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5: 挫傷する

 問いたい。

 他人を殺した者はすべからく罰を受けるのか。

 この世に殺してもいい命などというものが存在するのか。


「きみは殺されたから気になる、というだけなら、まだ分かるけど……はは。殺そうとしたくせに気になるのかい?」


 俺は訊いている。


「そうだね。結論から言おう。殺しても許される人間は存在する」




 体がひどく疲れていて、暑くて仕方がないのに、どうしようもなく寒く感じられた。その気持ちの悪いダルさは関節に埋め火のように(こご)っている。

 目を開けても、どこか寝ぼけた感覚が拭えない。頭が芯から錆び付いたように回らず、方向感覚が失われてふわりと天地が巡ったような錯覚が走る。


 隣で毛布にくるまっていたミルシエーラが起き上がっている。

 枕代わりにして寄り掛かっているファスが、もそりと体を震わせる。

 その感覚が妙に遠いものに思える。


「……忠志様?」

「ああ」


 なんとか返事は返したが、村の長老が喋るようなしわがれた声が出た。

 ミルシエーラがさっと顔を青くする。

 無遠慮な手つきで俺の顔、顎、喉を探る。ひやりとした感触がなぞるように肌に残る。


「熱が……どうして?」


 すぐに包帯をほどこうとして手こずり、ナイフで結び目を裂いて引き剥がした。


「これは……膿がひどい、脈も。どうして、消毒はしたのに」


 傷痕が空気に触れて、むず痒くなる。掻こうにも手がだるくて動かしたくない。

 目を開けるのも億劫に、まぶたを下ろす。


「忠志様! ああ、どうして、どうしてこんな、熱病なんて」


 ミルシエーラは狼狽していた。その背後で、ファスが動く気配。

 ミルシエーラとファスが話をしている。


 ……いや、そんなはずはないか。ファスは話せない。

 自分に苦笑を向けたのを最後に、崖から足を踏み外したかのように、俺の意識は闇に転落した。




 懐かしい夢を見た。

 明瞭としているような、あるいはカップに注がれたコーヒーの表面に写り込んでいるような、もしくはクレイアニメーションで作っているかのような。

 そんな風景。

 夢なんてそんなものだ。


 冬の日だ。

 クリスマスだったと思う。当時惚れ込んでいた彼女との待ち合わせに、遅れないよう急いでいた。

 駅前の繁華街で、人に見られているような気がしていた。今にして思えば、気のせいではなかっただろう。

 懐に忍ばせたプレゼントに指先を触れて、にやつきながら道を急いでいた男は、さぞかし不気味だったに違いない。


 彼女は、可愛い子だった。


 可愛さで言えば、雑誌のモデルに起用されて、なんでこんな娘が使われてるんだと疑問に思われるレベル、というと微妙なニュアンスが理解できるだろうか。

 クラスのマドンナは別の娘に譲りつつも、いや、むしろトップスリーにも入らないが、だからこそ、狙ってる男子が一番多い……そんな感じの娘だ。


 そんな理沙と、どうして俺のような凡夫が交際をしているのか、というと、第一に縁が当然あるが、第二に俺がモテる理沙に苦手意識を持っていたからだ。

 放っておいても人が寄る彼女にしてみれば、縁に恵まれ俺が「親しくする有象無象の男子たち」の一人に数えられているにも関わらず、妙な距離があるのが気になったのだろう。


 きっかけは、それ。


 今や完全に追うもの追われるものが逆転している。


 待ち合わせに指定した駅前の大きなケヤキに、理沙が立っていた。

 ちらりと時計を確認すると、時間のちょうど一分前。

 綿密に相談した今日の予定を思い返しつつ、最後に、懐に思いを馳せて笑みをほころばせ、理沙に声をかける。


「ごめんな、待たせたか?」

「忠志」


 声をかけられて初めて気がついた、とばかりに顔をあげて、理沙は俺を見上げた。

 肩にかかる長さの髪が頬にかかり、理沙の瞳は泣く寸前のように潤んでいた。

 一発で狼狽した。

 俺がなにぞ声を発する前に、理沙は口を開く。


「ごめん、もう終わりにしよう」


 顔を逸らして、理沙は言った。


「会うのも、話すのもこれっきり」

「……は? え? ……なに?」


 狼狽した頭がそっくり異次元に叩き落とされて、消滅したようだ。

 言語が処理できない。

 理沙はおもむろにワインレッドの携帯を取り出して、少し操作し、俺に画面を見せる。


 俺の番号。

 削除を実行し、電話帳のリストに画面が戻った。


「なにも聞かないで、私のことは忘れて。それじゃ」


 一刻も早く立ち去りたいのか、顔を伏せたまま走る寸前のような早足で歩いていく。

 追いかけて話を聞こう、と思い付いたのは、たっぷり三分もあとのことだ。


 もちろん、理沙の姿はどこにもなかった。


 もちろん、納得ができるはずもなかった。




 腕に焼けた鉄を押し付けられているような、内側から針が肌を突き破ろうとしているかのような、激痛。

 目を見開いて飛び起きて、それだけで体力を使い果たしたかのように背筋が冷える。


「忠志様!」

「ほら、早く!」


 男の声。肩や腕、足を押さえつけられて動けない。

 傷口をえぐるような痛みのあと、水を掛けて簡単に拭い、当て布をして包帯を巻き直す。


「忠志様。薬草を煎じたものです。どうぞ、一息に」


 口に湯呑みを当てられて、ぐいと中身を押し込まれる。がつりと呑み込む音がしたほどの塊が胸を転がり落ちる。物理的に焼けるような痛みに身もだえする。

 熱、これクソ熱いぞオイ!


「ぃ、げほっ、ぅえほっ、こっ」

「忠志様っ?」

「殺す気か!? こんなもん普通押し込まれて呑めるか!」


 ひっ、とミルシエーラは泣きそうな顔で引き下がる。

 ひりつくような喉の痛みをこらえ、ようやく辺りを見回す。

 薄暗いそこは森の中で、崖のそばだった。川の縁、谷川の横。


「ははは、さすがに勇者は体力があるんだね。熱病にやられてこれだけ元気なら、薬湯を飲んですぐに治るだろう」


 聞き覚えのある男の声。

 背後から、いや、先ほどまで肩を押さえつけていた男だ。


「レテル?」

「ああ。思ったよりも早い再会だね?」


 金髪の好青年は、にかりと笑った。

 その笑みを見上げて、少しずつ現状を呑み込んでいく。

 つまり俺は、今朝からの不調は熱病にやられたからで、ミルシエーラがその特効薬を探して、レテルに教わって治療をしたというところだろう。


「ああ、いや。嘘だな」


 レテルの笑みが固まった。


「お前は俺たちがディエドと戦ったことを知っている。ディエドの腐れた体で傷つけられれば、この熱病がでることは分かってたんだろう? だから、わざわざここで待っていた。違うか?」

「残念だけど、違うよ。言っただろう、僕はもともとこの薬草を取りにここまで来たんだ」

「そうか。……そうかもな」


 変なことを言ってすまん、とレテルの顔をまっすぐ見ながら告げる。

 レテルは肩をすくめるようにして、ミルシエーラに笑みを向けた。

 ミルシエーラは困惑げに顔をそらし、とりあえず俺に逃げ道を見た。


「あの、忠志様。お体の加減はいかがでしょう?」

「正直、かなりだるい。まだ薬湯も効いてないんだろうな」


 腰を下ろしているのに、たまに地面が傾いて振り落とされそうになる、気がする。


「ゆっくり休まれてください」

「ああ……その前に、体を拭きたい」


 熱病だし、寝汗がひどかったのだろう。服がぐっしょりと重たい。


「は、はい。手伝います」

「いや、下着も代えたいから、できればレテルが手伝ってもらえると助かる」

「えっ、私っ?!」


 レテルがすっとんきょうな声をあげた。

 振り返ると、レテルはいつもの曖昧な笑みを取り戻している。微妙にさっきの声と結び付かない表情。

 ミルシエーラと顔を見合わせて、おそらく彼女のこの表情とそっくり似たような表情を浮かべているのだろう、と思った。




 ミルシエーラには向こうで、薬草の予備と荷物の整理とファスの世話をしてもらう。

 タオルを湿らせながらレテルがぼやいた。


「まったく、男の裸なんて見たくないんだけどね」

「俺だって見たくもないし見せたくもない。仕方ないだろ、ミルシエーラはたぶん"おぼこ"だ」

「……きみは、なにを観察しているんだ」

「ただの推測だよ。戒律の厳しい神職にはよくあることだし、神子ってやつは、勇者とやらのために人間性を捨ててる節がある。なら、女性を捨てるのはもっとありうるだろ」

「なるほどね」


 レテルはうなずく。

 それに、こんな見た目だけの男にコロッとやられるのは、経験が浅い証拠だ、と内心思う。そうであってほしい。

 上半身の着衣を脱ぎ、軽くはたく。


「ああくそ、寒い。レテルすまん、背中頼む」


 返事がなかった。

 振り返ると、レテルは俺を凝視している。

 変に食い入るような眼差しは興味深そうである。

 微妙に顔を赤らめているのは絶対に気のせいだと信じたい。

 一発で狼狽した。

 こいつ、まさか。

 なんていうか、その、ほら、異性に関心が薄いタイプ、か?

 外気のためでも病気のためでもない寒気が走り、ミルシエーラのための寒気も走った。


「お、おい、レテル?」

「あ、ああ。仕方ないな。まあ看病のためだからね」


 レテルは無造作に、タオルを俺の胸に脇にと巡らせる。


「ばっ、おい?! やめろいらんまじでよせ離せ?!」

「病人は無理しない」


 正論だが今のお前に言われたくない。

 がさりとミルシエーラが顔を覗かせた。


「忠志様? なにか悲鳴が――きゃああああっ?!」


 ミルシエーラは絶叫して、目を回してしまった。かっくんと膝から力が抜けて、頭から倒れていく。

 飛び付くようにしてかばった。ついでにレテルから離れた。

 おそらく、ミルシエーラは、本当に男と縁がなかったのだろう。あるいは村人とも疎遠だったのかもしれない。

 半裸の男と想い人が絡み合っている、薔薇園辺りが似合いそうな姿は、ちょっと刺激が強すぎた。


「ああ、すまん。レテル、こっちはいいから、ミルシエーラを見てやってくれ」

「そうだね、分かったよ」


 レテルはなにやら安心したような顔でミルシエーラを抱え、ファスのほうに歩いていく。

 一人になって、さざめく音が静寂に染みる。

 投げ出されたタオルの土を払い、重たい腕を肩ごと落とす。


 疲れた。

 無駄に。




 ファスの背に揺られて、ゆったりと道を急ぐ。

 鹿にまたがったレテルは、それじゃあと手を振って、どこなりと行ってしまった。

 最後に目が合ったのは、なにも意味がないと信じたい。


「お体は障りありませんか?」

「大丈夫。このくらいなら日暮れまで行けるさ」


 ほとんど早足程度のファスは、ぶるりと首を揺する。


 熱はすっかり下がり、体のだるさもだいぶ取れた。

 だが、体力が戻ったわけではない。無理はしないよう、加減して急いでいる。

 のんびりできる旅ではないし、いたずらに食料を浪費するわけにもいかないのだ。


「しかし、俺がくたばってる間に結構近づいたんだな」


 ミルシエーラの肩越しに、裾野を広げる山を見る。

 この山が件の峯禄山だ。

 先ほど休んでいた森は山麓の端にあたる。いつの間にか峯禄山に迫っていたのだ。

 ミルシエーラが手を伸ばし、ガイドする。


「長く緩やかな丘陵が続いたあと、岩が露出してくるあたりから一気に険しくなります」


 指し示された辺りから、ふっつりと途切れるように草がなくなって、荒涼とした岩山に変わっていく。


「切り裂け谷は、峠から山頂近くの(のこぎり)滝まで続く、長くくねった深い谷です」


 ここからでも見える。

 まるで山に切り込みを入れたかのように、深々と谷が続いている。


 天の塔は、峯禄山を越えたさらに先、山脈に囲われた盆地にそびえ立っている。


「魔王、か」


 レテルの語る詩吟が確かなら、剣技で戦う相手ではない。しかし、ミルシエーラの知る伝承には、剣で勝てるとする。

 ならば、剣を物理的以外の手段として、魔王を倒す鍵とするのだろう。


 剣。剣と言えば、闘争の象徴だ。戦う先として勝利の象徴でもある。

 もちろん、死の象徴としての側面も持っている。


 しかし、ディエドには、いや待て。

 ……死人(ディエド)


 ディエドは死するものであり死をもたらすものとして、間違いなく死に属するものだろう。

 つまり、死の象徴だ。


 その先に立つ魔王が死の象徴?

 おいおいキャラ被ってるぜ。


 魔王であるからには、死を併呑し支配する概念を象徴しているはずだ。


 死が象徴する概念……虚無、消失、敗北、滅亡、別離、悲哀、それに再起か。どれも死より強大というほどでは、

 いや、まだある。


 恐怖、か。


「忠志様。そろそろ休みましょう」

「ん? ああ、そうか?」


 考えごとに夢中になって忘れていたが、俺は病み上がりだったな。無理はしちゃいけない。

 改めて辺りを見回す。草と岩山との境界に近づいた辺りだ。最後の草地で夜を明かすつもりらしい。


「薪はまだありますが、谷のために取っておきたいですね」


 テキパキと作業を始めるミルシエーラを手伝いながら、ふと問いかける。


「ミルシエーラは本当に夜営に慣れているよな。怪我の処置も手早いし」

「神子として幼い頃から訓練していましたから」

「へえ。訓練って、どんな?」


 ミルシエーラの手が一瞬止まった。


「神殿の山から出てはならない、という決まりで長らく生活していました」


 山籠り?


「それって……大丈夫だったのか?」

「最初はつらかったですよ。山菜を採ったつもりが毒草でお腹を壊したり、山菜でも灰汁が取れなくて苦味と臭みで食べれたものじゃなかったり、薬草のつもりで肌がかぶれたり、そう、焚き火が危うく山火事になりかけたこともありましたっけ……ふふ、ふふふ……」


 ミルシエーラは無表情で笑声をあげている。


「いや、なんだ。なんていうか、相当、過酷だったんだな」

「いえ。ファスのお陰でだいぶ楽をさせてもらってますよ」


 ファスは焚き火から離れた場所に伏せて、体を伸ばしている。体をほぐすように足を動かしているのを見て、ミルシエーラは微笑んだ。


「走狗は、本当は北の動物なんです。天の塔よりも向こうの」

「それが、どうしてこっちに?」

「ファスが私でも抱えられるくらいの大きさだったとき、だいたい一歳くらいでしょうか。先生、今の長老が、山のそばで見つけたって」

「神殿の?」

「いえ、この。峯禄山のです」

「こんなとこから連れ帰ったのか」

「ええ。無茶しますよね。でもファスが先生のあとをついて離れないから、って、連れ帰っちゃったんですって。すぐに私になついて、私に付きっきりになっちゃって、先生悔しがってました」


 妙に情景が想像できて笑える。


「でも、名前は先生がつけたんですよ。峯禄山から取って、恵み(ファス)って」

「……どう取ったって?」

「峯禄山の禄(天から恵まれるもの)の意味を借りて、古語の恵み(ファス)を当てたんです」

「なるほど」


 古語とか知らないな。分からなくても無理はない。

 ……いや、待て。「古語」?

 天の塔がバベルの塔と同じくして言葉を平らげるなら、言葉が変化し廃れる、古語化するという概念はないはずだ。

 古語があり現代語があるとするなら、なぜだ?


「古語って、なんだ?」

「大昔の碑文語です」


 なぜそんなことを聞くのか、という顔でミルシエーラは丁寧に説明してくれた。


(まじな)いに使われていたもので、本当は発音は遺失してしまって分からないんですけど、音を当てて読んでいるんです。ああ、いえ、刻印文字に過ぎなくて音はなかったという説もあります。秘術文化の名残ですよ」


 音がない、ということで疑問はいちおう解決した。しかし次の疑問が湧いて出る。

 文化が廃れ、その名残、すなわち滅びた文化の象徴として、その古語が残っている。

 おまけにその文化というものが、秘術ときたか。


「私のミルシエーラも古語から取っているんですよ。生命の神秘、という意味です」


 呪術の言葉によって表されれば、当然、呪術的な意味を帯びる。

 秘され失われた呪術のものとなれば、なおさら。


 間違いなく、ミルシエーラは生命の象徴だ。


「まさか、剣に書き込む呪文も古語か?」

「え、どうでしょう。ちょっとそこまでは、分かりません」


 ミルシエーラは困ったように顔を伏せた。手を伸ばして枯れ葉に火をつける。


「さて、仕度は終わりました。夕飯にしましょう」

「え。あっ! うわっ、しまった、すまん全然手伝わなくて!」

「いえ、私は慣れたことですから。手伝っていただくより、話をさせていただけたほうが嬉しいです」


 暗に足手まといだと言われたのである。

 ミルシエーラは妙に楽しそうに、固形スープを溶かし始めた。


 食事を済ませ、とりとめのない思い出でも語り合っているうちに、日が暮れていつしか夜になっていた。

 また、月がない。

 新月と月蝕が続けて起こったのか? それとも新月が長い?

 生前月を見ることなどなかったから、運行に少し自信がない。


「もうお休みになられますか?」


 夜空を見上げていたからか、ミルシエーラが声をかけてきた。


「休んだ方がいい、とは思うんだが、目が冴えてどうにもな」


 今朝から寝っぱなしだったから、無理もない。

 病み上がりで体力もないはずなのだから眠りたいが、頭で思ったところで体が聞いてくれるものでもない。


「どうぞ」

「お、ありがとう」


 ミルシエーラが毛布を渡してくれた。

 この毛布は妙に薄く、柔らかいものではないが、なぜか断熱性に優れていてまったく冷えない。自分の体温で温められて、しまいには暑くなるほどだ。

 隣にしゃがみこみ、ミルシエーラはうつむいた。


「お体の加減はいかがですか?」

「すっかりよくなった。ありがとうな」

「いえ」


 ミルシエーラはうつむいたまま、毛布の端を見つめている。

 ゴミか何かがついている、というわけでもない。


「忠志様、お願いがあります」


 小さくつぶやくように、聞こえなければそのままなかったことにするつもりだったかのような、かすかな声。

 だが意を決したように顔をあげて、ミルシエーラは口をぐいっと引き結んだ。


「私を、抱いてください」


 言葉を追いかけるように、ミルシエーラは体を預けてきた。

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