削られた番号
薄い水色の硝子の輪を、俺は布の上へ置いた。
朝の冷気を吸った硝子は、指先より少し冷たい。縁には乾いた土が薄くこびりつき、その下を刃物でさらったような白い傷が何本も走っていた。
削られた製造番号が四つ。
一番新しい刻印の下から、古い数字の角だけが覗いている。人形の外装には交換履歴を残す決まりがある。だが、これは履歴を残した跡じゃない。
消そうとして、消し切れなかった跡だ。
「師匠、磨けば読めるかもしれません」
チコが細い研磨布を持ってきた。いつもの整備なら、傷の深さを見るために油を一滴落とすところだ。だが今回は、それすら証拠を変える。
「触るな」
俺が言うと、チコの手がぴたりと止まる。
「これはあの道化の人形の部品だ。落とし物でもある。削る許可はもらってない」
「……はい。表面を変えない方法を考えます」
チコはすぐに研磨布を畳んだ。残念そうにはしたが、言い返さない。布を道具箱へ戻す時も、輪へ粉が飛ばないよう蓋を先に閉めた。
整備台の向こうでは、ルクスが消えた胸の結晶を押さえながら、輪を見ていた。
「その輪、舞台の光を曲げるためのものだよ。ルクスの結晶と、少し似てる」
「光らせられるか」
「ルクス自身は、まだ光らせない。でも――」
彼女は周囲に浮いていたハート形の結晶を三枚、輪の上へ並べた。
「外から来た光を曲げるだけなら、熱は出ないよ」
胸の結晶を無理に使わない。その判断を、今のルクスは自分の言葉で選べる。
俺は真鍮の手提げランプを整備台の端へ移した。芯を少し下げると、煤の匂いが消え、炎の輪郭が細くなる。ルクスが結晶の角度を少しずつ変えた。琥珀色の光が糸のように絞られ、硝子の輪の内側を斜めに撫でる。
正面からでは見えなかった溝が、長く影を引く。
「きらっ……とはしないけど。見ててね」
ルクスは舌を噛みそうなほど慎重に、結晶を傾けた。普段なら見栄えを気にするところで、今は一度も笑顔を作らない。光がずれるたび、息を止めて角度を戻す。
チコが紙を敷き、影になった数字を書き取る。新しい刻印と古い刻印を色の違う墨で分け、重なった線を一本ずつ拾っていった。
「読めます、師匠。いちばん下がV二百八。次がV百六十三、その上がV九十四。最後が……V二百四十一です」
四つとも、ヴィトレア工房の番号だった。
「ルクスの番号とは違うよ。あの子の輪なのかな」
「分からない。だから決めつけない」
輪に番号が四つあるからといって、あの人形の中に四人いることにはならない。部品を替えられた回数も、記憶が欠けた理由も、本人に聞かなければ分からない。
作った側の帳簿が何と呼ぼうが、持ち主が誰だと主張しようが、あいつの意思まで番号で分けることはできない。
今、確かなのは一つだけだ。
レオポルトたちは、番号を削った。
翌朝、俺は輪を王都ギルドへ持ち込んだ。
石造りの窓口には朝一番から職人が並び、濡れた外套と油と紙の匂いが混じっていた。俺は輪を布ごと差し出し、拾った場所と時刻を書き、落とし物として預ける。マルガは受領証を二枚作り、一枚を俺へ渡した。
「勝手に持っていたと言われないためです。傷の位置も記録します」
「頼む」
チコが写した四つの番号も添えた。ただし、元の輪には油も研磨剤も使っていない。斜めから光を当てて読んだだけだと余白へ書かせた。
マルガは輪を持ち上げず、布の端を引いて検査皿へ移した。それから保管棚へ向かい、ヴィトレア工房の登録簿を出す。厚い革表紙が机へ落ちると、鈍い音が窓口の奥まで響いた。
最初の番号を探した指が止まった。
「V二百八。舞踏補助型。銀秤商会が五年前に取得。三年前、全身破損で廃棄」
二つ目も、三つ目も同じだった。
V百六十三は影像型。二年前に全身廃棄。
V九十四は音響型。一年前に全身廃棄。
最後のV二百四十一だけは、半年前に銀秤商会へ入った平衡補助型で、登録簿の状態欄が空白だった。
「全部、商会の人形っすね……」
チコは番号を書いた紙を握りしめた。紙の端が小さく鳴り、慌てて指を緩める。
マルガが別の帳簿を開く。廃棄した人形の部品を別の個体へ移す場合、元の番号と移した先を届ける欄がある。
四つとも空白だった。
「全身廃棄と届けながら、部品を使い回した可能性がありますね」
マルガの声が硬くなる。
「この輪だけでは、どの部品をどの人形へ移したかまでは証明できません。ただ、登録を消そうとした痕跡は残っています。検査官を呼びます」
奥の部屋から来た商業検査官は、輪と帳簿を見比べたあと、銀秤商会の欄へ赤い札を挟んだ。乾いた紙の音が、妙に大きく聞こえた。
「登録外部品を使った人形を興行へ出した疑いがある。調査が終わるまで、興行停止を七日から十四日へ延長する」
銀秤商会の見世物小屋は、自分たちの帳簿と、自分たちが削った番号で止まった。
俺は何も足していない。
落ちた輪を、落ちていたまま届けただけだ。
「師匠。あの人形を連れてくることは、できないんですか」
ギルドを出たところで、チコが聞いた。大通りには荷車の轍が重なり、車輪が石畳を噛む音が続いている。その騒がしさの中でも、チコの声だけはよく聞こえた。
「できない」
「膝は悪くなっていました」
「ああ」
「それでも?」
「それでもだ。俺が聞いた時、あいつは許可しなかった」
同じ言葉しか返せないほど壊されているのかもしれない。命令で口を塞がれているのかもしれない。
だからといって、俺に都合のいい返事を、あいつの沈黙へ押し込むわけにはいかない。
「次に会えたら、もう一度聞く。答えられる場所でな」
チコはしばらく黙ってから、写し取った紙を整備鞄へしまった。
「その時まで、ぼくが記録を守ります」
「任せる」
短く答えると、チコは鞄の留め具を二度確かめた。一度目は音を聞き、二度目は指で引いて確かめる。教えた通りの確認だった。
廃棄場へ戻ると、午後の整備台にはルクスが座っていた。
昨日より胸元の熱は下がっている。だが、発光導線の焼けは外から見えない。衣装の胸元を自分で整えたルクスが、外板へ手を当てて息を吸う。
「開けていいか」
「うん。お願い、マスター」
ルクスは一度うなずいたあと、俺の手首へ指を添えた。
「でも、今日はルクスも中を見たい。自分がどんな時に止まらなきゃいけないのか、覚えたいの」
「分かった。痛みか怖さが出たら言え。そこで止める」
「光れなくなるのが怖い、でもいい?」
「理由は何でもいい」
胸の外板を外し、焦げた被膜を竹べらで少しずつ剥がす。結晶の台座から煤を拭い、冷却路へ細い布を通した。焼けた導線は切らず、傷んだ位置へ印だけをつけて、今日は閉じる。
一度で終わる工程じゃない。
ルクスは黙って見ていたが、俺が台座へ触れた時、小さく「止めて」と言った。
俺はすぐに手を離した。工具が受け皿へ触れ、かすかな金属音を立てる。
「ここが怖いか」
「うん。舞台で、光が弱いって何度も叩かれた場所だから」
「今日は触らない」
「……整備が遅れちゃうよ?」
「一日遅れるだけだ。黙ったまま壊れるより早い」
ルクスは胸の中に残る暗い結晶を見下ろした。光らない結晶には、整備台の木目と、覗き込む彼女自身の顔がぼんやり映っている。
やがて、自分から外板を押さえる。
「明日、もう一度お願いするね。明日は、触る前に合図して」
「ああ」
「ルクス、止めてって言っても、ここにいていい?」
「止めたから捨てるなら、最初から聞かない」
彼女の星形の瞳が、ランプの光だけを映した。
「そっか」
結晶は光らなかった。
それでもルクスは、舞台で覚えた笑顔ではなく、力の抜けた小さな笑みを浮かべた。
「じゃあ明日も、自分で決めるよ。マスターと一緒に」
外板を戻したあと、俺は整備記録帳へ、ルクスが自分で止めた位置を書き加えた。故障箇所と同じ欄には書かない。止めると決めたことは、不具合じゃない。
夜になっても、硝子の輪を拾った時のことが頭に残っていた。
番号は記録だ。
名前でも、意思でもない。
四体分の部品を寄せ集めたとしても、あの道化の人形が四体の代用品になるわけじゃない。あいつがジゼルと名乗ったなら、その声は一つだ。
次に会えた時、聞くべきことも一つだった。
お前は、どうしたい。
その時、北の林で白い光が瞬いた。
一度。間を置いて二度。さらに高い場所から三度。
偶然の反射じゃない。場所を変えながら、同じ順番を繰り返している。
ルクスが立ち上がった。椅子の脚が床を擦り、暗い作業場へ短い音を残す。
「あれ、ヴィトレア工房の救難合図だよ」
俺が整備鞄を取った直後、北街道から馬蹄が響いた。
葡萄酒色の覆いをかけた二台の馬車が、救難の光を追って林道へ曲がっていった。
(第21話へ続く)
すり減った刻印や古い石碑の文字は、正面から照らすより、横から低い角度で光を当てたほうが読みやすくなることがあります。浅い溝が影を落として浮かび上がるからです。作中では、ルクスの結晶でランプの光を細く絞り、輪の表面には一切触れずに番号を読み取りました。お読みいただきありがとうございます。
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