第二章〈晴輝〉一話
「実は私たちが普段目にしている自然数って実数の中で考えるととても稀なものなんだよね。同じように考えると、数式で表される一つのある無理数、例えばルート2なんかも同じくらい稀なものに感じる。なのに私たちはその数を認識して、計算に扱えるの。それって凄く奇跡的なことじゃない?」
ここ一週間ほど晴輝は気が休まらない日々が続いていた。ちょうど一週間前の六月二十三日に妹の梶山雪が殺害されているのを発見した。それで呆然としてしまったのを覚えている。その後すぐ警察へと電話した。母にも電話をした。仕事が長引いていたらしかったが晴輝の話を聞くとすぐに帰ってきた。その頃にはもう警察が到着しており現場を抑える為の準備のようなものが始まっていた。朝よりも焦っていた母は娘の元へ一直線に向かった。娘を見下ろす母の表情は見えなかったが最期の顔を目に焼き付けているようだった。妹が死んでしまったというのに晴輝は悲しいというよりも衝撃を受けているようだった。状況を飲み込むのに精一杯で涙が出る気配は微塵も無かった。
晴輝と母はその日のうちに警察の事情聴取を受けたが、晴輝はそれが終わると寝てしまった。かなり遅い時間まで続いたため、余程疲れていたのか布団に倒れるとすぐ寝てしまったように思う。起きると昼の一時であった。大学に行く気にもなれなかったので晴輝は小中高合わせて初めて学校をサボった。妹の部屋が封鎖され、家に警察の捜査員が出入りするので落ち着いて家に居ることが出来なく、母も放心状態のような抜け殻のような感じになってしまっていてとても話せるような状況でなかったので、気晴らしに外に出かけることにした。
家の近くの公園へ着くといつも小学生で賑わっているはずが誰一人おらず、自分だけが世界から切り取られたような感覚だった。平日の昼間に小学生がいるはずもないから普通のことなのだが、見慣れないものだったからそう感じた。中学生ぶりくらいにブランコに乗ってみることにした。こんなにも狭かったか。あの頃感じていた広大な庭園は今となっては住宅街の庭のように感じる。小さい頃はよく雪と遊びに来たものだった。
『兄ちゃんどっちが高くこげるかきょうそうね!』
『負けるわけないでしょ、俺の方がデカいし、強いんだよ』
『じゃあ負けたらどうするの?』
『好きなジュース買ってあげるよ』
『言ったな、本気出しちゃうから』
そのとき晴輝の目が僅かに潤んだ。昨日はちっとも悲しくなかったのに何故か今日になって心がざわめいている。もう会えないと考えるとそのざわめきは大きくなっていった。思い出したく無くて別の所へ行こうとブランコを降りた。
『お前上手いな』
『兄ちゃんが下手なんじゃない?ちゃんと練習してないでしょ〜』
『いや練習とかある?』
『あるよ!友達と特訓してるもん。秘密の特訓だよ。誰にも言わないでね』
『お前が言っちゃってんじゃん』
あの自動販売機はあのとき雪にジュースを買ってやったやつだ。確かオレンジジュース。結構酸っぱいらしく途中から険しい顔をしながら飲んでいたのを思い出した。思い出したくなくても二十年近く暮らしてきたこの街はまさに思い出の宝庫であり、どこへ行こうにも記憶が存在していた。歩き回るうちに元の公園へ戻ってきてしまったから大人しくブランコで時間を潰した。暇になるかと思っていたが考え事が好きだから意外と時は早く流れて行った。
帰り道を歩いているらしいランドセル背負い小学生が見え始めたので場所を移そうとしたが行くあてもなかった。こういう時は凰牙に連絡すると言うことが晴輝のルーティンである。凰牙と天花寺には妹が亡くなったことを伝えていたから事情を知っている凰牙は時間潰しに付き合ってくれるだろう。凰牙に連絡を取ると街の方のカラオケへ行くことになった。凰牙はとてつもなくカラオケが下手だが向上心だけは持っており、いつの日か天花寺を越すことを夢みている。今日もその特訓に付き合うのだろう。晴輝は上手くもなく、下手でもない一番つまらないくらいの実力であるがカラオケ自体は好きだった。大声を出すという行為がかなり気持ち良いからだ。凰牙もそれをわかっていて誘ってくれたのかもしれない。
その後は凰牙と合流し夜までみっちり練習した。妹のことは、会った時に少し冥福をお祈りされたくらいでその後は話題に上がることがなかった。一時だけではあったが少しだけ現実を忘れて楽しめた。家に帰ると封鎖された妹の部屋や力無い母が待っておりすぐ部屋に籠った。明日からは大学にちゃんと行こう。明日サボってしまえばそこからズルズルと不登校中退コースが目に見えていた。
その後も警察の捜査やら、妹の遺体の司法解剖が終わり、葬儀の準備を手伝ったりやらで休まらない日々が続いた。妹が亡くなってから葬儀までに数日くらいの期間があいていたからか、葬儀ではあの時の涙は出てこなかった。悲しくはあったけど、涙は溢れてこなかった。白くなってしまった顔はあのような死に方であったはずなのに、気持ち良さそうな表情をしていた。
色々なことが終わり、妹の部屋も警察の捜査が終わり解放された。全国で事件が起こったというのに1週間足らずで終わらせてしまうとはよく働くものだと感心した。革新的な技術を用いているらしく、以前よりも効率が格段に上がっているらしい。
昨日で全てが終わり、今日は大学も無くゆっくり休める。という訳では無い。初めの方で数学的なセリフがあったと思うがそれは天花寺により発せられたものだ。妹を亡くした友人に初日にする話題では無いはずだが、この状態になってしまうと天花寺は中々止まらない。晴輝は天花寺のことを数学の神と呼び密かに崇める団体の教祖である。信者は晴輝ただ一人であるが。晴輝自身も数学が好きで大学に入るまでに様々な問題を解いてきた。東京大学、京都大学、東京工業大学あたりの入試試験の理系数学は四十年分くらい解いた。特に東京大学は入試試験としての完成度が高い問題が多く、この話題でよく天花寺と盛り上がっていた。それに対し天花寺はネットで公開されている多くの大学、特に旧帝国大学と呼ばれる大学や、その他大学の医学部の問題などを全てやっている様で、自身でサイトを立ち上げ全ての問題の解答、解説まで付けて全世界に公開していた。『理系数学の花』というサイトである。その解法の確かさ、解説を読めばなぜその解法を用いるのか、どの解法が候補としてあるのかなどが全て示されており、その中で最も効率が良いと判断された解法を用いている。また、一つの問題からその類題、発展問題などが学べる『理系数学の花』のページへ繋がるリンクも貼ってあるためそこら辺の参考書よりも良いとネットで評判になっている。晴輝もこのサイトにお世話になっており、それを天花寺が作っていると知った時、衝撃的すぎてその勢いのまま宗教団体を立ち上げたものだ。
話が逸れたが、今日は自宅に天花寺と凰牙を招集した。協力して欲しい事があるのだ。それを話すためにまずは天花寺を止めなければならない。
「それって人生に似てない?人間なんてゴミのように沢山存在してるけど、晴輝は妹というある数式で表せる数を発見してそれで計算したりしてたの。その瞬間が確かに存在したという事だけでも奇跡的なものだと思うよ」
驚いた。まさか天花寺が他人の心を思いやる気持ちがあったとは思わなかった。どこまで行っても自分を押し通し、自分の欲しいものは全て手に入れようとする。それが天花寺 夕妃なのだ。
「た、確かにそうかも。ありがとう」
「それでさ、そろそろなんで俺たちが呼び出されたのか聞きたいんだけど」
凰牙が呆れるように天花寺を睨みつけながら切り出す。それを天花寺は全く気に止めていないようだった。
「そうだね。それは、犯人を探し出すのを手伝って欲しい」
「なんでそんなこと…それに無理でしょ。こんな少人数だったら。全国で大量の警察が動いてまだ捕まってないんだぞ」
驚き呆れるような調子で凰牙が喋っている。しかし天花寺は晴輝を見定めるかのように視線を向けていた。少し緊張したがここで引く訳にはいかない。
「無理とかじゃない俺がやりたいんだ。じゃないと気が済まない。妹を殺した奴を警察より先に見つけ出して、俺が殺す。それが俺のやりたいことだ。お前らはそれは知らなかったと言う事にすれば良い。ただ犯人を一刻も早く捕まえたいという正義感で手伝ったと言えばいい。礼は俺が院行くために一年間貯めてたバイト代を全部やる。殺しちゃったら流石に戻って来れないだろうしさ」
凰牙はさっきよりも目を見開き、明らかに怒りの表情で俺の目を視線で貫く。
「人を殺すなんて簡単に言うな!それにお前が居なかったらお前の母さん悲しむし、俺の人生もちょっと寂しくなっちゃうじゃねえか!頼むよ。そんな無駄な事に時間使わないで、いつも通りに戻りたいよ。」
「それじゃ俺は"いつも通り"に戻れないんだよ…」
「無駄なんてことないよ。むしろそれって素敵なことだと思う。人間ってただ生まれて死ぬ。死んだら金も思い出も全部無くなるの。残るのは生きてる時に存在した瞬間だけでしょ?だから今、もしくは未来で自分が最高に気持ちいいと思えるかどうかが生きる上で最も大事なことじゃん。その点で晴輝の考えは最高だと思う。自分がやりたいことをやるのが人生だから」
これは天花寺の口癖のようなもので彼女を貫く一定の理論である。晴輝はそれを知っていた。そしてその理論的考えをする人を天花寺は誰よりも応援してくれる事も知っていた。あの日のブランコで思ったのだ。何故妹が死んで今隣に居ないのか。それになんの理由もない。誰かの勝手な気色の悪い趣味だけが原因で起こったのだ。それが許されなかった。その怒りは小さな公園のブランコの上で恐ろしく巨大に膨れ上がっていた。カラオケなんかじゃもう元に戻せない、確かなエネルギーに変換されてしまっていたのだ。それからというものはそれが生き甲斐になったかのように作業をテキパキと行うことが出来るようになっていた。何なら事件が起こる前よりも明らかに、晴輝はポジティブになっていたのだ。そして手札は最強のカードである天花寺がある。これよりも強いものを晴輝は知らなかった。もし天花寺の協力が得られなかったり、天花寺でも解決出来なければ全てを諦めるという覚悟が出来ているくらいには信頼出来る確かな心強さがあった。
「そう言ってくれると思ってた。俺なんかじゃ到底思いつかないことも考えてくれる天花寺の協力が得られなければ俺はきっと何も出来ない。それに二人だけじゃ人手が足りない。凰牙にも手伝って欲しいんだ。頼む」
晴輝は立ち上がってから一歩後ずさり、再び地面に座り込み、人生で初めての土下座をカマした。土下座というのはただするものではなく、心から勝手にするものだと誰かが言っていた気がするがこのときの晴輝はまさにそれだった。頭よりも先に体が動くような感覚だった。
「良いよ。喜んで協力する。こんなチャンス滅多に無いよ。自分のやりたいことを実現できる人なんてそんなに居ない。その現場に立ち会えるかもしれないし、そもそも面白そうだしね。全国を恐怖の底に落とした事件を解決したらカッコイイでしょ」
「夕妃がやるって言ったら聞かないの知ってるから、俺は絶対邪魔してやる。お前を犯罪者にさせないために近くにいるよ」
「決まり。じゃあこのチームの名前は実現するのRealizeと明らかにするのRevealをかけてRevealizeにしよう。異論は……うん無いね。じゃあこれも決まり」
こうしてチーム『Revealize』が誕生した。




