわざつまみ上げたかって、たまたま目に入って興味を引かれて、なおかつどこか見覚えのある刺繍があったからだ。
端的に言えば服だった。
それも男物の。
もっと言えばレテルの。
「わあお」
思わず呟いてしまった。
これはいったい、どういうことだろう。まさかレテルは、黒の魔女と関係があるのだろうか。
いや、関係があるって、もしかして、なにせ服が無造作に脱ぎ捨てられているのだし、そういう意味で、関係がある、という可能性もあるわけなのだが。
いやこれ、そうだとしたら、ミルシエーラさん……。
「どうしました?」
「なんでもございませんよ?!」
突然そのミルシエーラに声をかけられて、声が裏返った。
窓から顔を出した彼女は訝しげに俺を見ている。脇に抱えた薪と、そしてもう片方の手に掴み、検分するためにうまいこと広げられた、件の布を見た。
ハッとして背中に隠す。
ミルシエーラは目を丸くして、
「それ、レテル様の」
言いかけて口をつぐんだ。
足元に転がる、レテルの他の召し物を発見していた。
「忠志様」
「は、はい」
「それも、持ってきてくださいますか?」
めちゃめちゃ静かで落ち着いた声だった。
わかりました、とうなずくしかなかった。




