第29話
第29話 選んだ未来
空は、晴れていた。
どこまでも高く、澄んでいる。
先ほどまで荒れていた気配が嘘のように、森は静かだった。
やわらかい風が吹く。
葉を揺らし、草を撫で、通り過ぎていく。
ミラベルは、その中に立っていた。
白い光は、もう薄れている。
けれど、胸の奥には、まだ確かな熱が残っていた。
少し後ろで、足音が止まる。
振り返らなくても分かった。
「……来たのね」
静かに言う。
「ああ」
短い声が返る。
ミラベルは、ゆっくりと空を見上げた。
広い空。
森の上にある、何ものにも閉ざされていない場所。
「綺麗ね」
「そうだな」
それだけのやり取りだった。
けれど、不思議と静かだった。
何かを埋めるような言葉は、いらなかった。
ミラベルは、そっと胸元に触れる。
石はもう荒々しく熱を持ってはいない。
ただ、穏やかに、そこにあった。
「……私、分かったの」
ぽつりと、零す。
「何を選びたかったのか」
背後にいるマルクスは、何も言わない。
ただ、待っている。
問い詰めない。
急かさない。
森でそうだったように。
今もただ、聞こうとしている。
だから、言えた。
「あのまま、何も言わなければ」
ミラベルは、ゆっくりと息を吐いた。
「きっと守られていたのだと思うわ」
王宮で。
与えられた部屋で。
決められた役割で。
「王妃という場所も、用意されていたのでしょうね」
言葉は静かだった。
恨みも、怒りもない。
ただ、もう違うと分かっているだけだった。
「でも――あそこでは、私は生きられない」
はっきりと、言う。
マルクスの気配が、わずかに動いた。
それでも、口は挟まない。
ミラベルは視線を落とす。
森の土。
草。
根。
命の匂い。
「守られるだけの場所では、私はまた、自分を失うわ」
あの檻の中で。
あの馬車の中で。
王宮の白い部屋の中で。
「選ばれた場所ではなくて」
一度、言葉を切る。
「自分で選んだ場所で、生きたいの」
風が吹く。
髪が揺れる。
マルクスは、まだ黙っていた。
ミラベルは、少しだけ笑った。
ほんのわずかに。
自分でも驚くほど、穏やかに。
「私が選んだのは、森での暮らし」
温度の無いはずの石が、どこか温かい。
「……あなたと過ごした、あの森での時間」
そこで初めて、マルクスの気配が大きく揺れた。
息が、止まるような沈黙。
ミラベルは振り返る。
マルクスが、珍しく言葉を失っていた。
まっすぐに見返してくるはずの目が、ほんのわずかに見開かれている。
ミラベルは、その顔を見て、少しだけ目を細めた。
やはり、こういう顔もするのだと、どこか可笑しくなる。
マルクスが、何か言おうと口を開いた。
だがその前に。
――風が、止まる。
「だから」
ミラベルは、静かに言った。
もう迷いはなかった。
「結婚しませんか。私たち」
沈黙。
森の音だけがある。
風が、葉を揺らす。
遠くで鳥が鳴く。
マルクスは、しばらく何も言わなかった。
ただ、ミラベルを見ていた。
やがて。
「……は」
小さく、息が抜ける。
肩の力が、少しだけ落ちた。
それから、困ったように口元が緩む。
「……参ったな」
低く、零す。
「同じこと、言うつもりだった」
ミラベルは目を瞬かせる。
それから、ふっと笑った。
マルクスはそんな彼女を見て、ほんの少しだけ視線を逸らした。
照れでも、取り繕いでもない。
ただ、肩の力が抜けたような、そんな動きだった。
「これじゃあ、また格好つかないじゃないか」
その口調に、ミラベルの目が少しだけ大きくなる。
王子としてではない。
森にいた、あの時のように崩れた言葉。
それが嬉しかった。
マルクスは、ゆっくりとミラベルの前に進み出る。
そして、その場に片膝をついた。
差し出される手。
無骨な手だった。
剣を握り、獣を追い、土に触れてきた手。
けれど今は、どこまでも静かだった。
ミラベルは、その手を見つめた。
それから、そっと自分の手を重ねる。
温かい。
次の瞬間。
マルクスは、その手を両手で包み込むように受け止めた。
そして、静かに、ミラベルの手の甲へ額を押し当てる。
それは、口づけよりも深い敬意だった。
しばしの静寂。
やがて、マルクスが顔を上げる。
その目は、まっすぐだった。
「お前が選んだ未来を、俺も生きる」
短い言葉だった。
だが、揺るがない。
「守るんじゃない」
静かに、続ける。
「一緒に行く」
ミラベルの喉が、小さく震えた。
泣きたいわけではない。
ただ、胸の奥が静かにほどけていく。
与えられたものではない。
押し付けられたものでもない。
これは、二人で選んだ未来だった。
ミラベルは、重ねた手にもう少しだけ力を込める。
「……はい」
小さな声だった。
けれど、確かだった。
風が、また吹いた。
森が揺れる。
葉が鳴る。
それは祝福のようでもあり、ただそこに在る命の音のようでもあった。
空は、どこまでも高い。
閉じるものは、もう何もない。
ミラベルは、そっと目を細める。
自分で選んだ場所。
自分で選んだ人。
自分で選んだ未来。
そのすべてが、今、ここにあった。
つづく
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