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第九十六話「零下の沈黙」

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第九十六話「零下の沈黙」

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 小林が普段より厚手の作業着を着込んで現れたのは、朝の点検が終わった直後だった。手に図面を持っていた。


「親方、昨日のうちに調べました。氷室への正面ルートは十年前の天井崩落で塞がっています。だが、機兵の残骸が積み重なったエリアを抜ければ、安全に行けるはずです」


 図面を受け取った。確かに正確だ。自分で調べた痕跡がある。


「自分で調べたのか」


「はい。親方に、現場へ行く前には必ず調べろと言われていますから」


「いい心がけだ。行くぞ。ただし一つだけ言っておく。昨日のE-12区画よりタチが悪い。熱は防護服で遮れる。だが冷気は違う。どんなに着込んでも、芯まで冷える」



 第七層北東端。崩落を迂回する脇道を抜けると、空気が変わった。


 変わった、という言葉では足りない。空気が刃になった。吸い込むたびに、肺の中まで切り取られるような鋭さがある。


 ヘッドライトの光が、無数の氷柱を照らした。天井から鋭く垂れ下がる氷柱が、非常灯の赤い光を屈折させ、空間全体を紅く染めていた。その紅い静寂の中に、機兵たちが佇んでいた。


 旧式の大型機兵が、それぞれ最後の姿勢のまま凍りついている。片膝をつく者。腕を前に突き出す者。全員が氷の鎧を身につけ、計器類がかすかに発する光が氷の内側から漏れていた。


「親方、ここ、息が凍ります」


 小林の吐く息が、白い結晶となって広がり、そのまま霜となって作業着の襟元に積もっていった。


「無理をするな。手が動かなくなったら、脇の下に挟んで温めろ。寒さで慌てると判断を誤る」



「メイ。状況を確認する」


「渉さ……ん。低温の影響で……バッテリー消耗。音声解析……遅延……警告……」


 メイの声が途切れ途切れになった。電子機器は寒さに弱い。それでも最低限の情報は届いている。


「メイ、無理に解析しなくていい。生命維持に必要なデータだけ送れ」


「了解……現在気温……零下十二度……安全滞在時間……三十分……以内……」


「わかった」



 小林が足を止めた。


 防寒手袋を外しかけた。機兵の装甲の表面を確かめようとしているのだとわかった。


「馬鹿野郎」


 その手を掴んだ。


「氷点下の金属に素手で触れれば、皮膚が貼り付く。無理に引き剥がせば、皮膚の表面が持っていかれるぞ」


「申し訳ございません」


「謝らなくていい。知らなければ間違える。知ったから、次はやらない。それでいい」



 小林の歩みが遅くなり始めたのは、二十分ほど経った頃だった。


 指先の感覚から痛みが消え、しびれになり、そのしびれすら感じなくなっていく段階に入っていた。思考も鈍い。


「親方……少し、休んでもいいですか」


「駄目だ。止まれば死ぬぞ。手を動かし続けろ」


「しかし……」


「指を開いて閉じる動作を繰り返せ。腕全体を振れ。足踏みもやめるな。体温は動きで生み出す。止まった瞬間に奪われる一方になる」


 小林が、震える手で指を開いては閉じた。ぎこちない動きだったが、やっている。


「そうだ。動き続けろ。現場では止まることが一番の敵だ。先代も、品川の解体現場で冬の夜明け前に作業していた時、同じことを言っていた」


「先代も……このような現場で」


「そうだ。熱い現場も、寒い現場も、先代はすべて経験していた。だから俺たちが今いる場所も、先代が想定して準備していた。安心しろ」



 奥に、ひときわ大きな機兵の残骸があった。


 他の機兵より一回り大きい。胸部に指揮官機の古い紋章が刻まれている。片膝をつき、両腕で何かを抱え込むような姿勢で凍りついていた。


「あれだ」


 指揮官機の前に立った。ヘッドライトで腕の内側を照らした。氷の下に、かすかな金属光沢がある。「MP-09-KEY-2」の刻印が見えた。


 機兵の装甲に、指先でそっと触れた。防寒手袋越しにも、金属の冷たさが伝わった。氷の下に先代の修理の痕跡がある。慣れた手つきだ。先代がこの機兵を直接調整していたことがわかった。


「あんたが守ろうとしたものは、俺たちに必要なものだ。悪く思うな」


 小声で言った。小林には聞こえなかったかもしれない。それでいい。



 工具バッグから超音波スクレーパーとゴムハンマーを出した。


「親方、熱で溶かすのではないのですか」


「熱で溶かしたら、急激な温度変化で鍵が歪む。それに水が機兵の内部に入り込んで、機構を壊す。氷を剥がすのに一番安全なのは、熱じゃない。振動だ」


 スクレーパーを氷の表面に当て、微細な振動を与えた。氷の結晶構造に伝わって、内部に小さな亀裂を生じさせる。氷は溶けるのではなく砕けることで、層ごとに剥がれていく。


「解体屋をやっていると、鉄筋コンクリートを壊す時に同じことをやる。コンクリートを熱で溶かす奴はいない。振動で内部から亀裂を入れて、少しずつ剥がすんだ。氷も同じだ」


 外周に亀裂を入れた後、ゴムハンマーで軽く叩いた。叩く位置、強さ、角度。すべて長年の経験から導き出す。


 パキン、という音が一つ鳴った。氷が層ごと剥がれ落ちた。


 下からシリンダー状の金属容器が現れた。



 封印を外し、蓋を開けた。


 中から精密なバネが出てきた。特殊合金でできている。表面に肉眼では読めないほど細かい刻印が施されている。


「歯車と、バネか」


「時計みたいですね」


「時計仕掛けか、それとも別の何かの発条か。まだわからん。だが、これで二つ目だ。残るは第六層の最も深い場所に隠された三つ目だ」


 バネを容器に戻し、内ポケットにしまった。


 指揮官機を振り返った。鍵を手放したその姿は、何も変わっていなかった。片膝をつき、腕を広げたまま凍りついている。任務を終えた後も、そのまま静かに佇んでいた。


「あんたの仕事は終わった。あとは俺たちが引き継ぐ。ゆっくり休め」



 来た道を戻り始めた。


 小林が横に並んだ。指を開いて閉じる動作を繰り返しながら歩いている。さっきより動きがなめらかになっていた。


「親方、機兵に話しかけていましたよね」


「そうか」


「機兵は機械ではないのですか」


「機械だ。だが、先代が手を入れた機械だ。先代の仕事の跡がある以上、俺には先代の仕事仲間に見える」


 小林がしばらく黙った後、言った。


「俺も、いつかそのような目で現場が見えるようになりますか」


「なる。時間がかかるだけだ」



 第八層に戻った。


 コア室に入ると、炉の唸りが体に馴染んだ。第七層の冷気がゆっくりと体から抜けていくのを感じた。


 手帳を開いた。今日の日付を書いた。


「第七層氷室探索。指揮官機残骸の腕部内側にMP-09-KEY-2を発見。精密バネ。第二の鍵、確保。残り一つ。第六層の最も深い場所」


 その下に一行書いた。


「小林、足を止めなかった」


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           〈第九十六話 了〉

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【次話予告】

 第六層の最も深い場所。

 メイが調べた結果では、記録にない縦穴があるという。

 第六層の独立観測装置が発見された区画のさらに奥。

「親方、ここ、また先代が関わっていますよね」

「たぶんな」

 渉はヘッドライトで縦穴の底を照らした。

 光が届かなかった。



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【あとがき】

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 第九十六話、お読みいただきありがとうございました。


 「止まれば死ぬぞ。手を動かし続けろ」という渉の鼓舞が、この話の核心です。現場では止まることが最大の危険だという職人の経験則を、極寒の状況の中で伝えました。説明ではなく命令として言う。それが渉の師弟への関わり方です。


 指揮官機への渉のモノローグは三回に分けました。「悪く思うな」で任務の代わりを告げ、「引き継ぐ」で継承を宣言し、「ゆっくり休め」で解放する。言葉は短いですが、渉の機械への敬意がこもっています。


 振動で氷を剥がす技術は、実際の工学原理に基づいています。超音波振動によって氷の結晶構造に亀裂を生じさせ、熱を使わずに剥離させる方法は、精密部品の取り出しに現実でも用いられます。渉が「コンクリートも同じだ」と言う場面で、解体屋の経験と今の仕事が直結していることが示されています。


 「小林、足を止めなかった」という手帳の最後の一行。渉は滅多に人を評価しません。しかしこのような形で、記録として残す。それが渉の弟子への信頼の表し方です。


                   (作者)

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