くも
優は人が変わったように、週末のたび、ひとりで観光名所へ出かけた。清水寺、南禅寺、上賀茂神社、金閣寺、平安神宮……雪平とふたりでいったことのないところへ。
なるべく土曜の朝から午後、大きなイベントそのものは避けて(仮にそこに彼女がきていたとしても、きっと家の用事だから、会うことはできないだろう)京都の名所といえば誰しも思いつくスポットをめぐる。当てずっぽうの、賭けでしかない、途方もないばかげたやりかただった。
彼女はどこを挙げていただろう、いきたいところとして。
いつか交わした会話の遠い記憶をたどって、いつもなかばうわの空だったことを悔やむ。
彼女といると、完全には正気でいられないのだ。それなのに、それをもとめているのだから、本当にどうかしている。
学校では、生徒会室では、どうしても彼女のさだめた一線をふみこえられなかった。彼女はみずから、みんなの《六華さん》でいようとしているのだと、優は気がついた。
清がその境遇から、書記としてつとめた立場を、彼女なりに踏襲しようとしている。その彼女に、ごく個人的なことでは、優は話しかけられなかった。
以前のような仲になることなど、青い月を欲しがるようなものなのかもしれない。
そもそも、彼女は一度、優から距離をおいたのだ……。
期末テストのあけた平日、始発にのって優は小さな駅に降り立った。
霧まがいの小雨のまじる曇り空の下、車もほとんど通らない長い道のりをあるいていく。
たしかに観光地で、打ってつけの季節でもあるはずなのに、平日のこの時間のせいか、川音のほかさわがしいものはない。観光客はほとんど市街地にいるのかもしれない。
一本道だが不安になるほどあるいて、さほど気温も高くないのに汗ばんできたころ、めざすそれらしい鳥居がみえた。境内に入ると、むっとするような湿気が体を覆う。
貴船神社の本宮だ。お参りしようと階段をあがる途中、どこからか、強い檜のにおいがした。
ここまであるいてきたときもだが、いまもすぐそばの道路のほうで、わずかな人の気配がする。近所の人だろうか。どこへいっても、人目がゼロになることはなく、雰囲気はきわめておだやかで、さすが京都、ひとりでいても命の危機を感じることはない。
時間が早すぎて、社務所はあいていなかった。おみくじを浮かべて占いをするという泉を尻目に、優はさらに道の先へむかった。
ここまでくると、道がせばまり、両脇には鬱蒼とした木々と旅館らしき建物がならぶ。いかにも京の奥座敷とよばれる通りの、納涼むきの風情になる。川床や温泉の竹垣のたたずまい、より近くにひっきりなしにきこえる川の水の音。頭上高く天をさえぎる木の葉のおかげか、それとも小雨がやんだのか、水気が多くとも濡れることはない。
中宮という小さなお社があって、優はその由緒の書かれた看板をみ、読みおえずに拝殿をみあげて、お参りもせず道を奥へ進んだ。もうひとつ、お宮があるのだ。
いつか道の傍の建物も途切れ、川がすぐ間近になる。鬱蒼とした雰囲気は濃さを増し、川の反対側に、長い、ひらたい参道がのびていた。
そのもっとも先に、奥宮がある。
優は参道に入り、ゆっくりとそこを進んでいった。くらく、静かで、木々と水の気配に満ち、怖いということはない。少しいくたびに何か見所があり、解説を読んでは、奥へ向かう。いよいよ本殿の敷地に入ると、木々にかげる空間がひろく、ひっそりとし、別世界のようだ。
連理の杉と書かれた大きな二本の木を、優はみあげた。綯われたようにぴたりと沿うふたつの大樹は、種類がことなるという。本宮といい、途中の中宮もとい結社といい、どうやら本格的に縁結びが主なご利益であるらしかった。
こちらの平らな境内には、ひとりでお参りにきている人の姿がふたりほどあった。やはり近所の人か、この辺りに宿をとっている人だろうか、軽装で、優ほど観光客然としていない。敷地内にいくつかあるお社をめぐって、もどってくると、木の下にはベンチもあり、気が向けばいくらでも長居できそうである。
すわるかどうか、優はまよったが、結局、すわらずに境内を辞した。参道をそれて駐車スペースを横切り、ガードレール下の川をながめた。
強い水流と水音。小雨がぱらつき、頭上をみると、車道のこちら側には木の葉がかからないのだった。
傘なら鞄に入っているが、出すか出すまいか。こんなところで、こんな時間に長居をしたところで、何の得るものがあるだろう。
水は透明で、飛沫が白く、流れが激しい。鴨川の水源、水の神様のいるところだ。
もう、会うことはないのだろう。
あるきだそうと、ガードレール沿いに足をふみだしかけたとき、車道をこちらへやってくる車があった。静かだが異様な速さで、優が歩を進める前に駐車場へ停まった。辺りの静けさを壊さないのが不可解なほど動きは素早かった。
後部座席のドアがあき、さっと誰かがおりた。ふりかえるとこっちをまっすぐみた。
目が合った。
優は呼吸を忘れた。
肩の下までの長い黒髪。半袖のブラウスと、細身のパンツをまとっている。すんなり長い手足が映える。
足音もなく、車を迂回すると一直線にこちらへあるいてくる。川の水音だけが優の背中のほうにひびいている。
できすぎたまぼろしである。
少女は優の目の前に立ち、唇をうごかして、とじた。のびた手が優の右手をとらえた。
温かい。
優は目をみはった。
まぼろし、だけではない。触感と、温度、湿度も再現されている。なめらかな肌。その指が細く長いのを、しっている。
話しかければ、この幻影はあの声を発するのかもしれない。
「雪平」
「あたしが最初にいったこと、おぼえてる?」
雪平の目は、つかんだ手のほうを向いていた。こちらをまっすぐみないところは、再現率の低さの証明かと優は考えた。
しっとりした手が、かるく優の手をにぎる。
このVRはどこで終わるのだろう。幻影だとしても、相手をしないのは申し訳ない気がして、優は問われた内容をあらためて考える。
「最初って」
「はじめて会ったとき。秋に、安楽寺で」
紅葉とみぞれの日に、雪の精みたいな着物姿の女の子に出会った。お寺の境内ですべってころんで、足もとがおぼつかなくて、この手をとって階段を一緒にくだった。
それ以外のなにが、あのときあっただろう。
交わした言葉の正確なところなど、おぼえていない。この答え合わせはできなそうだと優は思う。ヴァーチャルゲームなら、せめて選択肢が出てきてくれないと。
しらない同い年くらいの子に声をかけられ、わけもわからず一緒に帰ったことしか記憶にない。
優がこたえずにいると、じれたように雪平がいった。
「――お姉さん、って、いったの」
優は瞬いた。
彼女がなぜそれほど深刻そうにいうのか、わからなかった。
その目はいまだに優の顔をみない。
「あのとき、廊下の方にいたのを、先に庭からみてたの。それで少し目を離したら、お堂の方にいたから、似てる別人かと思って」
「別人」
「姉妹かと」
きっと、意を決したように、とうとう、その黒い両目が優の目をみた。
「それで、そのひとことで、優を惑わしたんじゃないかと思ったの」
優の右手の指の機能をなくそうとするみたいに、雪平の右手は強くにぎられた。まるで、すがるみたいに。
目はようやく優の顔をみたのに、いつもの大きさほどひらいていない。少しゆがんで、せばめられていて、苦しげだった。
「惑わす……?」
「お姉さんの話、したでしょう」
すぐ上の、と、彼女の声はつづける。
優はふたたび、記憶をたぐりよせる。こうして彼女と話をするのは、もう、およそ半年ぶりなのだ。それなのにあいだの日々などなかったかのごとく話すのは、さすが彼女だというべきか。
姉のこと。哲学の道でした話だ。
写真がきらいになった原因。年の近いほうの姉に、疎まれたこと。
思いだすに足る時間さえ、ほとんど彼女は与えてくれない。
「堪えられなかったの。優の中で、お姉さんがどんなに大きいかと思うと。相手は家族だわ、いくら遠いところにいたって――敵わないと思った」
優は言葉の続きを待った。
「嫉妬で狂いそうで、もうそばにいられないと思った」
……この少女は、なにをいっているのだろう。
「あたしは、優の一番でいたいんだって気づいて、それでもう」
声がくぐもって、目線はまた下へとうつっていく。
なんだ、これ。幻影じゃないのだろうかと思って、優は少女の目もとに視線を注ぐ。
「お姉さんがいる限り、一番になることはないんだと思って――そうしたら、もう」
だめだったのと、つづいたのかどうか。
よく通るはずの声は涙にまみれて、いっていることがききとれなかった。彼女があまりに強く右手をにぎるので、優は左手で鞄からハンカチを出そうとしたが、うまくいかなかった。もういいやと思い、指の背で頬に滴る涙をぬぐってやる。
雪平は目を伏せたまま、面をあげ、しばらくされるがままになっていた。
左手の指があらかた濡れて、これ以上は拭けないくらいになったころ、泣きやんだ。
右手をつかむ手の力が弱まる。優はそっと手をはずし、鞄からハンカチを出して、雪平の頬にあてた。水気がなくなってから、己の手をぬぐう。
小雨はいつの間にか、やんでいた。
ああ、これはどうやら本物らしいなと、優はようやくみとめる気になる。己が欲しいとおりの幻影だったから、肯定する気になっただけかもしれないけど、と思いつつ。
泣いてから泣きやむまでの速さは、本物と同じだった。
優のついていけない話の速さも。
なにかいわなきゃなと思う。
「わたしも、ずっと」
これを気軽にいうのは、ためらわれた。
「――雪平の一番でいたかったよ」
相手がVRだという疑いが少しでもなければ、ちょっと口に出せる言葉じゃない。
彼女は一瞬ののち、いった。
「でも、ずっと願望だけだったでしょ。実現させる気は、なかったわ」
優は目をみひらき、まっすぐ自分をみあげる雪平の目をみた。
なんてひさしぶりの、この眼だ。
とんでもない指摘をする。
「だから優は、誰の一番にもならないんだと思ってたの。なのに、お姉さんのこと、どう考えても優の暫定一位はお姉さんだわ、気が狂いそうなあたしの気持ちがわかる?」
雪平、と、声を出そうとしたが、ほとんど遮られた。
「あたしはね、優の一番でいたいの。優があたしの一番でいいの。一番なの」
「……そう」
「引いてるでしょ? 疑ってるの? 嫌なら嫌っていって。きっぱり」
いやじゃないよと優はこたえた。また、目の前の少女は優の手をつかむ。にぎりあわせる。
そのにぎりかたが、あの冬の雪の日を思いおこさせた。
そう。いやじゃない。ちっとも。願ったり叶ったりだ。だから、望みどおりすぎて。
「……信じられない」
「優があたしの一番でいてくれるなら、もう離さない」
手は温かい。あの日、離れたあと、ひえきったのをおぼえている。
二度と、はなされたくなどない。
みひらいたままの目から、突然、雫が頬へころがりおちた。
「一番だよ」
やっと、そういうのが、精一杯だった。
もう離さないで。
はなれたくなどない。
今度は、優の涙腺が決壊した。雪平のあいているほうの手が優の頬をなでたが、優はにぎった手を決して、はなさなかった。
雪平だ。
本当に。
もう、会えないかと思っていた。
「雪平」
名を呼ぶ。とらえた手を両手でにぎり、額に当てた。あの雪の日、雪平がこうしてにぎっていたのがなぜか、いま、少しわかるようだった。
嫉妬で狂いそうだと。
自分は、相手の一番ではないのだと。
かなわない願いを、かなえたくて、祈っていたのかもしれない。
わたしだって、おかしくなりそうだったよと、優は途切れ途切れにいった。芙蓉に香水をあげるし、なのに蛙のお香を持ってるし、短期留学の出発はもう来週だ。
「もう無理かと思った……」
優のハンカチをいつ手にしたものやら、雪平はそれで優の頬を拭いて、なだめるように耳の辺りの髪をなでた。
「そうね。ね、優、折角だから少し歩きましょ」
あいかわらず切り替えが早くてついていくのがやっとである。
雪平に手をひかれ、連れだってあるきだした。車道の、腰の下までの高さしかない、ガードレール越しの川沿いを。
ゆっくり、手ははなさないまま。
やがて頭上を木々が覆って、結社がみえてくる。きたときよりも、気温があがったのか、少し湿度が低くなったように優は感じた。
からめて組んだ手を、戯れのようにのばしたりちぢめたりしながら、不意に雪平がきく。
「お参りした?」
優は決壊の余韻をひきずったまま、うなずきかけ、思いなおした。
「うん、いや、ここはまだ。本宮と奥宮はしたけど」
「そう、どうして? 寄っていっていい?」
うん、と、優は応じる。どっちにこたえたものやら。
「なんとなく、先に、奥までいこうと思って」
この中宮は、道路からすぐ見通せるほど敷地がせまいようだったから。
一見して、雪平がいないことが明白だったのだ。
「でも、お参り、する」
思いがけず片言みたいにしゃべってしまった。
入り口へ立ちよると、雪平はすぐ、優がさっき読みかけてやめた看板を読みはじめる。この中宮、結社のいわれと霊験だ。
かなり気恥ずかしくて、優は待っていられなくて、つい雪平の手をひき、拝殿へ向かおうとしてしまう。
雪平は読みおえるまで、その場をうごかなかった。
山手の拝殿をみあげ、階段をのぼっていく。《結社》――縁結びの神様。
こうしてもう一度、雪平とふたりで会えたのは、この神様のおかげかもしれない。
そう思うと、とてもじゃないがお参りを省略などできなかった。この境内でばかりは、一旦、つないだ手をはなし、きちんと二礼二拍手一礼して感謝の念をこめた。
手をつなぎなおして、階段を一段ずつおりていく。
道路へ出ると、これまでと同じ方向、本宮のほうへ歩を向けた。
「貴船神社の縁起は?」
ぽんとだしぬけにきかれ、優はどこから話したものか、こたえにつまる。きふね、神気の生ふるところ、黄船のさかのぼってきたところ。
「御祭神はたかおかみのかみ、もしくはくらおかみのかみ、あと玉依姫だっけ、女神様が船にのって川をさかのぼってきて、いどころにさだめたとかなんとか」
それと、和泉式部が夫との復縁を成就させたという、結社とか。
「なんかいっぱいある」
ちょっと、筋道立てて説明する心の余裕がなかった。
「ローカルWikiが台無しね」
屈託なく笑って、雪平の肩がかるく、優の肩のあたりにぶつかった。
いや、もう。
本当に。
会えると思っていなかったから。
いつもどおり、予習はとうにすませていたのだが、すらすらとしゃべれるようにはしていなかった。
手のひらの感触をあらためてみとめる。一体、どうして、きょう会えたのだろう。
「雪平」
「ん?」
「なんでここにきたの?」
「優は人気者ね。味方がいっぱいいる」
意味ありげな微笑が、優をみて、道の先をみた。
誰か、ここにくることをしっている者は。
「一? 一と、話したの?」
雪平は否定しない。それは肯定だった。
優は焦った。一とだけは二人にしないようにしようと思っていたのに。
「どうしたの」
「一のこと、気にいった?」
「どうして? きらいじゃないけど、わりと険悪よ、我々の仲は」
意外なこたえに、さらにびっくりする。一が誰かと険悪になることなど、思いつかない。
「どうして?」
一は穏やかだし、名前だって雪平の好きな対称図形だ。
雪平はこちらをふりかえり、唇の笑みを深めた。
「だって、あたしは優の一番だもの」
ライバルにはなっても、仲良くなりようがないわと声はつづけた。
「そんなもの?」
「そうよ」
優はまだ納得がいかないまま、問うのをやめる。一は別に、優の一番など望んでいないと思うのだが。
「ものすごく嫌そうな顔で説教されたわ。優は次は貴船にいくから、いつになるかわからないけど、行って話をつけなさいって。行きそうな日にちと時間は、あんたの方がわかるでしょうって」
それは……その様子がありありと目に浮かんだ。
ああ、あの友人に、自分はなんてことをさせたのだろう。きっとものすごく不本意だったにちがいない。
だから本当は、和泉式部よりもっとリアルに感謝しなきゃいけないのよねと、雪平はぽそりとつぶやいた。
ああ、ほら、こういうところだ。一の人の心をつかむ感じは。
油断ならない。優は無意識に、にぎる手の力を増した。
雪平はちょっと不思議そうにつないだ手をみおろして、それから優をみあげ、満ちたりたようにほほえんだ。
その笑顔を至近にみると、あっという間に、なにも考えられなくなる。
優は心持ち、目線をそらし、つとめて進行方向をながめた。
「雪平は」
惑わせたのじゃないかと、いっていた。優を、あんな些細なことで。優自身は、おぼえてもいなかったのに。
それは。この美人は、己が人を惑わせることを、しっているのだろうか。
「わたしが、正気でいたほうが、いいんだね」
黒い目がこちらをみあげ、肩がふれあった。
「――そうよ」
「どんなに、雪平が好きでも?」
「そうよ。それと、正気でいることとは、別のことにしてくれないと」
そういうあいだは、黒い目は優をみていなかった。じっと道の先に据えられていた。
本気でいっているのだなと思う。
なんて難しいことを、もとめているのだろう。
「それは、かなり、レベルが高いね」
「そうね。でも、優にはできると思ってるの」
そうかな。そうだろうか。だいぶあやしいところが多々ある気がする。
雪平が吹奏楽部部長をひっぱたいたあとや、芙蓉のもらった香水の意味をしったときは、本当に危うかった。
「買いかぶりかもしれないよ」
「でも、努力はしてくれるでしょ」
「それは、極力」
「それでいいのよ」
雪平はもうひとつの手で、優の腕にふれ、肩に頬をよせた。
そのしあわせそうなこと。ほんとに、これはまずいなあと思いながら、優は美人の髪の上にこつんと首をかしげた。
ふふとくすぐったげに笑って、優もつい笑いあって、頭を離す。本当に、好きなのと、雪平はいった。
だから。
「依存も錯覚も、無意識も妥協もゆるせないの」
完全に、正気で、純粋に、好きでいてほしいのと。
ああ――この人は、こうなのだと、優は一種、あきらめに似た気分でさとった。
それは、まさに、神の領域だ。
なんて理想を掲げるのだろう。
はるかに、遠く、はてしのないところ。
そこをめざして、一緒にいこうと、手をひいている。
優は首をふった。縦に、一度。
あのとき、あの紅葉に雪のふる日、ただ宝石のようにこの手にのせたきれいな手を、いまはしっかりつかんで、はなさない。




