薄夜の音
こちらは本編よりかなり前の時代、明治時代末期くらいが舞台になります。
「逃げてもいいんだぞ」
「逃げませんわよ」
そう答えると、彼は本から顔を上げ彼女と目を合わせた。
その視線を正面から受けとめ、彼女は続けた。
「得るものだけ得て、その代価を支払わず逃亡するなど恥知らずな真似は致しません」
まっすぐでどこまでも澄んだ瞳は、彼女が彼の背丈の半分もなかった時分からまるで変わらない。
「失うもののほうが多いだろう」
「それが『当たり』の者として生まれた本家の者の宿命です」
彼女、笙子は眉ひとつ動かさず、一切の動揺を見せずにそう言ってのけた。そして彼が何か言うよりも先に口を開く。
「お逃げになるならわたくしより貴方でしょう? 貴方はもう、四百年はこの家に捕らわれている」
「ああ、もうそんなになるか」
「なりますわ。明治天皇が即位なさってから四十年にもなりますのよ。その十乗ですわ」
「早いなぁ」
あまりに呑気すぎる彼に、笙子は眉根を寄せた。
「……わたくし、貴方が嫌いですわ」
「それは手厳しい」
そんなこと、微塵も思っていやしないのに。
今だってまるで壁のようにしか感じられない作り物の笑顔で牽制してくる。
「貴方のその流されるがままの生き方、大嫌いです」
「うん、俺は流されるがままに生きてる」
彼はいつもこうだ。
どんなに強い風が吹こうとも、風に逆らうことなく己を殺してやり過ごす。
自らの思いを口にすることなく義務という名目の下、個を殺している。
初めて彼に会った時から変わることなく、彼はそうして生きている。
否、笙子に出会うよりずっと前から彼はそうしていたのだろうし、笙子が老いてやがてこの世に別れを告げる日が来ても彼はきっと変わらないのだろう。
「笙子は流されるままに生きる性質じゃないだろう?」
唐突に彼はそんなことを言ってきた。
笙子は軽く目を見張ってから背筋を伸ばして答えた。
「当然ですわ。ですからわたくしはわたくしの意志の下で生きます。例え『当たり』の者として生涯この家に縛られようともわたくしの意志は譲りません。他者に指図される気は毛頭ございませんのよ」
「近頃の女は強いなぁ」
相も変わらず呑気な調子でそんなことを言う。
「婦人運動が盛んになってきたとは聞いたけど、近頃は女学校もそういう影響を受けているのか?」
「先生方はそのような考え、良しとは致しませんわ。あくまで殿方と御国に尽くす良妻賢母たれと説かれますが、いつまでもそのようなことを言っていているようでは世に取り残されてしまいますわよ」
つい先日卒業したばかりの女学校では女は男の後ろで支えろと、そのようなことばかり言われた。
まるで女は考えることなど必要ない。全て男に従えばいいのだと言わんばかりに。
「女は殿方の眷属ではございませんわ」
「うん。それはそうだ」
「そのように仰る方は数少ないですけれど。軽々しく口にすればすぐさま生意気だ、恥知らずだなどと罵られますのよ」
「そういう時代だからな。だからと言って、全ての男が女を道具のように思っているわけではないさ」
「……少なくとも、お父様やお兄様はそうではないように思えますけれど」
笙子の父と兄、綾峰本家の当主とその後継者である二人は正妻がありながら幾人もの妾を囲っている。父は跡取りである兄が生まれてからは母への関心は薄く、その息子である兄も似たようなもので子供さえ生まれれば正妻でも妾でも構わぬといった素振りを隠そうともしない。
彼らにとって大事なのは綾峰の家名と権威、財力だけだ。
女はそれらを残すための道具としてしか考えていない。
「あの方たちは保身しか頭にない。私やお母様やお義姉様のことも、道具としてしか思っていない」
吐き捨てるような言葉に、彼は柔らかな声で言った。
「だから縁談を片端から反古にしていくのか?」
大嫌い。
そう胸の内で呟く。
そうやってさしたる興味もなく訊いてくるところも、とても嫌い。
だから笙子も顔を上げ、毅然とした態度で答える。
「そうですわ。お父様方が連れてくる殿方は皆当家の威光に媚へつらい、自ら考えることを放棄し怠惰に生きる方ばかり。お父様達と同じように。そのような方と一生を添い遂げるなど、冗談ではありませんわ」
彼はほんの少し、困ったような呆れたような顔をして笑んだ。
「だから逃げてもいいって言っているのに。俺は追わないから」
その一言に彼の頬を張り飛ばしてやりたい衝動な駆られたが、両手に力を込めて必死に抑え込んだ。
「……逃げなどは致しません。わたくしが認めた殿方を探せばいいだけですもの」
「難しいだろうな。笙子の見る目は厳しいから」
彼はそう言って、零すように笑う。
「流されるがままに生きることは楽だから、笙子が望むような人間はそうそうお目にかかれないだろうな」
「貴方のような方ばかり」
刺々しい笙子の言葉にも彼は構うことなく頷く。
「そう。だから世の大半の人間は流されるままに生きている。望んで流れに逆らう人間は少ない。下手を撃ったら官憲に取っ捕まりかねないしなぁ」
「この綾峰の外の世界のことなどは今は話しておりませんわ。わたくしが申しているのはこの閉鎖的な家の内のことです」
「この家の中だって同じことだ。官憲こそいなくとも似たような役割はあるからな。表沙汰にならない分、官憲より余程怖いかもしれない」
彼が言うのは笙子の家の分家に当たる家、三ノ峰と称される家のことだ。
保守的なこの家の番人……否、看守のような役目の家の人々。
彼らが看守なら、牢獄は男爵家とは名ばかりのこの本家の屋敷だ。各界の要人への披露目が済んだばかりのこの西欧式の屋敷も笙子にしてみれば、ただ外観に金銭を投じただけの巨大な監獄だ。
「ですが当家の者達が保守的なことと、三ノ峰の存在は関係ないように思えますわ。一族ぐるみで生来異常なまでに保守的なだけに思えます」
「そういう風にこの家は永らえてきたんだ。今更冒険しましょうと言って喜んで安寧を捨てられるような立場にある奴は殆どいない」
「意気地なしです」
「皆、守るものがあるだけだ。自分自身だけでなく一族郎党を路頭に迷わせるわけにはいかないだろう?」
「それはそうですが」
「お前の言う保守的な一族のおかげで俺もお前も不自由なく過ごせるんだ。だからあまり悪く言ってやるなよ」
彼はあくまで穏やかに、優しく子供をたしなめるように言った。
彼は怒らない。
昔から幾度となく彼と顔を合わせてきたけれど、怒っているところなど見たことがない。
喜怒哀楽の楽しか見せたことのないような人だ。
だから何を思っているのか、笙子には到底計り知れない。
待遇だけが良い監禁にも等しい生活を強いられながら、彼は一度として不平を述べた事はない。心情を語ることなど滅多にない。
ただ表面上の言葉だけを口にして彼は生きている。決してその胸の内を明かすことなく。
「貴方は……不満はありませんの?」
「何に?」
「何でも構いませんわ。貴方の置かれる現状にでも、周囲の者達に対してでも」
「そんなものないよ」
そう、今までで一番柔らかな笑顔で彼は一寸の迷いもなく答えた。
尋ねた笙子のほうが気後れしてしまうほどはっきりと。
「大事な子供達が側にいて……少し変わった形でも俺を必要としてくれる。それだけで十分だよ」
そうは言うのにそれがどこか寂しげに悲しげに見えてしまうのは何故だろう。
笑っているのに、泣いているように見えてしまうのは何故だろう。
「……寂しくはありませんの?」
「笙子も嫌々そうにでもたまにはこうして顔を見せてくれるし、毎日食事を運んでくる使用人相手に話したりはする。寂しくはないよ」
「そうではありませんわ、そうでは」
笙子は膝の上で手を握り締め、唇を噛みしめた。
「……それでも貴方は、独りでなくてはならないのでしょう? わたくしの祖先達もいずれはお父様やお兄様やわたくしだって、皆貴方より先に死んでゆく。最後に残るのは貴方ひとり。……寂しくはありませんの?」
どうせ返ってくる言葉などわかりきってはいるけれど。
彼は今まで一度だって自分の望む言葉をくれたことはないのだから。
「――大丈夫だよ。俺は大人の大人の大人くらいの年齢だから、寂しがったりなんてしないよ」
ほら、やっぱり。
「っそうですわね。貴方にとって、わたくしも他の綾峰の者も何の意味もない存在ですものね!」
「笙子」
「大嫌い……大嫌いですわ! 貴方など……わたくし達が大事だなんて言って、本当は路傍の石程度にしか思っていないくせに!」
意味などない。
他人にどんなに想われようと、周囲の誰がどのような思惑を持って近づいてこようとも、彼自身にとってはどちらも大差はないのだ。彼にとって、他人などその程度でしかないのだから。
人前で感情を晒すなどはしたない。
家でも女学校でも嫌という程に言われたし笙子自身、そのような無様な真似をするはずがないと今まで思っていたのに。
……何て惨め。
「笙子」
「大嫌い」
興奮に任せて涙まで溢れてきた。
本当に何て無様。
だから彼は笙子になど関心がないのだ。
幼い頃から少しでも彼の関心を引きたくて努力してきたけれど、少しもうまくいかなかった。
綾峰男爵家の娘として恥じない人間になろうと努力してきた。彼にとって必要不可欠な『当たり』だとわかってから、他の幾多の一族の人間よりも誰よりも彼に近い存在になれると喜んだのに、彼にとってそんなことは大した意味もないことだった。
「っ大嫌いです、貴方など、大嫌い……」
彼はじっと私を見ていた。
触れるでもなく、呆れるでもなく、叱咤するでもなく。
ただじっと。
それほどまでに自分はどうでもよい存在なのかと思うとますます涙が溢れてきた。
「……千歳様など、大嫌い」
思わず口から零れ落ちた言葉に彼の、千歳は目を見張った。
そして少し困ったように眉を下げ、小さく笑った。
「ああ、名前を呼ばれて大嫌いって言われるのは堪えるな」
その呟きに涙で汚れた顔を真っ直ぐに彼に向けた。
彼は少しだけ、ほんの少しだけだけれど、傷ついたような笑みを浮かべている。
「……わたくし、今まで幾度となく貴方に大嫌いと言いましてよ」
「うん。もう何年も言われてる。けど名前を呼んで言われたのは初めてだ」
「名前を呼んで言うことはそんなに差がありますの?」
「あるよ。ああ、俺に向けて言われたんだなって強く自覚させられる」
「……ではもっと早く言うべきでしたわ。貴方はわたくしが何を言おうと、気にする素振りなど見せやしなかったではありませんでしたもの」
「子供の癇癪は可愛いから」
「癇癪などではありませんわ! そもそもわたくしがどのような憎まれ口を聞いても貴方はいつもいつも笑ってばかりで」
「うん。笙子は怒っても八つ当たってきても可愛いから」
「……人にいたぶられることを好む性癖がお有り?」
「違うよ。俺の大事な子供だから何をしても可愛いんだよ」
苦笑して彼は絹のハンカチーフを笙子の濡れた頬にあてた。
「せっかくの美人が台無しだ」
「……そのようなこと、思っていないくせに」
「思ってるよ。笙子は俺の一番の器量よしだった娘にそっくりの美人だ」
「わたくしはその方にお会いしたことがないからわかりませんわ」
「俺が保証するよ。遠方の村まで評判になるほどの美人だった」
そう言って彼は朗らかに笑ってみせる。
それだけで無条件に信じられてしまうような、そんな笑顔だ。
「とても気が強くて我が強くて、性質も笙子によく似ていたな」
「わたくしは我を張り通したりなど致しませんわ」
「知らないって怖いなー」
意地悪げに彼は笑って少し乱暴に笙子の涙に濡れた顔を拭った。
「何ですのそれ。莫迦にしてらっしゃる?」
「まさかぁ。俺が可愛い子供相手にそんなことするわけないじゃん」
「とてもそうは見えない顔をしてらっしゃるの、ご自分でもお分かりになって? 鏡はあちらでしてよ」
笙子は顔を拭われたまま、彼を上目遣いに睨んだ。
「鏡なんて見なくたって、俺が誠実実直な顔をしているのはよぉく分かってるから見なくていいよ」
「白々しいこと」
真っ赤な目を据わらせる笙子に、彼は声を上げて笑った。
「わたくしと貴方のようなふざけた方が血が繋がっているだなんて、到底思えません」
「思えなくっても事実だから仕方ない。現実見ようよ
そう、にこにこと晴れやかな笑顔で言ってくる。まるで彼の方がずっと子供のように見えるような笑顔で。
「言われずとも見ております」
胸を張って笙子が言うと、彼はハンカチーフを持った手を引っ込め、そっかと笑った。
そして壁に掛けられた柱時計に目をやった。
「さ、もうこんな時間だ。そろそろ階上に戻るといい」
「そんなにわたくしがいると邪魔ですの?」
「まさか」
少し顔を強張らせた笙子に対し、千歳は大げさなまでに大きな声で言った。
「可愛い笙子を引き留めておきたいのは山々だけど、夜更かしは美容に良くないんだろう? 二ヶ月前に来た時に言ってたじゃないか」
ああ、確かにそんなことを言った。そんな憎まれ口を叩いてこの部屋を後にしたのだ。
「よく覚えていらっしゃいましたわね」
「だって笙子の言った事だから」
嫌になる。
その気もないのにこの人はいつも臆面もなくそのような台詞を吐いてみせる。
(本当にずるい方……)
笙子の気持ちなど、もうとうの昔に気づいているはずなのに、気づいている素振りなどこれっぽちも見せない。
見せないくせに、『大勢の子供の中の一人』としては特別に可愛がってくるから嫌になる。
笙子がなりたいのはそうではない。そうではないのに、彼は子供として可愛がるという形で笙子の想いを否定する。
だから、大嫌い。
これ以上にはなれない、ならせてもらえない。
彼は笙子を何時までも我が子の一人としてしか扱ってくれない。
それはとても残酷なことだけれど、想いに応えられないと分かっていながら無駄な努力をしようとしたりしないところも彼なりの優しさだということくらい分かっている。それに腹を立てて、いつも憎まれ口ばかり叩く笙子の言葉を正面から受け止めてくれるのが彼のせめてもの想いだということも分かっている。
分かってはいても、腹が立つ。
何時になったらこの想いを消化出来るのか。
死ぬまでこの人と顔を合わせて生きることが義務付けられている自分に、他の男を見ることが出来る日など来るのか。
でも、出来なくても彼の側を離れたくはない。
望むような形でなくてもいい。彼の側にいたい。ほんの少しでも、彼の近くに。
「……では、わたくしそろそろお部屋に戻ります」
「うん。おやすみ」
「また明日にでも参りますわ」
「明日は琴と長唄の稽古があって忙しいんじゃなかったのか? 無理しなくても……」
「平気ですわ。わたくしが来なくて、千歳様が寂しい寂しいと泣かれてはお気の毒ですもの」
強気な笑みを浮かべ、笙子は異国製の椅子から立ち上がる。
彼は、千歳は面食らったような顔をしてからやはり笑った。
「そうだな。笙子の憎まれ口が聞けないと寂しいなー」
「そうでしょう? ですから仕方ありませんから来て差し上げる」
「お待ち申しあげているよ」
望むような形でなくても、永遠にこの距離が縮まる事はなくとも、それでも傍にいたい。
「明日も明後日も、結婚しようと子を産もうと参りますわ。貴方は人にいたぶられるのがお好きなのですものね」
「違うって言ってるのに。人に変な性癖つけるなよ」
口を尖らせる千歳に、笙子薄く笑って部屋を後にした。
明日も明後日も、この想いが変わらなくても、貴方が寂しくないように。
貴方の子として此処へ来よう。
笙子は目に滲んだ涙を袖で拭うと、毅然と顔を上げて階上へと足を向けた。
了
前書きの通り、明治時代末期くらいのお話になりました。主人公の笙子は結恵のひいおじいさんの妹という設定です。結恵のおじいさんの義将さんから見ると叔母にあたる人物です。お嬢様口調のお嬢様を書けてとても楽しかったです。
そして時代的には本編でも舞台となった本家のお屋敷の落成直後でもあります。そして綾峰さんの本家は財閥家系ということで男爵家になりました。多分それくらいじゃないかなと想像しながら書いた覚えがあります。
それでは時代考証等甘い部分もありますが読んで下さりありがとうございました。