たに
最大の関門かと思ったクラス替えは、難なく通過できた。高二への進級時、外国語重視、文系の身として十分その可能性はあると考えたが、ふたをあけてみたら、優は彼女と同じクラスにはなっていなかった。
残念ながら、一ともクラスがわかれてしまった。オールマイティにどの教科もこなすこの友人は、文理どちらも志望できるクラスにふりわけられた。優の理系科目の成績はまったく自慢にならず、文系科目も主に力点を置いているのは英語だったから、進路別のクラス分けではいたしかたないことだった。
そうはいっても、周りの大多数は一緒にすごしてもう五年になる顔ぶれなので、クラスの別なぞあってなきがごとしである。優も昼休み、教室でクラスメイトとランチをすませたあと、一のクラスにふらりとお邪魔するのが日課になってしまった。
さくらんぼをわけてもらいながら、すこぶる益体もない話をする。
「佐藤錦が北海道でつくれるようになったやろ」
「いつの話? ていうかつくれなかったの?」
「ちょっと前や。佐藤錦て、山形かどっかやろ、北海道じゃ寒すぎてだめだったらしい」
「ふうん。温暖化のせい? おかげ?」
「わからんけど、このさくらんぼが昔よりなるいんは、そのせいやないかと思うん」
「味、ちがうんだ」
「昔、もう少しひきしまってた気がするんよな」
「味が? 実が?」
「実かなあ」
でも、品種がちがうのかもしれん、と、一は一連の協議そのものを御破算にしてしまう。大体、五回中四回くらいはこんな会話である。
ある日、ナイロン製の透明な手袋をはめてパイナップルをまるごと解体していたところにいきあわせると、さすがに優はこの友人が心配になった。
「そこまで……」
「いや、違う。違うで。いつもの直売所の人がくれたん」
「常連すぎるでしょ」
「いやくれたら貰わないわけにいかんやんか。もう皆に配らな処理できんし」
「もらうよ」
「そやろ。そやろ。うまいで~」
「いやまだ食べてないでしょ」
「くれたおばちゃんがいってた」
「そりゃおいしいわ。楽しみだなあ」
「ちょっと待っててな~」
「その手袋、どしたの」
「科学部の子に貰た」
いつものデザートがここまで大がかりになると、一はにわかに大人気である。同級生やら同学年生やらがいりみだれ、果物ナイフで扇型にカットされたそばから、黄色い果実は瞬く間にはけてしまった。
本人はひとくち、ふたくちくらいは食べたのか、満足げに額の汗をぬぐうふりをし、手袋をつけたままだったので、おでこに果汁がついたといって洗面台へ駆けていった。
一が戻ってくるまで、優はすっかり居なれたよそのクラスの定位置で待っていた。
一が帰ってきて、ハンカチを鞄にしまいながら、そうや、と声をもらす。
優はなんの気なしにそちらをみた。
「これな、優」
「うん?」
そうっと、スローモーションのようにゆっくりと、一は右手を鞄の中から机上へうごかした。
手につまんでいるのは、厚みのない茶封筒だ。葉書大の、無地の。
おたがい、しばらく、それをあいだに挟んで無言だった。
「……」
一がじっとこちらをみているのがわかる。優はといえば、封筒をみつめていた。
遠慮のすぎるその仕草で、いわずとも中身がしれる。
「写真?」
一は首を縦に一度、振った。
「あけてびっくり」
「……」
「玉手箱、に、なったらいいな」
コメントしなくて申し訳ないが、なにもいえなかった。
一は音もたてずに封筒を机に置いた。心持ち、優のそばへ。
椅子をひき、腰かけようとしたのだろうに、立ったままでいる。
「近年稀に見る傑作やと思うん」
茶封筒を優はみつづける。
「自画自賛やけど」
それは。
他人にみせなければ、どうか――評価はわからないんじゃないか。
そう思ったのを、口にはできなかった。そんな余裕は出てこなかった。
写真。自分の写真。
それを直視するのだとすれば、いつ以来になるのだろう。
中学? その前?
あの姉に、きらわれてから。
「優」
呼ばれて、うん、と応じる。
身動きはとれなかった。
「もらって、持っててみる気、ある?」
遠巻きにもほどがある。気の長い、無謀に近い提案だった。
逡巡はやまなかった。
多分、みることは、できる。だって自分はすでに、それを忌避していた理由をさとっている。
それでも、みたくはない。みたいとは思えていない。
ただ、でも、それを受けとって、持っているだけにして、みなくてもいいという。
そういう一の、常になく、覚悟をきめたような面持ちを目にすると、受けとらないという選択肢がどこかへいってしまう。
一のそれは、おそらく、決別の覚悟だ。
受けとる優も同じ覚悟がいる。
この写真をいつかみて、それに耐えられなかったとき、一をうらんだりしない。
もしくは、一をうらんだからといって、いまの選択をこの友人のせいにしない。
きめるのは、自分だ。
優はそろりと封筒をつまみ、万が一透けていてもみえないよう、極力、視線をそらしたまま膝の上にのせた。
「……」
お礼をいおうと思ったが、いえなかった。
口を半開きにしたまま中途半端に一のほうを向いていると、
「いや、ほんまに、みないでもいいから」
「――うん、いつか、いつになるかわからないけど、みて、冷静で、というか正気でいられたら感想いうね」
ほうとも、はあともつかない息を、一は盛大にこぼした。
「いや、もうええわ、十分――とりあえず受けとってくれただけで」
ようやく椅子に腰かける。随分、長いこと、遠くで話していたようだった。
「欲がないなあ」
「そんなもん出るかいな。めっちゃ冷や汗かいたわ」
「悪いね、気をつかわせて」
一はなにかいいたげに唇をうごかして、結局、なにもいわずに一度とじた。
かと思ったら、ふたたびひらく。
「クラス替えの結果次第にしようと思てて」
優は一をみ、続きを待った。一はうつむくまでいかないが、ほとんど机に目線を落としていた。
「優が最悪ゆるしてくれんくても、組が違うたら多少、気まずくならんで済むかと」
優は思わず、薄く口の端を笑みの形にうごかした。眉を寄せるのをとどめられない。
そうまでして。
「ごめんね、色々とめんどくさくて」
囁くほどの小声でいうと、一は顔をあげ、頭をふった。
「なんにもめんどくさくなんかないわ。これくらいやんか、優の困ったとこなんか」
「そうかな」
誰のどの点を引き合いに出すつもりでいっているのだろう。優はいよいよ苦笑する。
膝の上の茶封筒に手をつけることすらためらわれるのが、己のことながら、いっそ滑稽だった。
あけてびっくり、玉手箱、になったらいいな、か。
封筒がスカートの上からすべりおちないよう、そっと片手のひらを添える。
本物の玉手箱なら、あけると何十年分の経年変化を一気に体現することになるが。
この友人に、なにかいっておきたかった。
「一、わたし、一と友だちになれてよかったと思ってるよ」
「なんやそれ三行半か。いらんわ、絶交前の挨拶なんか」
「そうならないことを切に祈ってる」
「わたしの方が祈っとるわ。お百度参りするわ!」
熱烈な友情宣言である。優は笑ってしまった。
一もほとんど笑いだし、まとう雰囲気がやっとゆるんだ。
「じゃあ、わたしもしなきゃ、お百度参り。これ、みる前に」
「三社参りくらいでいいんちゃう」
「急に気楽になったなぁ。そんなすぐみていいの?」
「いや、そういうわけと違うけど、お百度とかハードル高い。そんな上げられても」
まあ、たしかに、そのあげくに絶交にでもなった日には、いろんな意味で報われない。
優は封筒の感触をたしかめた。一とこうしていたければ、この中身をみない、それだけでいいのだ。だが。
それなのに、一はこれをくれたのだ。そこには、なにか、相当の何かがあるのだ。きっと――。
* * *
最適な同行者がいなくとも、市内の名所観光が優にとって楽しみかつ有益なことに変わりはない。そう思って一度、ひとりで出かけてみたが、成果ははなはだ芳しくなかった。
城南宮のときと同じで、過去の道連れの記憶がよみがえってくるのだ。同じものをみたとして、彼女がなにをいうか、どんなみかたをするか、想像してしまう。以前ならほとんど気にもとめなかっただろう花の咲くのをみて、何という名か気にしてしまう。安と花見に出かけたときさえ、叔母と話していなければたちまち思考がそちらへ傾きそうだったのだから、あの少女の影響力は強大だった。
このままではいけないと思うが、放課後、毎日のように生徒会室に、同じ空間にいて声がきこえてきて、記憶が薄まるひまがないのも一因なのだろう。高くないのによく通る声は、同じ部屋にいれば当然、なんなら廊下や校庭でもときおり、自然に耳に入ってくる。ふと近くを通ったときに花の香りがし、同じ匂いのもっとわかりやすいのが、花の名を持つ後輩から香ったときなど、吐き気を催しそうなほどのめまいを感じた。何のために生徒会に残ったのか、その理由さえわからなくなりそうだ。
これだけだと泥沼でしかないが、生徒会役員の活動はなにも苦でないのだ、むしろ楽しいとさえいえた。一年間と少し、やってみてしったが、優は実務が得意だった。パズルゲーム感覚でスケジュール調整や物品、人員手配、折衝など、大したトラブルもなく進められる。柾には重宝され、実里にはあきれ半分、感心されている。
もう、そこに主眼をうつすべきなのだろう。自分が生徒会に残って、役員になったのは、柾を補佐して皆の役に立つためなのだ。それでいいだろう。
そうしないと、どうにかなってしまいそうだった。
このまま名所にもほぼいかず、せっかく京都でくらす貴重な日々を、無為にすごすことになるのか。そうならないためには、極力、ほかの道連れをみつけて出かけるべきなのだが、そこまでの元気がまだ湧いてこない。
むりやりの自己暗示でも、自身のいまの立場を別の理由で正当化して、なるべく、彼女を理由にしたすべてのことを遠くへ追いやらなくては――。
とりあえず表面上は、それはうまくいっているはずだった。優は彼女とごく事務的な話題でしかしゃべらないし、純粋な課外活動仲間としてのやりとり以外はすべて排除していた。お茶の準備をするとき、たまたまそばにいれば一緒にやるけれど、遠くにいて、そばに別の誰かがいるとき、わざわざ手伝いにいったりはしない。目の前のことと生徒会の仕事に関することのほか、会話を交わすことはない。そこにいる少女は、美しく、綺麗で、誰でもない、みんなの六華さんだった。
一からもらった茶封筒も私室の引き出しに封印して、季節はうつろい、表には出せない精神的疲労と、あきらかな仕事達成の快楽を交互にかみしめて躁鬱なんじゃないかと自分を疑ったころ、衣替えとなった。制服の上着がとりはらわれ、長袖か半袖のブラウスにジャンパースカートの夏仕様に統一される。
更衣の移行期間を終え、もうすぐ梅雨がせまる日のことだった。
生徒会室のテーブルの一席について、優は高一生の数学の問題集をにらんでいた。実里が教えてほしいといって差しだしてきたものだ。
先日、球技大会が終わり、高一、高二生は学習合宿をひかえているが、生徒会活動としてさしあたり大きな行事はない。優と同じく、得意科目が文系にかたよりがちらしいこの後輩は、比較的同レベルな先輩に教わったほうが理解が早いとでも考えたのか。向いていない頭同士をこづきあわせても何も生まれないことを、身をもって体験したかったのかもしれない。なかなか不毛な試みである。
実里がお茶をいれているあいだ、教科書や実里のノートをめくってみたが、優は早々に匙をなげようとしていた。解法をぼんやりおぼえているが、それにしてもうろ覚えすぎる。それをもって自力で解けたことなど数えるほどもないのじゃないか。
なんだかんだで、芙蓉のほうが得意そうなのだから、実里は芙蓉にきけばいいのだ。なんならついでに自分も教えてもらおうと、優が目算をつけて取り組みをあきらめたころだった。
ひとつあいた隣の席に置いた鞄の前から、雪平が柾の方へ遠ざかって、そのあとに鞄から何かすべりおちた。
ぱたんと軽い音が床でして、優はそちらをみおろす。小さな手帳がページを下にひらいて落ちていた。
「落ちたよ、雪平――」
いいながらひろいあげて、ちょうどひらいた中表紙とカバーの折り返しポケットが目に入る。
かすかな、空気。
それを感じたか感じないかの隙に、細い白い手が手帳をとりあげた。
「――ありがとう。気をつけるわ」
わずかに、ほんのわずかに焦ったような早口でいって、雪平は手帳をとじ、胸の前ににぎりしめた。即座にきびすを返し、柾のいる机のほうへもどっていく。いまは使わないのだろうに、手帳をたずさえたまま。
なに、あれ。
優はすこし、呆然とそれをみていた。
かすかな、この空間とは異なる空気。ちらりとみえた紐。象牙色の紙に、弓を持った蛙の図。それが、落ちた拍子にだろうか、内ポケットからはみでていた。
すがしいというより、なつかしいような匂い。
手帳をひらいた一瞬だけ、鼻先をかすめた。
……文香だ。
先輩、どうしたんですかと、お茶を持ってきた実里にきかれたが、優はうわの空だった。芙蓉にきこうよとだけ、なんとか返事をして、結局、芙蓉が実里に教えはじめたが、優はせっかくの復習の機会を左耳から右耳へ流しに流してしまった。
考えがまとまらないまま、その夕、帰宅して私室の机の引き出しをあけた。紙袋からそれをとりだす。
間違いない、と思う。
あの蛙は弓を持っていた。優のこちらは兎が弓矢をかまえていて、向きは蛙と一緒だ。的が同じ方向にあるからだろう。
あのとき、図柄はほかにもあったが、優はこれをえらんだ。兎と蛙があからさまに対立したり、競いあうような絵を、避けたかったから。
なぜ。
なぜ彼女が、それを手帳にしのばせている?
持ちあるいて、隠すようにして、優の前からとりあげた。
量産品のお香だ、この世に唯一無二のものじゃない。あのとき優とそろいで買ったものとはかぎらない。だが、それでも、よりによって蛙の弓を持つ絵柄を、ひとつだけ持ちあるくのか。
使おうとしたのだろうか。ポケットにはほかにもメッセージカードのようなものが入っていた。一緒に入れていれば、当然、匂いは移るだろう。カードとお香を一緒に封して、誰かへ送ってしまおうとしていたとか。たまたま、優がそれをみたから、さすがにまずいと思ったのか。文香をただしく用途どおりに使うことを、彼女はすでに身につけたのか。
文香をしまった同じ引き出しに、一からもらった茶封筒もあった。優はあけっぱなしの引き出しからその封筒もとりだした。この引き出しの一隅が、いつの間にか、捨てるまでの決心はつかないがどうしたらいいかわからないもののしまい場所になっている。引き出し全体が香の薫りをただよわせていて、茶封筒にも早、ささやかな移り香がしていた。
混乱ついでに、優は机の上に写真を出した。封筒を横に置く。
蛍光灯の下、目にとびこんできたのは、鮮明な画像だった。
冬――聖劇の準備中だ。
天使の衣装を着た雪平と、それに向かいあい、髪飾りを直してやる自分の姿。
雪平は何か話しているのか、わずかに唇をひらき、優の作業が終わるのを待って身動きをとめている。
それを察しながら、飾りにからんだ髪をほどく指先に意識を向ける自分の、顔つきの。目の、口つきの、やわらかいこと。
こんな顔を。
こんな表情を、自分はしていたのか。
彼女といるとき。まるで幸せの只中みたいな。
優は手で口を覆った。ぱたんと写真の端に雫がおちて、あわてて拭いた。
《ええ写真》。
いつかみせてくれると一がいった。たしかに、そうだった。
よすぎて、幸福すぎて、涙があとからあとから湧いてきた。
向かいあった雪平の表情。おたがい、顔はみていないのに、ほとんど同じ顔つきをしている。
大きな目の、切れ長の目尻をなごませ、微笑んで、口角がうれしげにあがっている。
優はその場にしゃがみこみ、椅子の背に額をあずけた。目もとにティッシュを押しあて、声をころした。叔母も叔父もいなかったけれど、もし誰かが帰ってきても、おどろかせないように。
一緒にいると楽しかった。予想のつかない行動も、ついていけない言葉も、まっすぐ向けられる目が好きだった。
もっとどこかへ出かけて、同じものをみたかった。
離れたくなどなかった。
彼女も、そうだったろうか。
一度、手は離されたけど。そのわけはわからないけれど。
こんなに経っても、一緒に買った、あの文香を持ってくれていた。
他の誰かに香水をあげたり、ふたりですごしたことなどほとんどないような態度をしていても。
いや、だからこそ、あの香りをまだ持っていることが、もしかして。
そこに一縷の望みがあると。
もとめて、いいのだろうか。
もう一度。
すがって、はらわれた手を、のばしてみて。
ともにすごす時間が、ほかのなににも代えがたい。
それをいまも切望している。
彼女もそうだと、期待していいだろうか。




