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やま (1)




「なんや、順調そうで良かったわ」


 自前の果物ナイフで梨を剥きながら、(はじめ)は隣の席でそう感想をもらした。


 夏休み明けの席替えで、一とは席が隣同士になっている。席替え方法が、くじ引きでもなんでもなく、各々つきたい席につくというものだったからだ。

 いってみれば全員のわがままを押しとおそうとする、そんなやり方が平和的にまかりとおるのは、ひとつには、ホームルームで受ける授業がほとんどないからかもしれない。


 選択科目の授業からもどってきた昼休み、昼食がてら、雪平と出かけた話をすると、一はあいかわらず興味があるでもないでもないような顔をしているのだった。

 梨のひときれをすすめられ、ありがたくお相伴にあずかりながら、優はあらためて、先日、伏見稲荷へ出かけたときのことを思いおこしていた。


 その日も、雪平は和服姿だった。着物には優はなにも詳しくないけれど、秋らしい深い色の重ねと、少女らしい華やかな柄が調和していて美しかった。

 伏見稲荷は大変な人出で、休日の昼間だったが、あそこまで観光客であふれているとかえってどうでもよくなるのか、雪平は終始、リラックスしていて、気ままなものだった。二人ならんで、長い長い鳥居のならびをくぐるあいだ、たわいのない話をずっとしていた。


 参道でみかけたみやげもの屋の巾着袋が可愛かっただの、お守りのどのデザインが気に入っただの、ぜんざいだか甘酒だかを味見したいだの。とりあえず全部、帰りにしようといって優は雪平を奥へうながしたのだが、その流れなのかなんなのか、雪平が芙蓉と実里(みのり)を可愛がっている理由のひとつが、二人とも名前の文字が左右対称なことだときいたときは、やけに気がささくれた。

 いまさら、自分の名などえらびようがない。

 いわれてみれば、たしかに雪平のえらぶ小物の柄は対称図形のものが多いのだった。

 いま目の前にいる、一の名もそうだと気づくと、これは、なるべく、雪平に近づけないようにしなければ。


 通学路の途中に直売所があるのだといって、ときおり一は果物を登校ついでに買ってくる。いままでもさくらんぼやマスカット、いちじくとおやつにしていたが、きょうはとうとうナイフを持参し、袋をひろげて、剥いた皮の内側の上に実をのせている。


「わたしも見てみたい気するなあ、雪平さんの着物姿。綺麗やろ」

「うん。すっごい目立つ」


 周りの人の中から、なにかの撮影かなというささめきがきこえてきたくらいだ。あそこまで完成度が高いと、観光客にも間違われないらしい。


 優がそういうと、一は咀嚼していた梨をきちんと飲みこんでから、


「いや、優が普通の格好でとなりにおるからやろ」


 ぼそりと告げる。あ、そんなもの?と、優は首をかしげた。


 最後のきれはしを口にいれ、ウェットティッシュで手をぬぐうと、一は皮と芯をまとめてビニール袋にしまい、口をねじって封じる。


 まあええけど、と、ききなれたせりふを放った。


「撮ってきてとは言わんわ」

「う、うん」

「撮るのもあかんの?」

「そんなことないけど、なんか、変じゃない? 頼みにくいよ」

「それもそうか。撮られるのは嫌やけど撮らせて、言うわけやもんな」

「嫌だよね、そんな人」

「まあ勝手やな。引くわ」


 バッサリ切るなあと思い、優はほとんどうれしくて笑った。


「よう時間とれたな、雪平さん――六花(りっか)さん、やっけ」

「それ、下の子が呼ぶものじゃないの?」


 《六花》。

 雪の結晶を指すその言葉が、雪平につけられた尊称だとしったのは、文化祭の最中である。

 閉会式間ぎわのふしぎな昂揚感の中で、下級生たちが彼女を差してそう呼び、なにやら噂していた。当の雪平は、どうやら気がついていたものの、きいてきかぬふりをしていたようだったが。


「六花の《花》は中華の《華》にしてくれれば、全然いいらしいよ」

「なに、それ」

「左右対称になるのがいいんだってさ」


 六華……ちょっと難読だなと優は思うが。


「原形とどめてないやん」


 あっさりいう一に、そうだねと、優は苦笑した。


 文化祭はいろいろと驚きや発見があった。(はるる)(さや)を七夕伝説になぞらえた異称が、当たり前のように全校生徒のあいだで呼びならわされていたり、(しずむ)の尊称が判明したり。

 その冷静沈着ぶりと有能さから《晴明さん》と名づけられ、それをかたくなにしりぞけた副会長は、ちょっとだけ意味をずらした《桔梗さん》と呼ぶと、ときどき渋々こたえてくれるのだとか(桔梗の紋は、晴明神社のシンボルマークなのだ)。


 あと、なにがびっくりしたって。


「わたし、ずっと、副会長は清先輩だと思ってたんだよ」

「それなあ、マジ受けたわ。まあ納得やけど」


 いつだったか、副会長と呼ばれて鎮が返事をしたとき、優はたまたま鎮の手があいていたから、清の代わりに応じたものと思っていたくらいなのである。


 まさか本当に鎮が副会長で、清が書記だとは、思いもよらなかった。


「あの二人、いっつも一緒にいるじゃない。しゃべるのも話し合いも隣だしさ。ほんとびっくりしたよ……担がれてるんだと思った」


 尊称までワンセットだしとつぶやくと、一はおかしみをぶりかえしたように笑ってから。


「織姫さんは、姫さんやから。えらい位置に出張っていったりせえへんのよ」


 なんとなく、その発想は、気になった。


「そんなもん?」

「そんなもん。えらいおうちが老舗やいうのはきいたやろ。将来の斎王代やいわれてはるお人やし、多分教育がいきとどいてはるからな。しがらみだらけなんやないかな」

「……」

「受け入れてはるやろ、あの人は。露骨に抵抗はしてない、メリットはある。正しい姿やと思うわ」


 窮屈かもしれへんけど、と、ほとんどひとりごとみたいに一は唇をうごかした。


 この街に、えたいのしれない恐れをおぼえるのは、こんなときである。


 一は、うちは滋賀やからと、出会ってすぐのころにいっていた。

 大阪、神戸の越境通学の子も多いが、その子たちも同じいいまわしをよくする。京都やから、とはきかない。


 一のクールさは、つまりは、一歩引いたそのスタンスだ。


「斎王代って、葵祭だっけ」


 優はきいた。昔は本当のお姫様が乗っていた輿に、いまは代わりの女性が乗るというものだったような。


 葵祭を、優はまだみたことがない。今年はたしか平日におこなわれていたのである。普通に授業中であった。


「そう。あらゆる条件をかねそなえた、えらばれたお人だけができるお役目よ」


 なんだか大変そうである。


 それをあの、派手ではないがいつも身綺麗にととのった、ひかえめだがしっかりしてそうな清先輩がつとめると、目されているわけだ。


 小柄な体は和服がよく似合うだろう。雪平の和装は、芸能人が洋服・和服問わず着こなしてしまうような、ちょっとコスプレじみた華やかさだが、清の場合は多分ちがう。伝統とか、ふるきよきとかそういう類いの、しっくりなじんでかくあるべきという美しさだ。


「一も和服似合うよねえ」


 祇園祭の夜の、友人の浴衣姿を思いだす。

 一は困ったように眉をひそめた。


「たまに着るからな」

「自分で?」

「浴衣だけやな。着物は人任せやわ」

「いいなあ、みんなちっちゃくて、可愛かったなあ」

「そういう発言が誤解をまねくんやで」


 誤解とは、なんのことだろう。

 優が小首をかしげると、一は《まあええわ》の顔をしている。この話題はここまでのサインでもある。


「ずーっと歳をとって、身長ちぢんだら、似合うかな」

「気が遠いな。海外いけばいいやん。周りの誰よりも似合うで」


 留学するんやろと、一はつづけた。そうだなと思い、優はうなずく。自分のめざしている方向は、心配するほど間違っていないのかもしれない。


 それなのに不安が常にあるのは、予見できないものに気をとられているせいだろうか。


 優の心を読んだわけでもなかろうが、一は少し前の話題にたちもどる。


「またどこか行くん、雪平さんと」

「うん、まだきまってないけど、銀閣から哲学の道をあるこうかって話になってる」

「ええやん、がっつり観光やな。満喫しとるな」

「うん、めっっっちゃ楽しみ。楽しみすぎて下調べも全部済んじゃって、ほとんど暗記してるし、調べすぎてやることないからしょうがなく勉強してるくらいの楽しみさ」

「ええのかな、それ、引くわー」

「ちょ、だって考えてみてよ、あの美人が和服姿でとなりにいるんだよ? 冷静じゃいられないでしょ」


 まあ、服装はなんでもいいのだが。


「いや、ほんと引くわ。興奮しすぎやて。そんなんで大丈夫なの? 毎回、鼻血とか出してるんじゃないの?」

「それはない。まだ大丈夫」

「《まだ》なんや」

「時間の問題かもしれない」

「ほんま、心配やわ」


 一が本心からそういっているようなので、優は思わず、照れて笑った。なに笑っとるん、と、即座に手の甲ではたかれたけど。


 不安なのに、楽しみでしかたない。楽しみでしかたないのが、また不安なのだ。


 病気かもしれない。



       * * *



 放課後、生徒会室のある校舎の廊下にさしかかると、フロア中に大爆笑がひびきわたっていた。


 なにごとかと思いつつ足を進めれば、笑い声の出どころはめざすその部屋のうちである。声の主が誰か察しがついたので、優は大分、げんなりした。


 戸をあけると、銀のふちどりのガラスの向こうを涙目にして、笑いのみなもとが声をからして腹を抱えている。


 もう、黙ってればまともな先輩なのに。


 晴は優に気づくと、笑いを再燃させた。


「ヒ、ヒー、きたきた主役が」


 息も絶え絶えである。


「す、優君、おいでおいで」

「なんですか晴先輩、遺言ですか書きとめましょうか」

「ひ、――もう、これ以上笑かさんでくれ」

「別に笑わせてるつもりはないです。辞世の句なら手短にお願いします、五、七、くらいで」

「ひどいな君、三十一(みそひと)文字もないじゃないか、ひー、そんな余韻ばっかり残してどうする……ありがとう、少し冷静になったよ」

「お役に立ててなによりです」


 気分は長老の最期の立会人として、椅子にかける晴のそばにひざまずいていた優は、冗談もこの辺にしてすっくと立ちあがる。そのうごきにあわせ、晴がこちらをみあげる。


 部屋の中には清と芙蓉、実里、中等部生がもう二人と鎮がいて、(まさき)と雪平はどうやらまだらしい。


「実物の方が、よっぽど()()()な」


 涙にぬれた目を細めて、晴がこっちをみたまま、なぜか不敵にみえてしまう微笑を浮かべた。


「何の話ですか」

「こんにちはぁ。優ちゃん、おめでとう!」


 背後でふたたび戸がひらかれ、ふんわりした柾の声が夜店の綿飴ばりの重量感で背中にのしかかってきた。

 なにごとかとふりかえると、早くも真後ろにやってきた柾に両手で手をとられる。


「これでほんまにみんなの先輩やね」

「…………」


 嫌な予感しかしない発言だった。


 晴がまたくつくつと笑いの発作に襲われなおしている。柾をみれば、その笑顔に他意や皮肉はちっともないと確信できるけれど。


「柾……」


 帰りたい。

 きょうは早退していいかな。課外活動だけど。


「ダヴィデ様やって。優ちゃんにこんなにぴったりな尊称もないなぁ」



       * * *



 つづいてやってきた雪平も、その《尊称》をきいて涙が出るほど大笑いした。


「いや、うん、ううん、本当にぴったりだと思うわ」


 どっちだよ、と、優は憮然としてつぶやく。

 身に余る呼び名をつけられ、それをかたくなに拒んだという鎮の気持ちが、いまなら少しだけ、わかる気がする。


「ダヴィデって……あのあれですよね、彫刻の」


 思いうかぶのは、ルネサンス期の、ミケランジェロの手になる、あの有名な大理石像だ。美術科の資料集のほか、その頭部だけを美術室でみかけたおぼえがある。


 いやたしかに髪形くらいは似てるかもしれなくもないかもしれないけれどもども。


 髪型くらいである。どうかしていると思う。色々と。


 あのまっしろいつるんとした顔とか体躯とか、まあ材質のせいだけれど、そもそも性別がちがうし、多分それでも彫刻のイメージであって、イスラエルの王がどうとかいうことではない。


「いやー、いいえて妙だと思うようん、みればみるほどそっくりっていうか、逆にもう本物がこっちかなってみえてくるよマジで」

「いい加減にしてくださいよ先輩ほんと怒りますよ」

「いい加減にするのは先輩じゃないんだな残念ながら。つけたのは後輩なんだな」

「誰がつけたんですか」

「美術部員が言いだしたらしいけどね、風の噂だけどね」


 思わず歯噛みしたいレベルの曖昧さであった。


「もう大体みんなそう呼んでます」


 実里がぽそりと、しかし絶妙に辺りの静かなタイミングで余計な口添えをしてくれる。


「きいたか、優君。尊称は、多数決だ!」


 そんな名言みたいにいわないでも!


 優は手近な椅子へ崩れおち、拳へ額を落とした。


 間もなく、ことんと、肘のすぐそばにカップが置かれる音がする。

 ちょっとだけ目をやると、柾がやっぱりふんわり微笑んでいた。


「さすがやなぁ、優ちゃん、雪平ちゃんもすぐお名前がついたし。先輩の見込みどおりやったなぁ」

「そんなにいやがらないであげて、優ちゃん。下の子たちに悪気はないのよ」


 珍しく、清が柾のとなりに進みでてきて、にこりと笑んだ。

 その、ちょっとやそっとじゃ身につかない上品なたたずまいに、優は一瞬、気持ちがいれかわるような、空気が洗われるような心地をおぼえる。


「そりゃ……」


 尊称でお姫さまと呼ばれるこの人に、あんなかけはなれた彫像の名をつけられた気持ちはわかるまい、と、思うが、そのままいうわけにもいかない。


「清先輩は、晴先輩とワンセットだからいいですけど」


 誰かとセットで呼ばれるなら、一人分の負担は少なくなる気がする。なんとなく。


 ダヴィデとワンセットといえば何だ。ゴリアテか。そんな呼び名をつけられた日には、大概の女子は大泣きすると思う。


「優ちゃんだって、おそろいじゃないの」


 きれいな京都イントネーションなのに、あやつる語はなめらかな全国標準だ。

 清とまともに話したのはいつ以来だろう。

 そんなことに気をとられて、反応がしばし、遅れた。


「おそろい?」

「そう」


 清が微笑し、ついと顔をうごかす。視線の先には優を惑わしてやまない美人がいる。


 清と優のかたわらで、柾が、不思議そうに清の口もとをみつめている。


 優に視線をもどして、清はさらりと清水のようにいった。


「ダヴィデの星って、六芒星よ。雪平ちゃんの六花と同じ、六角形でしょう」


 ――思考停止の合図みたいなものである。


 ちょっと遠くで、()()はほんと鬼だなと、晴がつぶやいていたけれど、優は微塵もそれを気にとめなかった。



       * * *



 十二月の晴れた土曜日、優は雪平と嵯峨のバス停におりたった。雪平はきょうも和服姿、めざす場所はここからあるいて三十分できくのかどうか。伏見稲荷を草履でのぼりおりしていた彼女だから、それくらいの道行きなど苦にもならないかもしれないが。


 バス通りから目指す方向へ折れると、辺り一帯、閑静な住宅街という風情になった。車も、道ゆく人もまばらな、細い道のりをたどっていく。


 バスの中で話題にしていたのは、雪平のならいごとのスケジュールのことだった。


 道理でいそがしいわけである。茶華道、礼法、琴、京舞、ピアノの稽古が毎週から月数回、ローテーションで組まれているのだとか。これまで雪平と日中、出かけたのはほとんど土曜日だが、これはそれらの合い間を縫って、本当に雪平が時間をつくってくれたものなのだ。


「おばあさんがね、もう全部って人なのよ。できて当たり前なの。できないって発想が最初からないのよね」


 ならって当然、ならえばできるだろうという考えらしい。雪平の話をききながら、彼女が自分の祖母を差して祖母と呼ばないのを、ただの稚気だろうかと、すこし優は不審に思う。


 そういえば、雪平は文化祭のとき、優が課外活動の成果として出品した生け花を、いつの間にかちゃんとみて、批評してくれたのだった。作品は我ながら迫力のない、小心のあらわれそのものみたいなのを、先生がつとめて華やかにしようとしてくれたのが、あからさまに出たものだったのだけれど。


 これまで怖くて踏みこんでこなかったところを、彼女は、なんでもないことのように話してくれる。


「おばあさんが、一番きびしいの?」

「そうね。母はいないし、父もほとんどいないし、おじいさんは何もいわないから」


 なんと踏みこんでいいものだろう――優は口をわずかにひらいたまま、黙った。

 ちょっと考えて、何歩かあるいて、問う。


「きょうだいは?」

「一人っ子。優は?」

「うちは、姉がふたり」


 そう、と、短くこたえて、雪平は何の感想もいわなかった。


「いい匂いがする」


 少しひらけた一本道の途中で、突然、顔をあげ、雪平は例によってぱっと駆けだした。香りの元手らしき小さな建物の戸口に寄りつく。

 看板をみあげると、お香のお店のようだが、休業日なのか、真っ暗で戸もとざされ、しんとしている。

 ガラスごしに中をのぞくと、匂い袋がならんでいるのがぼんやりみえる。


「清先輩にね」


 雪平が別の話を始めた。


「一度、香道の体験に、つれていってもらったの。お稽古に初めての人が加わっていい日に、交ぜてもらっただけなんだけど」


 優は息をのむ思いで、ただ彼女の言葉を待つ風を装った。


 考えれば察しのつきそうなことなのに、思いもよらなかったのだ。清と彼女が、どういう風にかかわってきたか。


 彼女のこなすあらゆるならいごと、そのどれか、もしくはどれもに、清が精通しているのは、おそらく自明のことなのだ。


「香道って、何するの?」

「香りをかぎわけて、当てて遊ぶのよね、要するに。難しいことは習わなかったわ。一回きりだし」


 雪平は肩をすくめる。制服姿のときもよくみる動作だが、いまの和装とちぐはぐな感じがいかにも彼女らしい。


 バスの中から思っていたが、そんな彼女はきょうもほのかによい香りがする。


「着物に、お香とか焚きしめてる?」

「焚きしめるって、そんな古風な。これ、香水よ」

「そうなの?」

「好きなのよ。前から。気分でつけてる。お香体験の日は、さすがにやめておいたけど」

「つけるの、うまいね。わたし、香水の匂いって苦手なんだけど、雪平のは大丈夫だなあ」


 思いかえせば、たしかに何種類か、香りのちがいがあるようだった。


 大体、夏の蒸し暑い屋内や、乗り物の中で近くに立たれると、覿面に気分が悪くなってしまうのだが、雪平といてそうなったことはない。服の香りと思えるほどかすかだし、制服にしみついて、ほかの香りと混じりあって正体不明の濃さを醸しだしていることもなかった。


「ほんと? ローティーンで身につけた悪癖のひとつでね……本当に大丈夫?」


 なんだそのいいぐさ。

 優は思わず噴きだす。


「うん。全然嫌じゃない。近くで嗅がないとわかんないもん。いい匂い」

「嗅ぐ……まぁ、ならいいけど」

「お香も好き?」

「ええ、好きだと思うわ。楽しかったし」

「雪平、誕生日いつ?」


 急に話を変えると、雪平は怪訝そうにこっちをみあげた。


 ふと、雪平の肩を覆う薄青めいた灰白のストールをみて、そのことに思いおよんだのだった。


 その名前で、六花なるあざなまで持つにいたった彼女が、冬生まれである可能性は、よっぽど高いんじゃないだろうか。


「十一月よ。優は?」

「えっ、いつ? 過ぎちゃったじゃない」

「いいのよ。優は?」

「七月だけど。何日?」

「優も過ぎてるじゃない。いいのよ、もう。来年で」

「で、何日?」


 最後の言葉が、和した。

 一瞬、目をみかわし、二人、同時に笑いだした。


「もう、何日なの? 先に教えてよ」


 ひとしきり笑いながら、笑いのあいだにしゃべるのは雪平の方がうまい。


「二十日。雪平は?」

「二十五」

「クリスマスの一ヶ月前だね」

「なに、そのおぼえかた」

「日にちは近いね。数字だけは」

「そう?」

「三十日くらいの中では」

「そう、いいわ、もうそれで」

「その反応多いな、わたし」

「だってもう、どうしろっていうの」


 散々笑って、雪平はまだ声をはずませているが、心底おかしげに笑う彼女を、優は横合いからぼんやりみなおす。

 そうか、と、あらためて思う。


 ほんの少し前に、彼女の生まれた日をすごしてしまったのだ。


「冬だとは思ったけど、十一月なんだね。ちょっと早いね」

「でしょ。なんでだと思う?」

「なんで?」


 なぜ、そんな謎かけをするのだろう。


「十一月の北海道は真っ白なの」

「――」


 優は絶句した。


 となりをあるきながら、雪平はひどくくつろいだ微笑を浮かべている。


「父いわく、雪の平原。母にとっては雪のかけら、結晶なんですって。あたしの名前」


 雪の絶景。


 凍てつく大地に生まれたいのち。


 反射みたいに、泣きそうになった。


「……北海道生まれ?」

「うん。小学校の途中まで、旭川にいた。父が京都の人でね」


 たどる小道はのぼり坂になっている。まがりくねる道の脇に参道らしく店がならぶが、雪平はそれを楽しげにみやりながら、速さを変えずのぼっていく。


「でもね、清先輩が、雪平って和菓子の名前ねって。おいしくていい生地なんだって。あたし、それきいて、清先輩が大好きになったわ」


 ついでに自分の名前も、と、いかにもついでらしくつけくわえる。


 ああ、と、優はそれらの言葉の響きを感じた。


 さまざまな事柄が彼女のひととなりの基礎をなしている。透けてみえる骨組みの鮮麗さに、しばらくことばもない。


 きいたことのひとつひとつをたしかめて、それらが機械の構造みたいな精密さで思いあわさっていく。


 目指すところは、もうすぐのようだった。案内の出ている通り、二人は階段状になっている細い坂をのぼっていく。


「中学はどこにいたの?」


 ふと、問うと、雪平はこっちをみて遠慮なく顔をしかめた。


「人が必死でごまかしてきてることを、聞くのがいまなんだもんね」

「え?」

「誰にもいわない?」

「え。うん」


 雪平が、そう望むなら。


「フランス。パリに三年半いた」


 ああ。

 いたく納得して、優はうなずいた。


「おどろかないのね」

「いや、それでかと思って」

「何が。どういう意味」

「ほら、なにか、それっぽいこといってたじゃない、最初のころ。帰国子女枠?」

「あぁ。それだけ?」

「うん、まぁ、そうでもないけど」

「ほらね。どういう意味?」

「いや、うん……なんとなく」

「何」

「うまくいえないけど。フランスって寒いの?」

「そんなあからさまにごまかす?」


 雪平が一段、声を高めた。ごまかしたわけじゃないけどとこたえて、優は苦笑いした。


「カビを珍しがってたじゃない。もしかして、そのせい?」

「ああ。そう。食べものに生えるの、みたことなかったの。乾いてカピカピになるのしか」


 雑談を一時、中断し、お寺の受付で拝観料をおさめる。窓口ごしにお互い、手もとしかみえない係の人が、綺麗な着物やねと、雪平の装いをほめてくれる。


 少し踏みいると、えもいわれぬ景色がひろがっていた。


 石塔と背の低い石仏のおびただしい列。

 たがいに口もきかず、通路の砂利を踏む音すらはばかりながら、進んでいく。


 無縁仏をまつったという。かつての風葬の地。

 水子供養の地蔵など、なにをいえたものでもない。


 竹林のあいまの階段を、のぼっていくところで、不意に雪平が手をつないだ。

 かえりみると、雪平はまっすぐ、遠くをみていた。


 手はふたりともひんやりして、温かくなる予感だけがある。


 竹林の先は、さびしい芝生だった。ぽつん、ぽつんと珍しい石の彫像が立って、あたりは緑で、なにもない。手をつないだまま、それらをみまわって、竹林の道へひきかえす。


 ゆっくりおりながら、雪平が少し、にぎる手に力をこめた。


 なにかいいたげに、かすかに唇をうごかして、それだけで、なにもいわなかった。


 お堂などもひととおり覗いてみるが、いつになく、雪平の足はにぶい。全体をくまなくみたかどうかもさだかでないうちに、境内から出てしまった。


 風が木の葉をゆらす音がやけに強く、さほど寒くはないのに、無性にうらさびしい昼下がりだった。


 石段をくだって少しいくと、雪平が道の端に目をとめた。


「のぞいていっていい?」


 幼子のような目つきで問われ、優はうなずく。

 雪平がここ、化野(あだしの)念仏寺に脇目もふらずやってきたのは、別に思いつめていたせいとかではない、多分。前に、優とやんわり約束したからだ。


 どこかへ出かけるとき、ひとつには、寄り道は帰りにすること。


 ひとつ、飲食はなるべく一回で済ませること。

 ひとつ、バスの一日乗車券か、電車の往復代くらいに交通費をおさえること。


 優が月のお小遣いでまかなえる範囲となると、おのずとかぎられてくるのである。父母が出しているはずの養育費でも、浪費は避けたかった。叔父や叔母に負担をかけるなど、もってのほかだ。


 雪平は自分が出してもよさそうな顔をしていたが、優はそれをきっぱりことわった。雪平のお金とて、つまりは雪平の親御さん、お父さんや、お祖父さん、お祖母さんから出ているものなのだ。


 彼女はただうなずいて、それをのみこんだ。以来、雪平が途中で何か買い物することはあっても、優の分を負担することも、優に予算以上の出費をしいることもない。


 一日の観光で、行き先は一、二箇所。ひと月に一度か二度、移動はバスが多くて、時間はかかっても、のんびりした無理のない道行きである。


 雪平と入ったのは、みやげものと雑貨のお店だ。店内にはこまかで作りのいきとどいた和風の小物がならんでいた。

 竹製の調理器具や、和装用のショール、化粧道具。思い思いに中をまわって、ふと彼女はどうしたかと目をやると、文具などの小物類の棚をじっとみつめている。


 そばにいくと、顔もあげず、名も呼ばずに問うてきた。


「どれがいい?」


 はてと思って指の先をみる。文香――手紙などに添えるお香らしい――のふたつでワンセットのが、三種類ならんでいる。

 どれも鳥獣戯画の図案で、兎と蛙がたわむれるさまがそれぞれプリントされている。


「香り、ちがうの?」

「ううん。一緒」


 雪平の目はごく真剣だ。そのうえ、片時も文香から離れない。


 優はしばしまよって、中のひとつを手にとった。


 三種の絵柄は、ちがう遊びがえがかれている。すもうと追いかけっこ、弓矢。


 彼女と、対立も、競争も、したくなかった。


「これ」


 ふたつの袋の片方に兎、片方に蛙が、同じ方を向いて弓をもっている絵柄のを、優は雪平にとってみせた。

 うけとって、雪平はやっぱりじっとそれをみる。


「これ?」

「うん」

「わかった」


 うなずくと、まっすぐレジへいき、支払いをすませた。

 雪平が買ったのは、それだけのようだった。いつもなら気にいった小物の二、三は平気で買う、そのわりにそれらを使っているのをみたことがない、若干、浪費家の気のある彼女にしては意外である。


 店を出ると、道すがら包みをすぐに解いて、ふたつともを優にみせてきた。


「どっちがいい?」

「え」

「あげる」

「なんで、いいよ」

「誕生日プレゼント。どっちがいい?」


 誕生日って。


 近いのは雪平の方じゃないか。


「じゃあ、蛙」

「なんで」

「雪平のが兎っぽいから」

「じゃあ、こっちね。はい」


 渡されたのは兎の方だった。

 優は首をひねりつつ、うけとった。


「いくら? 半分出すよ」

「どうして。誕生日プレゼントよ」

「わたしからも誕生日プレゼント。だから、半額」


 小さい、販売用に簡素化された、いわば量産品のお香だ。使い道からすれば消耗品みたいなものだし、かなり可愛らしい値段だったはずだ。


 雪平のこたえを待たず、このくらいだったかなという額の小銭を財布から出して、問答無用で彼女の手ににぎらせる。

 すると雪平は、みている方がおどろくくらい、本当に口をふくらませた。


 なんて顔をするんだろう。


「誕生日おめでとう」


 毒気をぬかれて優が思わず微笑むと、すぐ口はもとにもどって、いつもの美人だった。


「――優も、おめでとう」

「ありがとう」


 やった、と、うれしくなって、優は手の中の小さなお香をみた。雪平っぽい白い兎が、弓を構えている。

 当たり前だけど、強い、よい香りがした。


「もう!」


 べしんと腕を叩かれる。なんだろうとふりかえると、雪平はなにやらぷりぷりしながら、蛙のお香をバッグにしまっている。


 むやみに人を叩かないでほしいものだ。あとに残るほどではないが、叩かれた瞬間、叩かれたと思うくらいには、痛い。


「雪平」

「なに」

「さっきの袋、お店の包みか、どっちか頂戴」

「なんで? いれるの?」

「うん、けっこう匂いが強いから、なんかいろんなものにうつりそう」

「うつせばいいじゃない」

「そういわず。どっちかでいいから」

「もう、ほんとしょうがないなあ」


 なにがだろう。言い分はまったくわからない。


「はい」


 パッケージのビニールではなく、お店の紙の包みをくれたのは、匂いがうつりやすい方をとの選択だろうか。つい勘繰りたくなってしまう。


 礼をいって紙包みにお香をしまい、鞄にいれた。うごかすたびにふわんといい香りがして、包みごしでもしばらくは鞄に香りが残りそうだった。


 彼女からもらったものだ。本体から香りが飛んでしまうようなことは、なるべくふせぎたい。


 大切にしまって、ときどき香りをたしかめて楽しめればいい。空気にさらして薄めてしまうのは、もったいない。


 この発想を彼女に話せば、貧乏性とでも一蹴されそうだけれど。


 優はひとり、微苦笑して、鞄の留め具をたしかめるようにてのひらでなでた。





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