あめ (2)
午後の新入生歓迎会が終わって、ホームルームが終わると、その日は解散となった。間もなく、教室後方の戸口から、よく通る声が飛んできた。
「優」
――きょうはいろんな人に名前を呼ばれる日だなと、ぼんやり思いつつ、優は首をめぐらせて声の主をみた。
雪平だ。
向こう隣のた組から、わざわざやってきてくれたらしい。
すぐ席を立ち、優は戸口へ近寄った。
雪平の声はとても通る。かといって高すぎず、低くもなく、ひどくききやすい。その上、多勢の京都っ子、関西っ子にない抑揚だ。いいかたは変だが、目立つ。
そのまた上、ふりかえればちょっとみない美人ときている。
優は中途入学早々、悪目立ちはしたくなかった。そもそも自分の身長では、まったく埋もれるのは無理だとわかっているが。
「雪平」
名を呼ぶ。きょう顔を合わせるのは初めてだ。
なんと挨拶したものか思いつかず、唇をとじた。
「きょう、一緒に帰れる?」
雪平は辺りの目を集めていることなど意に介さない風で、笑みもせず小首をかしげた。
きのう、入学式のあとは、優は早々に叔母と合流してしまった。クラスのわかれた彼女がどういう帰りかたをしたのか、しらない。
きょうはきょうで、思ってもみない予定ができてしまった。
折角できた最初の知り合いだ、誘いには乗りたいが……。
銀縁眼鏡が脳裏できらめく。
《先輩命令》
声まできこえてくる。
「……ごめん、用事が入っちゃって」
「用事。外の? 急ぐの?」
思わぬ畳みかけに、優はあわてた。
こんな反応のしかたをされるのは初めてだった。
「ううん。校内で。先輩に――見学にこいっていわれてさ」
「どこに?」
「生徒会室」
心持ち、小声で優はこたえた。
つい先刻、新入生歓迎会中の部活動紹介で、優はあの先輩の姿をふたたび目にしていた。
他の部や委員会が、ときどきアクロバティックなパフォーマンスをみせる中、一人で壇上に立ったあの人は、猫背でもなく、全体をみすえて、淡々と紹介をこなした。
入学式のときはよくみていなかったのだが、まぎれもなく、生徒会長らしい。
そういえばここの廊下でも、後輩に手をふられていた。校内では名のしれた人なのだろう。
優は目線をわずかにさげ、無表情にも無心にもみえる目でこちらをみあげる、雪平の顔色をうかがった。
「あたしも行こうかしら」
えっ、と、声が漏れた。
「迷惑?」
とっさに、首をぶるぶると横にふる。
そんなことはない。
そんなことはない。そういうことではない。
ただ、雪平の考えかたと、話の速さについていけない。
「見学は、しばらく自由よね」
「そ――そうだね。でも、いいの?」
こんな……なんといえばいいやら。
よくわからないが、なんだかよくわからない成り行きにほいほいつきあってしまって、いいのか。
「そんなに遅くならないわよね。行く。一緒でいい?」
まっすぐに、少女は優をみた。
大きな切れ長の目、形のいい鼻、うすい血の色の唇。目も口も、にこりともしない。
その分、真剣だ。
そう思った。思ってしまった。
考える前に、優はうなずいてしまっていた。
「うん……じゃ、一緒にいこう」
* * *
雪平も外部入学生だからいいだろう、という理由を思いついたのは、廊下を歩きだしてしばらく経ってからのことで、何をどういいつくろっても後付けである。
自分はおそらく彼女の迫力に圧されたのだと、分析しつつ、優はちらと隣を歩く雪平をみやった。
まっすぐ前をみている。小造りの顔に、艶々の黒い髪。
美人は説得力がちがうなあ、などと思う。
「優」
思いのほか遠い声に呼ばれて、優は足をとめた。件の、向かいの校舎の二階の廊下である。
「過ぎてる」
優を呼んだのは雪平で、隣にいたはずが、いつの間にかいきすぎてしまった優につられることもなく、目当ての部屋の前で戸を指さしていた。
目をあげると、なるほど、表札に生徒会室と出ている。
本意でないのが行動に出たかなと思いつつ、優はおとなしく雪平のそばへ戻った。
ノックをしようと拳をつくり、叩く前に雪平をみる。
「ほんとに行く? 帰ってもいいんだよ?」
「いいわよ」
「良くないよ」
ガラリと戸が滑り、室内から優の面へ三つめの声が浴びせかけられた。
あ、と、優は常になく近い目線に動揺しながら応じる。三つめの声の主は、例の二年生、晴である。ひとまず軽くお辞儀してみる。
「どうも、その節は」
「何だい、連れがいると思ったら――晴だ。よろしく、雪平君」
「よろしくお願いします」
面食らったかと思えたのはほんの一瞬で、雪平は名を呼ばれてすぐ、挨拶を返した。
初対面のはずだ。
晴が名前をしっているのも、なぜなのか、よくわからないが。
雪平のほうも、随分、肝が据わっている。
「よく来た、二人とも入りたまえ。聞いてる、優君?」
「え、あ、はい、入ります。失礼します」
雪平に感心しっぱなしでぼんやりしてしまった。優は頭をさげ、雪平の半歩あとから室内へ踏みいった。
引き戸に似合わずすっきりとした、白を基調とした明るい室内には、十人ほどの生徒たちが中央のテーブルを囲んで、めいめい立ったりすわったりしている。
中には幼い顔立ちもある。中等部生だろう、よくみると、制服の形が少しちがうようだった。
「いらっしゃい、二人とも。そこ座って」
やわらかい京言葉の抑揚で、こちらをみた小柄な二年生が、あいている椅子を勧めてくれた。
優はいわれるがまま、戸口のそばの席にむかった。一つ奥の椅子をひき、雪平を手招いて、さきにすわらせる。
それから末座に腰をおろした。
「どうぞ」
椅子を勧めてくれた二年生が、今度はお茶を出してくれた。二客の白磁のティーカップに、深く濁った、みるも鮮やかな緑茶が注がれている。
なんて贅沢な。
しかも倒錯的な、と思う。優は緑茶が酸化するのをおそれ、急いで口をつけた。
熱い。
舌を火傷した。思わずカップを置く。隣で雪平は唇をすぼめ、細く息を吹きかけて冷まし、上品にこくりと飲んだ。
「美味しい」
雪平がつぶやくと、小柄な二年生はにっこり笑んだ。
「そう。よかったわ」
ゆるくウェーブする黒髪を二つに束ね、小ぶりの目鼻立ちに、黒目勝ちの瞳が愛らしい。良家のお嬢さんという感じのする人だ。
「清。私のは?」
「ああ、待って」
さや、と、晴に呼ばれて、その人は部屋の片隅へ急いでいった。戸棚を探す晴の横で、布巾に覆われた水切り器から湯呑みをとりだす。
「あれ、なんでそこ?」「汚れてたから洗っておいたのよ」――。
そんな言葉を交わしながら、ためらいもなく高級玉露をいわれる前から入れてやるさまが、ちょっとやそっとじゃ成り立ちえない、仲の良さをうかがわせる。
なんとなく気恥ずかしくなって、優は二人から目をそらした。
斜め前の席についている、ショートカットの生徒と目が合った。
「すまんね、うちとこのバカップルが」
ああ、いえ、と、優は首を横にふった。
そうか。あの二人は、そういう認識なのか。
それにしても、なにもバカップルとまでいわなくても。何といえばいいだろう、おしどり夫婦?――へたにフォローしようとすると墓穴を掘りそうだ。
「きょう全員紹介してもおぼえきれんだろうから、とりあえずこの辺でもおぼえていって」
晴がこちらに舞いもどってきて、玉露の盆を掲げた先の女子生徒と、たったいま優と言葉を交わしたショートカットの生徒をぐるりと指ししめした。
「あ、あと、おぉい、柾ちゃん」
はい、と、返事とともに立ちあがった生徒を、晴は小刻みに手招きした。やってきたのは、栗色の髪をおさげにした、どことなくおっとりした印象の生徒だ。
「柾は高一だから、唯一、きみらと同じ学年なんだ」
抑揚はともかく、それ以外は関西弁を感じさせない言葉遣いで、晴はその生徒を紹介した。
「で、あとはこっちが清。そっちが鎮。高二な」
「初めまして。雪平です」
すわったままだが、膝に手をそろえ、雪平がきちんとお辞儀する。優も隣にならう。
「優です」
柾です、よろしくお願いします、と、栗色の髪の生徒がゆっくり頭をさげた。いや、この時点でよろしくお願いされても、まだ入会するかどうかも決めていないのだが。
あとは二年生二人が、清は品良く微笑んで、鎮は事務的に挨拶した。
清が湯呑みを置いてくれた席に、素早く腰かけて、晴は一口、お茶を啜った。
「とりあえず見習いとして入ってほしいんだよね。二人には」
――ん?
あれ、と、優がひっかかっている前で、晴と清が仲良しすぎるやりとりを始めた。清がぱんぱんと軽くテーブルを叩くと、
「旨い旨い」
と晴がこたえ、清がそれに
「よろしい」
と満足げに笑みを深める――。
「ちょっと、あの」
雪平の手前、そうぼんやりしてもいられない。
優は手をあげた。
「はい、優君」
晴の指名を受け、発言する。
「二人? 呼び出しを受けたのは、わたしですよね」
「でもきみら二人来たじゃない。二人で入るよね?」
「えっ、あの」
なんだこの展開。
この人怖い、と、晴の銀縁眼鏡をみて思う。
優はあわてた。雪平はただ、優につきあってここまできただけだ。
見学かもしれないが、入るだなんてきいていない。優自身も、そのつもりはまだないのに。
「雪平君、どう?」
銀色を光らせて、晴は優の隣へむかってたずねた。
「わたしは、入っても構いませんけど」
「えええっ」
思わず優は立ちあがる。
湯呑みを持ったままの晴がごくりとお茶を飲んだ。清はにこにこと、鎮はひょいと自分のマグカップを持ちあげて、テーブルの揺れからお茶を逃がした。
それどころではなく、優はほとんど雪平に向きなおって問う。
「駄目だよ、そんな簡単に。先輩の口車に乗せられちゃ。毎日雑用みたいなもんだよ?」
「思った以上に失礼だね、優君。前の学校の先輩方のしつけが良かったんだな」
晴が低めの声で何かいっているが、優にははっきり聞こえない。
雪平はソーサーに手を添え、細い指でカップの柄をつまみながら、優を上目遣いにみる。
「いいわよ。優も入るのなら、入るわ。他に入りたい部活もないもの」
「おぁっ――ぇえ?」
――何?
発想が追いきれない。
いま、何がどうなったんだろう、雪平との話の中で?
優が固まっていると、パン、と、景気のいい拍手が背中にひびいた。
「決まりだな。よろしく、二人とも!」
「決まってないですう! 待って! ください!」
ぐるりとふりむき、優は必死で訴える。
晴に、つぎに雪平にむかって。
「ちょっと待って……意味がわからないです。話をさせてください。雪平と」
「いいわよ」
何かいいかけた雪平の声に、晴の声がかぶさってくる。
「いいよ、じゃ十秒あげよう。十、九、八――」
「小学生みたいなことしないの、晴」
焦りのあまり優が涙目になりそうになっていると、清が晴の無体をとめてくれた。
優は乱れた呼吸を整えようとしつつ、おそろしい上級生をふりかえる。
「冗談だよ」
どこからが?
まったく計りしれない表情で、晴は謎のうなずきをくれた。
「いいだろう、じゃ、特別に、一日あげよう。ゆっくり話し合って、じっくり考えて、そんでもって最終的にうちに入るといい」
「あ……」
お礼をいいそうになって損した。優は口をつぐんだ。何という呪いの言葉だ。
「きょうのところは見逃してやろう」
「晴、それじゃ悪役よ。まともな勧誘しなさい」
「どうやって?」
「そうねえ」
ううん、と、うなって考えこむ晴と清を横目に、鎮がかすかな困惑顔で優に声をかけてくれた。
「いいよ、優君、雪平君。二人とも、きょうはもう帰って」
「あ――、はい」
久しぶりに、本当に久しぶりに、まともな言葉をもらった気がする。
優は奇妙な開放感と、不可解な感動をもって、ショートカットの上級生をみた。
「きょうは来てくれてありがとう」
目を合わせ、鎮は率直にそういってくれる。
いえ、こちらこそ、と、優は首をふって頭をさげた。
唯一の高一生、柾が戸口に移動して、戸をあけてくれる。
出口を示され、優は雪平とともに廊下へむかった。
「もちろん、無理強いはしないけど、考えてえな。二人が入ってくれたら、嬉しいわ」
敷居をはさんで、柾がのんびりした口調でいう。
追い討ちのようだが、他意はなさそうだ。
気ぃつけてな、という声と一緒にせばまる戸口の向こうで、晴が悪びれもせず、こちらにむかって手をふっていた。




