かは (2)
年が明けてから、雪平と出かける機会はなかなかなかった。生徒会は、もうすぐ高二の先輩方が引退だというのでにわかにそわそわしはじめ、校内では二月の合唱コンクールにそなえてじわじわと緊張感がひろがっていた。その前の一月下旬に期末テストが立ちはだかっている。どこに落ちつく要素があろう。土日はあいかわらず、雪平はいそがしいようで、優はひまつぶしにテスト勉強に精を出すいつもの日々である。
二人で遊ぶいとまがないのを物足りなく思うかたわら、ほっとしてもいる。雪平と大事な話をし、たがいに深く関わりあって、離れられなくなるのが怖いのだ。離れがたくて、ほかのなにかを犠牲にするとしたら、それは予想を超えた恐ろしいことのように思える。
故郷を離れてここにきたように、今度はここを離れることを、そもそも当面の目標にしている。短期留学だけではない。高校を卒業したら、もっと長く留学する。優はそれを曲げるつもりはない。まったくない。
そのために京都に住んでいることは、有利なことのはずだった。国内の最たる観光地でほとんど世界遺産そのもの。名のしれた社寺に詣でておけば、母国の話題には事欠かなくてすむ。知名度でいえば地元でも悪くはないが、あかるい話になる自信がない。いろんな意味で。
観光名所をめぐるのには、だからそういう利点もあるのだ。その最適な同行者が、たまたま彼女だったのだ。目的が一致していて、美人でよそゆきがキモノで声も行動も性格も容姿も優をとらえてはなさない、たまたま好みだったというだけのこれはひどい重症である。
今月はもうタイミングがないかなと思っていたら、期末テストが終わったその日、雪平から着信があった。
明日はテスト休みだ。もしかして明日、時間があるのかなと優は期待して電話に出た。
「いまから出てこれる?」
前置きもなにもない。午後三時だった。
優はすでに帰宅して部屋にいる。テスト最終日、いつもより早く放課となって、きょうは生徒会もすぐ終わったのだ。
「うん。大丈夫だけど」
外は昼前から雪が降りつづいていた。
「四条河原町にいるの。どこまでこれる?」
「どこまでって、丸太町か御池かな。あいだをとるの?」
「うん」
「雪平もくるの? バス?」
「バスよ」
雪平は御池通りのバス停を指定した。優はうけがい、薄手のポシェットに財布とハンカチ、携帯端末をしまって傘を手に家を出た。
思ったより道路に雪が積もっている。北の子は雪の日のほうが元気なのかもしれない。
名前そのものだもんなあ、などと思っているうちに、いつか待ち合わせのバス停についた。
雪平は振袖に袴、ブーツ姿だった。
「はいからさんだ……」
優のつぶやきにこたえず、無言で優のコートの袖をひいて別のバス停へ移動した。
様子がおかしい。またなにかあったのかもしれない。
真顔から表情がうごかず、優をほとんどみない。口数も異様に少ない。
――大文字の夜のような。
その記憶はいま苦い思いを生んだ。
泣いていた理由、雪平をとりまくあらゆることを、まだなにもきけていない。
どこにいくのときいても彼女はこたえなかった。優はきくのをやめ、きたバスに彼女につづいて乗った。バスは東へむかって走りだした。
どこまでいくのだろう。どんどん学校のほうへ近づいている。素通りしてさらに北へむかうのかと思っていたら、学校最寄りのバス停を少しすぎたところで白い細い指が停止ボタンを押した。
学校の近所である。
バスをおりると、雪平は坂道をのぼりはじめた。
幸い、といっていいのかどうか、あの電話ボックスのある道ではなかったが。どこにいくんだろうとあらためて気にかける。
近場で、しった場所だから、さして不安はないけれど、同行者の態度以外には。
それが一番大きな不安である。
「雪平――」
呼んでも、少女はこちらをみない。
あれ、と、気づく。
いつから彼女は優をみていないのだろう?
こちらをみていても、優がみかえして、目と目があったのは、いつが最近だろう?
急に頭が冴える気がして、優は記憶をさかのぼる。
学校で、横にならんで話しはしていた。生徒会室で。
廊下ですれちがっても、話す時間はほとんどなかった。手をふるくらいはしていたはずだ。
ふたりきりで会話、出かける予定のささやかな相談はした、結果はみのらなかったけど。今度こそ銀閣にいくか、冬だから山茶花や千両をみにいくか、そんなことを。
目はほぼ合っていない。
まさか、年明けからずっと。
哲学の道で会ったときが最後?
いそがしかったからではないのか。
名を呼ぼうとしたが、声にならなかった。
坂道に交差する道に出て、彼女はそれを踏みこえさらにのぼる。傾斜がきつくなり、スニーカーの優は足もとがおぼつかない。彼女は袴の下のブーツで、雪道をたゆまずのぼっていく。すべりながら、それについていくのに必死だ。
何度かころびそうになっていると、手首をとって腕をひかれた。ふりむいた一瞬も、優の目をみない。雪平の速さのまま、のぼりきるとしらないお寺の敷地だった。
境内に入る。地面が白く浮きあがっているが、空も周りも暗い。庭の木立ちで空がせばまっている。
雪の通路にはいくたりか踏んだあとがあった。それにしても、人もみえず、さびしいほどしずかな場所だった。
池の水面にさざなみがゆれている。
水にかかる橋のなかばで、彼女がふりかえった。
「わたしがわるいのね」
目は下向きで、優の手首をつかんだまま、なにをいっているのかわからなかった。
感触というより、重さをたしかめるみたいに、優の手をかすかに無意味にゆらした。
優はそのまっすぐな前髪をみおろした。
どんな圧迫もしないように、細心の注意をはらって、あの先輩と同じくらい、ねらったところだけにとどくように、声をかける。
「なにが」
「あの夜」
雪平は突然、しゃべりだした。
「夏の大文字の送り火の夜、あの日、いつも以上にめかしつけられたの。大事なお客様と会うからっていって。気にもとめなかったわ、いつものことだもの。大事なお客様だらけ。だから気づかなかった、そのときになるまで」
大きく息を吸う。
「ひとつ年上の高校生がいた。相手の家族の息子で、わたしの結婚相手だって」
きゅっと、雪平の手は優の手首をにぎった。
婚約者――許婚。見合い、だったのか。
あまかったの、と、吐息のような声を彼女はただよわせた。
「わかってなかった。ショックだった。京都に……祖父母のところに、父の家にきて、こうなることも予測できてなかったんだ。そう気づいて、もうその場にいられなくって。適当にごまかして逃げ出したの」
それで、と、いいさして、雪平は唇をとじた。
それで、と、優はようやく、合点がいく。
その衝撃を涙にして、この人は優だけにみせたのだ。
でも、どうして。
「どうして……わたしで、よかったの?」
雪平は反射的に目をあげて、優の目をそれでもみずにとまった。
「――しか」
「うん?」
優の手首を、右手を、両手にとらえて額の前に持つ。
「優しか、いないの。そう思ってたの」
唇がわななく。
手は温かく、わずかに湿っていて、坂道をのぼってきたせいで、寒いのに頬はばら色で、唇は赤かった。
優は血の気がさがっていくのを感じていた。彼女にとられている右手だけが温かいのが、不可解だった。
……過去形で彼女はいうのだ。
全身から力が抜けていく。
急激な運動をしたから膝が笑っているのか、そういう原因ならいいと思った。
とらえた右手に、彼女は右手の指をからめる。左手で甲をおさえて。
「ごめんね」
とられた右手を上に残して、優は雪に両膝をついた。
どういう――意味などちっともわからない。
ただのひとつも。
雪平の顔がみれない。顎があがらないのだ。温かく、両手に支えられた右手の端にときおり彼女の息がかかるのがわかる。それだけが。
なにを、あやまっているのだろう。
勘違いならいいと思う。いつもの誤解や、早とちりなら、察しのいいほかの人や彼女は、優の反応をみて、すぐに訂正してくれる。そうじゃないよと誤解をといてくれる。
それがないということは、これは誤解じゃないのだ。
彼女のその言葉に、優がこんな反応をすることは――真っ当なことなのだ。
目の奥がにじんだ。
なにかいいたかった。右手だけ温かい。指をしっかり組みあわせて、それだけ近くに残して、それでも彼女は。
優を離そうとしている。
「どうして」
しぼりだした声は、おどろくほど上擦った。
とっさに息を吸って、それでもなにかいいたかった。
離れたくなどない。手放したり、手放されたりなど。なりふり構わずいいつのってそれが得られるなら、いいつづけなけりゃいけなかった。
右手に力をこめ、ようやくみあげた雪平の目の、哀れむほど正気なのが。
本気で、真剣で、冷静なのが、致命的だった。
ああ。だめだ、と思った。
離れたくなどない。ゆるしてくれるなら、近づきたかった。もっとちゃんと。同じところに立つのがだめだといわれても、せめて、そばに。
それが優の決意次第なら、やがて決意していたと思う。
自分が臆病で、優柔不断で、決断に時間がかかるのは、誰あろう自分がしっている。
じきに離れることになるとしても、離れる期間があるとしても、それは一時的なことなのだ。永久のことではない。親しむことをあきらめるほどの時間ではないのに。
それなのに。
こんなに早く。
彼女の思考の速さについていけない。
また――一緒につれていってくれないのか。否、あの姉とは違う。彼女は。
雪平は。
もう優を必要としていないのだ。
そういったのだ。
悪意でも侮蔑でも、感情をむけてくる姉とは違う。
「――」
ひゅうと、喉が鳴って、優の息がつまった。
少女はなにもいわず、ゆっくりと、ゆっくりと優の手を持つ両手をおろして、そうして果たして、両手ともから離してしまった。
つないだことなどなかったみたいに。
あっという間に右手が先から冷えていく。
寒い、と気づいた。
「さよなら」
さよならと、そんな別れの言葉を。
囁くような小声でつげて、優の両足を濡れたまま雪の地面に縫い付けにして。
雪の名を持つ彼女はいなくなって、おそらく一度もふりかえらなかっただろう。
手足と、顔があまりに冷たく、優は呆然と、かがやく一面の白をみていた。




