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32

馬車はそれ以上先へ進むことが出来なかった。


王都を出てから、すでに半日以上が経過している。


夜は明けたはずだが、空はどんよりと曇っていた。


目の前には村があるはずだった。


しかし、そこには白い霧が“壁”のように立ちふさがっている。


ルシアンが窓の外を見て呟く。


「……ここか?」


アルヴェインは地図を閉じ言う。


「目標の地点より手前です。この壁、村の内側から構築されているようですね」


「障壁か」


ルシナスはそう言いながら小さくため息をつく。


レイは窓から霧を見ていた。


リアは“何者かの声を聞いている”ようだった。


『ここから先は、通せない』


『……来てはいけない』


その声は空間全体から聞こえるようで、リアの肩が小さく震える。先程とは違い、皆には聞こえていないようだった。


「声が、来てはいけないって言ってる…」


リアが呟く。


「どういうことです?」


アルヴェインが即座に問う。


「分からないけど、聞いてみます。そこに誰かがいる気がして…」


リアは霧の奥で何者かが“こちらを見ている”気配を感じていた。


リアは迷いながら“誰かに”声をかけた。


「……あなたは、誰?」


少し間を置いて、返事が来る。


『……ユースティア』


「ユースティア?」


リアが聞こえた名を呟くと、周りの空気が静かにピンと張り詰めた。


レイとルシナスの視線が鋭くなる。


アルヴェインは霧の壁をジッと見つめた。


リアはゆっくり息を吸い、そしてもう一度問う。


「ずっと私に声をかけていたのは、ユースティア……?」


問いに返事はなく、先程と同じ言葉を繰り返す。


『ここから先に、あなたたちを通せない』


リアは息を止める。


レイは動かないまま、その横顔を見ていた。


アルヴェインが、霧を見つめたまま小さく呟いた。


「ユースティア……もしや白い女か?」


その名には心当たりがあった。


禁書庫


埃を被った古い書物のその奥から滑り落ちた紙の束。

そっと捲らなければ、今にも破れてしまいそうなほど古い手紙だった。


所々掠れ、文字も読めなくなっている。


だがそこには確かに、

“ユースティア”という名が何度も書かれていた。


後悔


感謝


想い


“君の気持ちに応えられず、申し訳ない”


そんな言葉だけが、断片的に残っていた。


誰かの古い恋文だと思っていた。


――違ったのだ。


リアは馬車の扉の前に立っていた。


霧からは“見ている”ような気配が漂っている。


振り返るとレイがこちらを見ており、ルシアンは黙っていた。


「行くのか」


レイの問いにリアは少しだけ躊躇い、頷いた。


「……はい。行ってみます」


ルシナスが小さく息を吐く。


「止めても無駄っぽいな」


そしてレイを見る。


「一人で行かせるのか?」


レイは窓から霧を見ながら言う。


「何かあればすぐに行く」


「皆で行って刺激したら、何が起きるか分からない」


「それに外には騎士達がいる」


扉の前に座っていた従者が慌てて立ち上がり、リアが馬車を降りるためにそっと手を差し出した。


リアはその手を借りながら、小さく微笑む。


「ありがとう」


従者は顔を赤くした。


「い、いえ……これしきのこと……」


従者へレイとルシアンの視線が同時に向かう。


従者が震え小さく悲鳴を上げた。


「ひっ……」


慌てて定位置へ戻っていく。


ルシナスが呆れたように言う。


「お前も大概だな」


レイは何も答えなかった。


リアは霧の前まで歩いていく。


指先で触れると、水面のように波紋が広がった。


リアはゆっくり問いかける。


「あなたが……この国を霧で覆ったの?」


少し間を置いて、霧の奥の声が返る。


『……はい』


リアは続ける。


「王様を好き……だった?」


今度は、さらに長い沈黙が落ちた。


『あの人を愛していました』


『……人間の“好き”は、今でもよく分かりません』


『でも、私は愛していました』


霧が静かに揺れる。


『一緒にいたかった』


『私を怖れずに受け入れてくれたのは、あの人が初めてでした』


リアは黙って聞いている。


『でも、呪いが動き始めた』


空気が冷えていく。


『あの人は悩みました』


『国が滅ぶことを』


『人が不幸になることを』


『王として、耐えられないと言った』


『私は人間をよく知りません』


『でも、あの人が苦しむのは嫌だった』


『二人だけになっても、国が滅べば……きっとあの人は笑わない』


リアの表情が少しずつ変わる。


『だから、私が呪いを抑えました』


『霧となって、ずっと見ていました』


『次の王が判断を間違えないよう見ていました』


『私は、呪いを封じるためにほとんどの力を使っていました』


『だから直接伝えることができなかった』


『……呪いが少しずつ私の力を押し返し外へ出始めた』


リアはその言葉一つ一つに頷いていた。


馬車の中では、誰も話さない。


ただ、リアが何かと話している姿を眺めていた。


リアは境界へ触れたまま、真っ直ぐ前を見ていう。


「ここを通してくれる?」


「通りたいの」


霧が激しく波打つ。


『この先は危険です』


「それでも行くわ」


リアは、しっかりと前を見据えた。


「私達が……何とかする」


その声は真っ直ぐだった。



長い沈黙の後、白い霧がゆっくり左右へ割れていき道が現れた。


村の中へ続く道。


ルシアンが小さく呟く。


「……開いたな」


アルヴェインは目を細める。


リアが振り返ると、レイが馬車を降りて来た。


迷いなくリアの隣へ立つ。


「一人では行かせない」


リアが目を見開く。


ルシナスも後に続いて来て肩をすくめ


「言うと思った」


と言った。


そしてアルヴェインも、静かに馬車を降りて言う。


「ここまで来て、私だけ残る訳にはいきません」


目の前には暗い沼の底のように静かな村が広がっていた。

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