「第三十二-歴史には遺らない話-」
裾野の生涯を支えている人物のお話。
道を大きく外すことなく、常識ある人間に育てた1人。
現在パートでは珍しいメンツを揃えてみました。
後編では強い意志を垣間見せる裾野さん。
本編の続編にどう繋がっていくか、楽しみな点でもあります。
※約8,700字です
※若干BL注意です
2015年8月5日 夜(天気:晴れ)
後鳥羽家 執事寮前の庭
裾野(後鳥羽 龍)
夜道を1人で歩くのも慣れてしまった。
……などと言ったら乞田は怒るだろうか?
あぁ……今日は執事が主人公の話だからな……本当なら橋本に話してもらいたいぐらいのものだ。
そんなことを考えながらVネックの黒いTシャツの裾を軽く直し、裏庭へと続く扉を開けると、執事寮の前に小さな光が3つ見えた。
市販の花火でもやっているのだろうか?
そう言えば、あまり執事同士の会話を聞いたことがないな……。
という訳で俺は、会話が聞こえる程度の距離から盗み聞きすることにした。
「紅夜様は花火が好きで、花火大会は積年の夢だったんです。……ここだけの話、お部屋のベランダでもこうして家庭用の花火をやっていました」
落ち着くようで鋭い、完璧主義を思わせる声の持ち主は、おそらく紅夜兄さんの執事長である新田だ。
たしかもうすぐ40歳と聞いたから、橋本の4つ下か5つ下だろう。
”完璧すぎる執事長”とも言われているが、良かれと思ってやったことが紅夜兄さんの逆鱗に触れることもしばしば。
だが仕事は本当に完璧で、スケジュール管理や兄さんの体調管理が行き届いているおかげで、兄さんは一度も大病を患うことも無く生活している。
ある意味完璧と言われるのも、維持するのも残酷で……受け入れられない方からすれば、ネガティブスパイラルの入り口になりうる。
「へぇ……俺とは違って完璧だからね。まぁ透理様は”24日組”とか関係なく、御二方を妬んでいらっしゃってるから、俺を襲って吸血鬼になったのも……戻ってきたのも……そういうことなのかなって思ってる」
嫉妬と皮肉を込めた声で言うのは、”嫉妬”の透理兄さんの執事長である滝本だ。
滝本は橋本とほぼ同期らしいので、44歳付近だろう。
彼自身がかなり嫉妬深い性格なので、必要以上に”嫉妬”に入れ込ませてしまったせいで吸血鬼となり執事長を襲って家出し、しばらくして出戻ったのだ、
常日頃から俺と紅夜兄さんを妬んでいるが、最近は新田にも被害が及んでいるのか、とため息をついた。
「そんなことはどうでもいいけど、龍様と乞田執事長とやりたかったな~」
橋本は花火でちらちらと見える寂しい笑みを浮かべて言うと、新田は微笑んで橋本の方を見たが、170cm程の滝本が花火を持ったまま立ち上がり、
「お前のせいだろ!?」
と、あろうことか橋本に赤色の手持ち花火を向け、余程癪に障ったのか橋本に掴みかかろうともしている。
だが立ち上がった橋本はまず滝本から手持ち花火を引ったくり、自分の青色の手持ち花火と共に水の入ったバケツに放りこんだ。
新田も緑色の花火を放り込み、2人の間に立って宥めようとしている。
「お前こそ……自分の理念通りに行動する乞田執事長に、嫉妬心丸出しだっただろ」
菅野と変わらない程身長のある橋本は新田に取り押さえられながらも、かなり苛立っているのか夜の闇でも分かる程身体を捩っている。
……橋本、お前……なんだかんだ言って尊敬しているのか。
「あぁ!?」
滝本はその一言に激高し、取り押さえられているのを良いことに橋本の顔面を殴ろうとしたので、草陰からひょいと出て行くと、
「龍様がいらっしゃっています!!」
と、新田が両者の顔を交互に見ながら叫んだため、2人はすぐに新田の隣に控えた。
橋本は息を切らしもせずに平然としているが、滝本は怒りが収まらないのか肩で息をしている。
俺は流石に全部聞いていた、とは言いづらい為、今来たところだと説明すると、
「龍様!! 橋本執事長は、この地位が欲しくて乞田元執事長を殺したんです!!」
と、滝本が再び怒りを爆発させて橋本を指差し叫ぶが、橋本はため息をひとつつき、
「俺が乞田執事長を殺すと思います?」
と、呆れた表情で言うため、猛犬さながらに掴みかかろうとすると新田に取り押さえられる。
だが勢いは止まらず、
「元、執事長だ! 元をつけろ!!」
と、執事らしからぬ暴言を吐く。
それでも橋本は関節をポキと鳴らしながら首をぐるりと回し、
「乞田執事長以外に、龍様に相応しい執事長は居ません。ですから今でも俺は、龍様の執事長代理を名乗ってますし……本当に、あの人以外……考えられませんね」
と、はっきりとは見えずとも瞳から伺える意志の強さに、一瞬思考停止になりかけてしまった。
そこまで俺と乞田に忠義を……。
今までも垣間見えてはいたが、はっきりと口にすることもなかったため、こうして言われてみると感無量である。
「馬鹿馬鹿しい」
滝本はすぐそう切り捨てるが、
「あーそれなら、俺が透理様の執事長をやっちゃったら?」
と、橋本が鎌をかけてやれば、
「私以外には有り得ません!!」
と、顔を真っ赤にして叫ぶ滝本。
怒りによって分かりやすくなった反応に、新田は深く頷きながら、
「一緒ですか」
と、呟く。
すると滝本は透理兄さんに対する思いが溢れたのか、目元を袖で拭いながら、
「いくら噛まれようと、血を……吸われようとあの方を理解し、ずっと……傍に、仕えるのも私。ひとりぼっちにさせないのも、支えるのも……」
と、言葉に詰まりながら言葉を零し始めた滝本に、橋本は何とも言えない表情で、
「立派じゃないですか」
と、感心したようにも聞こえる声色で言う。
だからこそ俺も微笑みながら頷き、
「あぁたしかに大したものだ。だが1つ道を外したとすれば、乞田を嫉妬するあまり自分も嫉妬の虜になったことだ。それが兄さんをあんな姿にさせたり、滝本が噛まれるという事態に繋がったことは分かってくれるか?」
と、一押ししてみれば、滝本はあからさまに眉を下げ、
「大変申し訳ございません」
と、心からの謝罪を述べた。
新田は滝本の素直な姿にたいそう驚いていたが、橋本はどうでも良さそうに花火カスで遊んでいる。
俺は2人の顔を順番に見比べ、
「新田や橋本程度の干渉具合が丁度良いが、心配なら1度思い切り突き放してみればいい」
と、自身の経験則から話してみれば、滝本は懐疑的な目線を向けつつも、
「……つ、つきはなす……ですか?」
と、メモ帳を取り出して書き込みながら言う。
「あぁ。突き放してどんな行動を取るかなぞ、本人のことが本当に心配なら出来るだろう?」
俺が3人の顔を見遣って言うと、橋本は自然にウィンクをしてみせた。
一歩前に出た新田もメモ片手に目を輝かせ、
「勉強になります! もし異動になった際は、是非役立たせていただきます」
と、そのまま握手を求められそうな程近づかれたが、橋本がそれを手で制しつつ、
「当主を次に譲る時って、何十年も先ですよね。気が早いなぁ」
と、頭を軽く振って呟く。
紅夜兄さんの次の当主……考えただけでも頭が痛い。
というのも、何も無ければ……別館に隔離されている”色欲”の瀧汰兄さんだ。
これは先が思いやられるな……。
さて、乞田執事長はお察しの通り後鳥羽家を去っている。
何故去ったのか……彼の今までの功績に対する評価は如何に……など、話したいことは沢山あるが、どれも後鳥羽家の歴史としては、決して遺ることのない話である。
2012年6月16日 夜(天気:雨)
後鳥羽家 自室
後鳥羽 龍
この日、俺は初めて身近に居る人が自分の前から姿を消す恐怖、失望感、絶望感を本当の意味で知った。
いつも笑っていて、いつも何かで俺と橋本を怒って、俺の事で泣いて、俺の事で喜んで、執事たちが良いことをすれば自分のことのように喜ぶ。
それから七つの大罪狂育への反逆の狼煙を決して絶やさなかったのに、ある程度の執事と俺を含めた主人を味方につけ、燃え尽きるまで戦い続けたリーダー的存在。
……もはや言葉では言い尽くせない程世話になり、当たり前のように一緒に居た人。
初恋の相手であり、諦めて橋本を好きになったら、そんな俺を好きになった……何かとタイミングの悪い人。
それでも橋本を蹴落としたりせず、断った後であっても態度を変えることなく、その人は俺に笑顔を振りまいていた。
――ずっと――これからも、きっと。
1週間前。
その日は丁度土曜日で、いつも通り週1ペース実家に帰っている日であった。
だがその日からその人の様子はおかしくて、やたらかしこまって俺を出迎えた。
いつもなら、犬さながらに尻尾を振って喜んでくれるのに。
そのうえ肌艶の良い肌が自慢な筈なのに、1週間前よりも大分やつれている。
どうしたのか?
それから自室に入り、2人にするよう他の執事に言いつけると、その人は突然こう言い出した。
「1度でいいです……龍様と、キスしてみたいんです!」
その一言に呆気に取られ、何も言えずにいると更に、
「ほ、ほら! キスもしたことない男に女性は寄ってきませんし……あ、でもそれなら、女性の方がいいんですかね……いえ、やはり龍様とがいいです!」
と、未だに状況が呑み込めないことを良いことに、乞田は目を閉じてすらいない俺と唇を重ねた。
これを父上様に言えば、勿論乞田はたぶらかした罪で処刑となるだろう。
だがそんなことをする訳がないうえに、俺は目を閉じて乞田を受け入れた。
しばらくそうしていると、乞田は鼻呼吸をしていなかったらしく苦しそうに唇を離し、
「……」
無言で息を整え、温もりのある自身の唇を指でなぞり、安堵の笑みを浮かべた。
その仕草に俺は心配の気持ちから薄気味悪いものに変わってしまい、御手洗に立つことにした。
そのときに透理兄さんの執事長の滝本を含めた5人の執事たちは、乞田のことを個室に入った俺に聞こえるように話し始めた。
「父上様からあんなに監視されれば、やつれますよね~」
「まぁ、私たちもなるべく1人を狙って悪口を言ってやってますけどね」
「透理様からも言われたらしいですよ。消えろって」
「うわぁ……キツイ。橋本の居ない時に言わないと、あいつ面倒ですから」
「な! 父上様からも何度も呼び出されては帰されているらしいし、もうそろそろだな。首吊りまで」
「自分の槍で喉斬るんですかね!?」
と、4人が好き勝手に言うと、滝本は大声で笑いながら、
「それはないな! あの槍は一時期龍様も使っていたうえに、そもそも耀夜様の形見だ! 首吊りか飛び降りだな!」
と、御手洗から出て行きながら言うので、ここを逃がすまいと思った俺は個室から出ていき、
「父上様はどう思われるかな?」
と、ポケットサイズの録音機を軽く振りながら言うと、5人はたちまち狼狽し始めた。
「も、もう、二度としませんから! しませんから!!」
滝本は恐怖か何かで突然泣き叫び、他の4人の執事も悪党の手下さながらに尻尾を巻いて逃げた。
滝本たちは俺に泣いて欲しかったのだろうか?
それとも録音させて、自分たちの改心でも狙ったのか?
ふっ……そこまで回る頭ではない。
やはり、小学生のごとく個室で泣いて欲しかったに違いない。
その手段が通じるのは、中学生までとも知らず……よく大人相手にやったものだ。
褒めて遣わそうか?
俺は皮肉を込めた笑顔を向けて滝本たちを送り出し、自室に戻るまでにジャケットのポケットに隠すと、早速未だに床に座り込んで唇を擦る乞田の胸倉を掴んで立たせた。
「先程御手洗で乞田の現状を聞いた。……お前の主人は誰だ?」
俺の真剣な表情の問いに、乞田は虚ろな目から普段の目の色に戻り、
「……龍様です」
と、力なく返す返事からは、生気を感じなかった。
どうやら気恥ずかしさや、無理な行動を起こすことを危惧して橋本にも言えず、1人で抱え込んでいたようで、俺が実家に帰る度に無理して笑顔を振りまいていたようだった。
そのうえ、陰湿な執事同士のいじめに父上様からの無駄な呼び出し……。
これは以前からあったようだが、酷くなったのは透理兄さんが出戻ってからだという。
理由は反逆者であることが1番だろう、と本人もか細い声で答えた。
「……分かった。しばらく後鳥羽家に居ることにするから、橋本に訳を話して……俺の部屋で寝泊まりする許可を貰う。そうすれば、ずっと俺と一緒だ」
と、唆した罪で乞田が処刑されかねないので父上様に直訴するというリスクは避け、肩をポンポンと叩いて穏やかな口調で諭した。
いきなり休みを取るとなると、最悪依頼人を裏切ることになるが……幸いにもここ1週間は訓練週間にしていたため、藍竜総長に電話で連絡を入れておいた。
しばらくして電話を切ると、乞田は渾身の力で抱き着いて泣きじゃくった。
「うっ……うぅ…………龍様……っ……ばびがどうござぎまず……!!」
おそらく最後の言葉は、「ありがとうございます」だろうが、当時の俺は微笑んで流してしまっていた。
3日前。
おじじ様の容態が急変し、あともって3日ではないか、という噂が家中を這いずり回った。
この頃になると乞田も大分体調が良くなったようで、俺と共に積極的に看病担当に手を挙げた。
「必ず良くなりますからね……良くなりますからね……」
そう呟きながらおじじ様の汗を拭く乞田は、誰にも出せぬ説得力を感じた。
俺も乞田の姿に感心を寄せながらもお身体を拭くのを手伝い、橋本もどこか安心したような様子であった。
するとおじじ様は不意に目を覚まし、額のあたりを拭いている乞田を捉え、
「……ありがとう……」
と、掠れてはいたものの、はっきりとした発音で紡がれた言葉に、乞田は無意識に手を止めた。
だが徐々に瞬きも忘れて震えだす手に気付き、俺が優しく握って頬を濡らしている乞田と頷き合うと、
「……大きくなったな……龍」
と、おじじ様は動かなくなってきた腕を上げ、俺の腕を強く掴んでトントンと優しく叩いた。
それだけで、おじじ様がどれほど感動なさっているかが分かる程……優しく。
「はい」
俺は短くとも、息をゆっくりと吸って感謝の思いを込めて返事をし、橋本の方を見遣ると儚い表情をしていた。
その理由は未だに分かっていない。
ただ、訊くタイミングを逃しているだけなのだが…………それでも知りたくないとも思っている自分も居る。
当日。
おじじ様の危篤と聞き、俺も含めた全員が部屋に集まることとなったとき、乞田は死に顔を見たくないからと意固地になっていた。
「嫌です! ……怖いですし、お亡くなりになる瞬間なんて……見られません!」
乞田は俺がいくら引っ張っても嫌がり、橋本は見かねて先に行くと言い残して走って行った。
「……乞田」
俺が優しく呼びかけても、首を横に振って断固として動かない乞田。
それなら仕方ないと、留守番を言いつけて部屋を後にすると、部屋には既に全員集まっていた。
そのまま誰もが祈りながら何時間も何時間も飲食もせずにいると、医者が患者を含めた全員に食事を持ってくるよう指示を出した。
それでもおじじ様以外は、なかなか食事をしようともせず、泣き出す執事まで出てきていた。
だが医者は一緒に戦うためにも、と声を張り上げて説得し、結局全員食事をすることとなった。
そのときに違和感が生じた。
誰かと誰かがいない。
1人はもちろん留守番をさせている乞田だが、もう1人は一体?
俺はシェフが2人分余っていると呼びかけているときに、全員の表情を確認しようとしたが、どうにも顔を覆う人物が多いせいか特定はかなり難しかった。
俺はとりあえず乞田の分の食事を受け取り、紅夜兄さんと新田執事長に声をかけ先に退室した。
もうそろそろ腹を空かせている頃だ。
……今日のメニューはハンバーグ。デミグラスソース……乞田が好きなメニューだ。
偶然とは言え嬉しい。
あぁ、これで少しでも元気を出して欲しい。
心の中に出来た余裕に喜びつつ自室のドアノブに手をかけようとしたときに、俺は妙な空気感を悟った。
これは仕事をしている時に感じる嫌な……人の死に際の空気。
まさか俺が看取らなかったばっかりにおじじ様が先だったのでは、と慌てる反面……このドアノブを回さねばならない、という使命感に駆られ、ゆっくりとノブを回した。
そのあとの正確な記憶は無いが、今残っている記憶で話すとする。
乞田は何者かに大型の武器、または多量出血を促す薬品が塗られた小型武器で背中から刺され、うつ伏せに倒れていた。
出血量はかなり多く、早く手当てしないと失血死してしまう程であった。
俺はハンバーグを乞田の側に置き、恐怖で手が震えていながらも乞田の傷の具合を確かめながら呼びかけ続けた。
「乞田!! 乞田!! 返事をしてくれ!!」
と、スマフォを耳に当てコールを待つ間に、何度も何度も大声で呼びかけた。
そしてようやく繋がった救急隊員に事情、傷の具合と場所を説明し、すぐ来るように早口で言うと、通話終了ボタンをタップしたいのに、まるで指が使いものにならない程震えていた。
「……乞田……頼むから……1人にしないでくれ……」
俺はこみあげてくる涙をぐっと堪え、乞田の肩を優しく叩いていると、突然ゲホッゲホッと苦しそうな咳が耳に劈き、思わずバッと顔を上げた。
乞田はもう死期を悟った顔をしており、その表情からもう長くないことは察してしまっていた。
「何を……仰られます、か……。私は……龍様の執事長……。こ、この傷も……あなたを……貴方様を、お、ま、もり、した……証……で――」
「喋るな、傷が開くから……!」
俺はあの時泣いていただろうか。
記憶に無いほど、乞田を助けるのに必死だった。
「守った証……なら、本当は俺が……」
そうして現役の殺し屋だからこそ自己嫌悪になりかけてしまう俺に、乞田は痛みで苦しいだろうに精一杯の笑顔を見せ、
「いえ……。私乞田……龍様をお守りできて……幸せ…………す」
と、卑怯な手法で乞田を手に掛けた犯人のことなど忘れ、俺の為に言葉を紡ぐ乞田の姿がだんだんぼやけてきていた。
すると乞田は俺の頭をぎこちなく撫で、
「はん……にんは…………せ、い……。あ……もっ……龍様と……」
と、虚ろになってきた目でハンバーグを捉え、青くなっていく唇で最期に、「一緒に生きたかった」と、反逆者としての覚悟の笑みを表情筋を無理に動かして見せ、そのまま眠るように息を引き取った。
「……ありがとう、大好きだ……乞田」
俺は人間が息を引き取っても、耳だけはしばらく生きているという話をおじじ様から聞いていたため、最期にそう言葉を贈った。
すると……気のせいなのは分かっているが、乞田が僅かに微笑んでいたのだ。
救急隊員が駆け付けたのは、無情にもそれから数秒も経たないうちであった。
だが俺は怒りをぶつけたりせず、救急車に一緒に乗るように促されて……顔に布を被せられた乞田に泣く暇も、楽しかった思い出を振り返ることも出来ずに、事件性があると判断されてからは……あちこちに引きずり回され、事情を察して話しかけてくれたけーちゃんに指紋の提出だけはしないと跳ね付け、警察署をそそくさと後にした。
俺は警察署を出てすぐに実家に戻り、自室に戻ってベッドに突っ伏したときに初めて…………狂育を正そうと奮起し、生涯を俺と後鳥羽家の革新に捧げた1人の執事との思い出を振り返ることが出来た。
それと同時に……絶対に犯人に謝らせることを決意し、執事のありとあらゆることが載っている乞田お気に入りの本を借り、「せい」がどこかしらに付く人物を探した。
だが誰1人としてそんな人物は居らず、俺は図書館前で待たせていた橋本を呼んで訊いてみると、
「あぁそれですか、偽名でも出来るんですよ。……まぁ、その……1人だけ偽名を使っている人物を知ってはいますけど、龍様をこれ以上悲しませる訳にはいきませんので言いません」
と、3日前の看病の時のように儚い表情をする橋本に、俺は偽名で登録できる驚きよりも思考の方向がそちらへと向いた。
……言えば死ぬ。そう言いたいのは分かる。
だがここで言わせてしまえば、橋本の身に何が起こるか……。
まだ何も分かっていない状態で言わせるのは、かなり危険だ。
俺は何も犯人を取って捕まえて殺したい為に探しているのではない。
……一言、謝ってほしいから探すのだ。
そこは絶対に踏み外してはならない。
俺はそう自分に言い聞かせ、雨音が木霊する図書室で乞田が今まで読んだ本を全て買い取ると司書に申し出た。
――優太さんが亡くなったあの夜も、こんな大雨だった……。
どうして俺の恩人は皆、殺されなければならないんだ……。
俺の自問は、自答も出来ずに雨音に掻き消されるだけであった――
現在に戻る……
絶対に歴史に遺らない話の背表紙を閉じると、新田は必ず主人に伝えると言い残してその場を去り、滝本は俺のせいではない、と尻尾を巻いて逃げた。
だがあの後ろ姿からは……後悔が垣間見えた。
対する橋本は俺の目を強い意志で見据え、真剣な表情で頷いてみせ、そのまま執事寮へと戻って行った。
俺はそれを見計らい、墓場の方まで歩いていき、
「乞田……必ずお前の無念を晴らすからな。待っていてほしい」
と、呟いてみると、くぐもった笑い声が2つ。
「私は幸せ者ですね。こうして御主人様に思い出していただいて、弟のように犯人を捜してくださって……本当に嬉しい限りです」
乞田は背後から刺され、顔を一瞬見た程度だとしても……それでも分かるのならば……付き合いは長い人物だろう。
「ありがとうね、裾野くん。兄さんも喜んでいるから、こっちのことは気にしないで頑張ってね! ただこっちの世界に来ちゃっただけで、ずっと裾野くんのことを応援しているんだから」
優太さんは藤堂さんに殺されたことを暴かれたのだから、俺は恨まれても良いくらいだが、透き通るような笑みを見せて激励の言葉を贈った。
……故人の言葉を聞けることに関しては、霊感が高いことに感謝するべきだが……絶対に答えを言わないでいてくださる御二方にも感謝をしなければならない。
俺は録音停止ボタンを押し、あの時と同じようにジャケットの内ポケットにしまった。
その録音機の裏には、2002年6月18日購入と書かれていた。
執事長の乞田です。
こうしてコメントを残しているのも、半透明の身体で打っていたんですよ!
驚かれましたか?
……冷めましたか、申し訳ございません。
暑いので、寒いギャグをと……。
ようやく私の荷が下りたような、そんな気がいたします。
ここだけのお話、橋本の言葉に書いている作者の後ろで号泣しておりました……。
橋本は中々言葉にしてくれませんからね。
ああやって言っていただけると、本当に嬉しくてですね……。
執事をやっていて良かった、と心から思えます。
明日、33話を更新とのことですので……是非ともお楽しみに!!
それでは良い週末を。
執事長 乞田光司




