みね (1)
合唱コンクールの本番前に、夏季短期留学の申請締め切りがあった。留学の選考試験は合唱コンクールの直後で、校内クラス対抗の合唱コンクール結果は四位とまずまずの成績、選考結果は月内にはわかる予定だった。
生徒会では卒業生を送る会の企画と段取りが大詰めになってきていいころだったが、なんとなくそれに集中できず、校内全体がにぎやかにあわただしいなと思ってカレンダーをみたら、もうすぐバレンタインデーなのだった。
誰に告白とかそういう話ではない。一年で一番、おいしいチョコレートが日本を席巻する日だ。
ことしの二月十四日は日曜日だ。皆、こういうのは過ごすと興がさめるから、前倒しで金曜日が本番になる。十五日は半額チョコであとのまつりだろう。
芙蓉と柾が話しているのをきいていると、どうやらお世話になっている先輩にあげる風習があるようなので、さて晴は甘いものを食べる人だったかなと思って当の先輩をみると、めずらしく机に飴の袋のようなものを乗せている。
なんの袋かと近寄ってみると、ブドウ糖の一口サイズ個包装パックだった。
うわーと思い、優は晴のかたわらで黙った。
「何だい」
「いや、先輩、甘いもの好きですかってきこうとしたんですけど」
あぁ、と、気のない声でこたえて、銀縁の下の口が湯呑みの中身を啜った。無色透明の液体だ。白湯だろうか。
ブドウ糖と水分のみって。疲れているのだろうか。
「甘いものは冷たいのなら食べるよ」
「この冬場にですか。体壊しますよ」
そういえばかき氷を食べていた。あのとき飲みたがったかりん水とかいうジュースも、夏場むけにキンと冷えているのだろうか。
「いま始めたことじゃないから大丈夫だよ」
「あらためれば改善することがあるかもしれませんよ」
「いやー、優しいね、骨身にしみるよ」
湯呑みを置くと同時に、突然、晴が立ちあがった。思いがけないことに、優は半歩しりぞく。
「優君、財布持って」
「はい?」
「ちょっと出てくる。コート着て。おいで」
外出の宣言は清や他の生徒会メンバーへ、同行の指図は優だけにして、自身はマフラーだけ巻いて廊下へ出ていくのを、優は追いかける前に晴のコートもひっつかんだ。なんだあの人、体冷やすのが趣味なのか。
廊下をのんびりあるいているのに追いつき、コートを着せかけると、先輩は心外そうに己の肩をみおろした。
「そんな長くならないよ」
「いや寒いですって」
「首あっためとけばいけるよ」
「何の自信ですか。マゾなんですか」
「頭を冷やす必要があるかな、ないかな」
「どっちですか」
「あったかいところの子は寒さに弱いねえ」
「……」
どこの出身なんだ、この人は?
え、まさか彼女と同じ北海道? それつながりとかなんやかやで雪平の事情に精通してて優にもかまってくるのだろうか? なんの脈絡も根拠もないけど嫌すぎる。
なにもいわずに晴をみていると、銀縁の奥の無表情がかすかにゆがんだ。
「優君。顔が雄弁すぎるよ」
「――すみません。何言ってましたか」
「うわこいつ今さら何言ってんのマジ引くわ、くらいかな」
びっくりするくらい合っている。
しばらく無言で廊下を移動して、これはまずいと思って優は口をひらく。
大まかに合ってはいるが、詳細はなにもないのだ、晴の洞察には。
「わたし、そんなに、顔に出てますか、いやその通りとかそういう意味じゃなくて」
「そういう意味にしかきこえんがな。いや、みてればわかるよ、ちょっとみてれば大体わかるくらいには出てるね」
「あぁ……」
溜め息が出た。
それがいいところだよと、本気なのかただの慰めなのか、しらっといって、晴は下足箱の位置がちがうので一旦、わかれた。
外靴のローファーに履きかえ、ふたたび玄関の外で合流する。
ゆるいアスファルトの坂道をくだりはじめる。こうやって晴と二人で下校ルートをあるくのは、初めてで、少し新鮮だった。
「どこいくんですか」
「コンビニ」
「近くにありましたっけ」
「そこそこ遠いね」
片道何分の行程だろう。生徒会室を抜けてきてよかったのだろうか。
「君、お金ある?」
「いくらですか」
「百円か二百円」
「ありますね」
そこでその話題が打ちきられた。一体なんのつもりなのだろう。
しばらく坂をおりたが、晴の歩調はかなり速い。といっても、優がついていけないことはないのだが、多分背丈が同じくらいなので歩幅が他の友人たちよりひろいのだ。
これなら本当に、大して時間はかからないらしい。
いつもの景色が倍速で流れていくようなのも、おもしろかった。
「これは私の慙愧の念の解消のために言うんだが」
けっこうな速さでくだりながら、急にいつもの調子で先輩は話しはじめる。
優はきこえた音を頭の中でくりかえしたが、うまく漢字変換できなかった。
「え? もうちょっとやさしい言葉でいってくれませんか」
「私がすっきりしたいから言ってると思ってくれていいんだが」
「なんかすみませんでした」
難しい単語にはそれなりの用途があるのだなと優は反省した。
「きみを生徒会に勧誘したのは、清の指示なんだ」
あ、ききたくなかったやつ。
優は銀の弦ごしの横顔をじっとみた。
「せんぱい」
「清はきみらの入学前から、とりあえず雪平君のことはしっていた。どうしても生徒会に入れたいといっていたんだ」
「先輩。ききたくないです」
「きいてくれ。清は入学式の日、ひらりんがきみに話しかけるのをみた。それで」
本当に、ききたくなかった。
あのときの判断は正しかったのだと、いまも思う。
「まずきみを勧誘することを、私に提案したんだ。本当に、申し訳ないが、私は清の願いならすべて叶えたいんだよ」
自分を愚か者のように、晴は皮肉げにいったが、優はとてもそれをなじれなかった。
彼女の誘いなら、ことわらないと思う。
その気持ちには心当たりがある。
否定するには、わかりすぎた。
「まさかきみを勧誘したその日に、二人そろってやってくるとは思わなかったがね。清も驚いていた。結局、なにもかも清の思い通りになったわけだ」
……言葉もなかった。
なんとなく、いわれてみれば、どれもこれも納得できた。
あんなめちゃくちゃな勧誘をされたのが、この先輩らしからぬ支離滅裂さで押しとおされたのが。
でも、それなら、なぜ。
「……なんで、清先輩はそうまでして、雪平を生徒会に入れたがったんですか」
「――」
奇妙な間をあけて、晴は一度、立ちどまる。優も足をとめた。
車の影がないのをみて、ふたたびあるきだす。車道をわたり、さらに坂をくだった。
「あの子は将来、京都の顔になる子だ。清と同じで。望む望まないに関わらず、いまの家にいるかぎり、逃れようがない」
低い声で、前をみながら、それでもその声はしっかり優の耳にとどく。
どういうスキルなのだろうと、よそごとに気をまぎらしながら、優は晴の声をきく。
「それなのに、あの子は、徹底的によそものなんだ」
その言葉を理解したとたん、着物姿で泣いている雪平の記憶が、閃光のように優の脳裏に瞬いた。
《会いたかった》
わざわざ清と晴をつたって、優を呼びだし。
わかってなかったと気づいて泣いた。
あの闇の中で誰かのために着飾った姿で、その髪だけの結び目をといて。
「この街はよそものをゆるさない。受け入れない、永遠にお客さん扱いだ。こないだの、吹奏楽部の新部長みたいな、ばかばかしい諍いがこのあとも山ほど出てくる。あの子はそれを全部、受け流さなきゃいけないんだ」
なんという、本物の、苦行なのだろう。
バス通りに沿い、角を折れて、晴はひどく遠くをみはるかした。
「清はそれを、なんとかしたいんだよ」
――急に話が漠然としてしまった。
優はさらなる説明をもとめて、隣の先輩の顔をみた。
晴はひさしぶりに、つかの間、優の面をみかえした。
「本当に、やりかたはわからないけど、なんとかしたいんだ。それだけだよ」
少し考え、優はきいてみる。
「雪平のためですか」
「いや、清のためだね。自分のためさ」
そう、なのだろうか。
「いつまでもよそものをよそもの扱いするこの街を、変えたいのさ、極論をいうとね。いつまでもお客さんはお客さん、うちらはうちらじゃ、もう立ち行かないと清は考えてる。人がどんどん減ってるのにそんなことしてたら、ハプスブルク家ばりの血族結婚になっちゃうだろ」
肝心なところをぐだぐだにしたがるのは、この先輩のわるい癖である。
「先輩は世界史もいけるんですね」
つい、優もそっちに乗ってしまった。
「私の知識はほぼオタク知識だから、オタクがフォローしてる範囲なら大体、手に入るんだ」
世界の支配者みたいな発言だなあと思う。
「ワールドワイドウェブですね」
「ばかにされてるみたいで心が疼くね」
「いや、感心してるんです」
「そうかね」
「あきれてもいます」
「素直だね、きみは」
よくいわれますと、優はこたえた。雪平にも同じことをいわれたことがあったから。
ようやく目当てのコンビニについて、中に入ると、晴は氷菓コーナーに寄りついた。
ああ、と、優もようようこの先輩の目論見に思いあたる。
「どれがいいんですか」
「どれでも。冷たいなら」
晴を追って冷凍ケースをのぞき、優はチョコレート成分の一番多そうなアイスクリームをえらんだ。チョコレートは体を温めるときいたことがある気がするから、アイスで冷えるにしても多少ましかもしれない。
支払いをすませ、晴に渡す。
「ありがとう」
いえ、こちらこそとこたえてから、優は首をひねった。
「いや、ありがとうございますですよ。バレンタインですから」
「うん、ごちそうさま」
店を出て早々、包みをあけて晴は食べはじめている。この寒いのに。
ちょうどいい距離、あるいてきたから、体はさほど冷えていないけれど。
「寒くないんですか」
復路につきながら、優は一応、気にしてみた。先輩は上機嫌で(無表情は変わらないが、食べるペースがいやに速い)アイスクリームを消化している。
「いやー、きみがコートまで着せてくれたから、適温でおいしい」
「……なによりです」
なんというか、優がというよりは、この先輩のほうがよっぽど単純なのかもしれなかった。
あっという間にアイスを食べおえると、残った棒をつまんだ手をぶらぶらさせて、隣をあるく先輩のほとんど高さの変わらない横顔を、優はながめる。
晴とこの距離でこうしてあるくことは、もう滅多にないのかもしれない。
「先輩、どこ出身ですか」
「岩手だよ。祖父母がこっちでね。ゆきちょんほどでっかい家じゃないから、自由に生きてる」
家。
清や、彼女が離れられず、優がむりやり遠ざけているもの。
それがどこにいってもついてまわるのか、まだ優はしらない。
ひとまず、晴の出自が雪平のそれと関係なさそうなことに、少しほっとする。
「だから、話は戻るけど」
気づかぬうちに足もとへ落としていた視線を、優はもう一度、隣の晴へと持ちあげた。
晴の顔は、まっすぐに優に対していた。
「嫌なら、やめてもいいよ、生徒会」
もともと優自身が目的ではなかったのだ。だから。
抜けるならいまのうちだと、晴は、ひとつの出口をしめしてくれているのだった。
* * *
誰から何の事情をきいたわけでも、晴はないという。きけば清が雪平から何かきいたわけでもないらしい。清がしらないものを、私がしるわけないじゃないかと、現会長さまはのたまった。
つまるところ、優がわかりやすすぎるのだった、少なくとも晴にとっては。お見通しというより、目についてしょうがないくらいのところまでいっているのだろう。
なにを変えたつもりもないが、雪平とお喋りに興じる時間は露骨に減った。観光の計画をしたり、どうでもいい些細な話に花を咲かせることがなくなったから。それこそしょうがないことなのだ。なにせ優は、優しかいないの座から、その他大勢に引きおろされたのだから。
我ながら悲しくなるが、事実、そうなのだ。あのとき、あの雪の日、わけもわからず謝られて、優は打ちひしがれた。理由を問うて、答えをもらえなかった。なにが起こったのかなど、いまでも優のほうが説明してほしい。
優がわかっていないものを、雪平以外の誰も、余人にきかせようがないのだ。
彼女が誰にも話していないのなら、誰もきくすべがないのである。
優にわかっていることは、もう休日に観光地へ出かけたり、ちょっとしたひまに目の前の仕事と一切関係のない世間話を彼女とする立場に自分がないということ。そのご指名をうけることがないということ。
いま優は、彼女の同学年生で、生徒会の仲間、それだけの存在だった。
それにしても、生徒会役員選挙は来月、十四日だ。
今月中に立候補者は応援者をきめ、名乗りをあげ、選挙活動の準備を始めなくてはならない。例年は文化祭後、聖劇前におこなわれていたものが、今年度は候補者確保のため三月に延期となったのだ。大学入試等々で自由登校になる高三生は、三月頭から不在者投票ができる措置をとる。
こんなにも押しせまってきているのに、晴はなんとかなるさというのだった。
昨年、新高一生がふたりも転出した時点で、多少の欠員が出ることは皆、覚悟していると。
高二のなかばで引退と、例年の代替わりはかなり早いし、晴たちもまだしばらくサポートできる。それに、来年度の新高一生が副会長の役割を担ってはいけないという規則もない。柾を中心に、いまいるメンバーで十分、仕事は回るだろうと。
「いっておくが、辞めさせたいわけじゃないよ。でも、これをいってきみを引き止めるつもりは尚更ない」
もし優が残るなら、副会長に推すつもりだと銀縁眼鏡の先輩はいった。会長には柾を、そちらには鎮が推薦者としてつくだろうと。
会長が新会長を推薦しなくていいんですかと優はきいたが、
「鎮の方が説得力があるだろ」
自虐なのか諧謔なのか客観なのか、全部の中間なのかもしれない。
でもわたし、夏は二ヶ月ほどいないかもしれませんよと優がさらにいうと、会長とその他がいれば副会長が多少留守でもどうとでもなるだろ、と返された。雑なんだか熱心なんだか。
その先輩方の思惑をきいて、じゃあ、清が彼女を書記に推すのかと、優はぼんやり考えた。
《織姫さんは、姫さんやから。えらい位置に出張っていったりせえへんのよ》
一がいつか、そう説いていた。それと同じ地位を、彼女はたどっていくことになるのか。
ここに住むことが、どういうことかわかっていなかったとしって、泣いていた。
清や芙蓉と交流することが、おそらくここに住むことの、勉強になるのだといって。
清の思惑のままに生徒会に入会した。先輩方の感じがよかったと、そうみなしたのは本人だが、それでも優しかいないと思っていた。いまはちがうと考えているにしても。
ただ、そう。
清の思惑に、悪意はないのだ――。
「とりあえず、留学の選考結果を待っていいですか」
問いではなく、確認のために優は晴に投げかけた。今月中に結果がわかれば、ぎりぎり、選挙の立候補に間にあう。どうせなくてもなんとかなる席なら、意思表明が多少遅くてもかまわないだろう。
好きにしんさい、と、晴は軽く放りだしたような声でこたえた。
優が退会していい理由と、退会しても後顧の憂えがないことと、残った場合のことを均等に(若干、最後がおろそかだったが)話して、優の判断にゆだねてくれた。
この先輩が、肝心なところを粗末にしがちなことを、優はすでにしっている。
それがなくても、これらの話をききおえた時点で、優の意思はさだまっているにひとしかった。




