変わってしまった日常
父は気づいていた。
ここ数日、リアが店を手伝いながら、時折ぼんやりと物思いにふけっていることに。
ルークやミイナと話していても、ふと心ここにあらずといった表情になる。
「ちゃんと話聞いてる?」
と二人に呆れられている姿も何度か見た。
空いた時間には、王宮から借りてきたという本を読んでいる。
夜にはルークとミイナに読み聞かせをしてやることもあった。
自分もその本の題名だけは知っていた。
亡き妻エリスが昔読んでいたことがある。
(確か…町娘と王子様の物語だったか)
最初は、物語に感情移入しているだけだと思っていた。
泣きそうになったり、顔を赤くしたり、夢中になって笑ったり。
そういう年頃の娘らしい反応なのだろうと。
だが、どうやら違う。
リアはたまに、泣きそうになると自分の頬を軽く叩き、顔を赤くしては頭を振って何かを追い出そうとしていた。
まるで、自分の感情に戸惑っているように。
きっと王宮で色々あったのだろう。
初めて家に王太子殿下が来た時は、その威厳と立ち振る舞いに圧倒され、自分ですらまともに顔を見られなかった。
だが二度目、リアを送り出したあの日。
近くで見た殿下は、思わず見惚れるほど整った青年だった。
娘も年頃だ、王宮に憧れても仕方がない。
それに、王宮には殿下以外にも目を引く人物が多いのだろう。
……まさか、平民の娘が王太子殿下と親しくなるなどあるはずがない。
あるとしても、側近や衛兵あたりだろう。
この時の父は、まだそう思っていた。
翌朝の朝食時、リアがパンを口にしながら少し弾んだ声で言った。
「これから王宮へ本を返しに行ってくるね。だから今日はお店のお手伝いできなくて、ごめんなさい」
「また王宮へ行くのか?」
ルークが勢いよく椅子から立ち上がる。
「ちゃんと帰ってくる?」
ミイナも不安そうに尋ねた。
リアは苦笑しながら頷く。
「今日は本を返しに行くだけよ。また借りてくるかもしれないけど……夕方には帰るから。大丈夫」
「そうか……」
父はふと気になって尋ねた。
「その本を貸してくれた人って、どういう方なんだ?」
「レイ様……ううん、殿下の側近の方よ。何か良い本がないか聞いたら貸してくれたの」
リアは少し慌てたように言い直し、笑顔を浮かべた。
「じゃあ、行ってきます!」
そう言って、まるで跳ねるような足取りで家を飛び出していく。
扉が閉まった後、父はぽつりと呟いた。
「……いや、まさかな」
今、リアは確かに“レイ様”と言った。
(王太子殿下を名前で――?)
胸の奥が妙にざわつく。
娘は今、王国では英雄視されている。
一部では、この地に伝わる女神になぞらえ、“リア・エル・フィーネ”などと呼ばれているらしい。
だが、自分にとってはただの娘だ。
小さな頃から見てきた、優しくて、不器用で、少し泣き虫な娘。
そんな娘が突然“聖女”だの“英雄”だのと呼ばれていることが、未だに現実味を持たなかった。
帰ってきたリアで、変わったと感じるのは一つだけ。
まるで、誰かに恋をしているような顔をすること。
(……いや、まさか)
確かに災厄を止めた功績があれば、殿下と言葉を交わすことくらいはあるかもしれない。
だが、それ以上など──
王宮で何があったのか、リアはあまり語らない。
急に連れて行かれ、辛い思いもしただろう。
だから、自分から無理に聞こうとは思わなかった。
けれど今は、少しだけ気になる。
楽しそうに王宮へ向かう娘の姿が、不思議でならなかった。
リアは少し浮かれていた。
今日は、本を返しに行くだけ。
忙しいレイに会える保証なんてない。
それでも、“もしかしたら”と思うだけで胸が温かくなる。
道を歩けば、近所の人達がいつものように声を掛けてくれる。
「おはよう、リアちゃん」
「元気そうだねぇ」
八百屋のおじさんや、パン屋のお姉さんが店先から手を振ってくれる。
リアも笑顔で手を振り返した。
みんな、普段通りだ。
それが嬉しかった。
王宮のことも、呪いのことも、誰も深く聞いてこない。
きっと聞きたいはずなのに。
でも、もし自分がどんな日常を送っていたかを話してしまったら。
“普通”だったはずのみんなとの間に、見えない距離が出来てしまう気がした。
だから、このままが良いと思った。
だが自分の町を離れた頃から、空気が少しずつ変わり始める。
浮ついていた気持ちも、自然と静かになっていった。
道行く人々が、自分を見て何かを囁いている。
小さな子供が指を差して叫ぶ。
「聖女様だ!」
老齢の女性は、通りすがりにリアを見るなり息を呑んだ。
その目に宿るのは、憧れだけではない。
――畏怖
自分が“普通ではない存在”として見られているのだと、嫌でも理解してしまう。
リアは俯き、足早に王宮へ向かった。




