第六十話「職人の最終点検」
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第六十話「職人の最終点検」
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同期が完了したのは、開始から三十八分後だった。
「同期完了。圧力差、ゼロ」とメイが静かに言った。
装置のインジケーターが全点灯した。
第八層全体の振動が、少しずつ落ち着いていった。
渉はレバーから手を離した。
「田中、聞こえますか」
「聞こえてる……終わったの?」
「地下側は完了しました。そちらはどうですか」
「スイッチが……なんか自動で元の位置に戻った。振動も止まった」
「完了です。手を離してください」
「……離した。手がしびれた」
「お疲れさまでした」
◆
ゴールドが「帰還装置、連動確認。起動可能状態に移行」と言った。
渉は工房の棚に置いてきた品川ナンバーを頭に浮かべた。
帰れる。
その事実が、静かに渉の中に降りてきた。
「渉さん」とメイが言った。
「なんですか」
「帰還装置のメーターが動いています。見てください」
渉はゴールドが管理している帰還装置の端末を見た。
数値が「0.0」を指していた。
ゼロ。
起動条件が、全て満たされた状態だ。
◆
勇馬が渉の横顔を見ていた。
何も言わなかった。
メイも、ゴールドも、静かにしていた。
渉はメーターを見た。
それから調整装置を見た。
四十八本のボルトを外した後。
端子を清掃した後。
「……戻り油の数値が安定していない」
渉は言った。
「え?」とメイが聞いた。
「調整装置の内部。油圧系の数値が、まだ安定していません。このまま帰還装置を起動すると、同期が途中で乱れる可能性があります」
「数値を見てもらえますか」
メイが確認した。
「……確かに微振動があります。でもこれは許容範囲内では……」
「俺の感覚では、許容範囲外です」
渉はバッグから工具を出した。
「微調整します」
◆
それから一時間、渉は装置の内部を調整し続けた。
油圧系の一か所に、わずかなガタがあった。
ネジ一本の緩みだった。
カチッ。
締まった。
「もう一度確認してください」と渉がメイに言った。
メイが計測した。
「……安定しました。微振動、消えました」
「よし」
◆
渉は道具を仕舞った。
インパクトレンチ。バール。ノギス。スピンナハンドル。ガストーチ。
一つずつ、丁寧にウエスで拭いた。
汚れを落とした。
定位置に収めた。
勇馬が横で黙って見ていた。
メイも、ゴールドも、黙っていた。
渉の手が、いつもの手入れと同じテンポで動いていた。
違うのは、今日だけは少しゆっくりだということだった。
◆
第八層から地上に戻ると、管理センターの前にリーニャが立っていた。
コーヒーを二杯持っていた。
「……聞きました。終わったそうですね」
「同期は完了しました」
リーニャが一杯を渉に差し出した。
渉は受け取った。
「帰れるんですか」
「帰れます」
リーニャが隣に座った。
何も言わなかった。
コーヒーを飲んだ。
渉も飲んだ。
◆
しばらくして、渉は工房に戻った。
棚の品川ナンバーを手に取った。
品川 530 あ 12-34。
先代の工場のプレート。
先代が触ったはずのプレート。
渉はウエスで一度拭いた。
その後、工房の中心に持っていった。
作業台の上に置いた。
正面から見える位置に。
◆
翌朝。
渉は全員を集めた。
リーニャ、メイ、フィオナ、勇馬、ゴールド、田所。
「帰還装置を起動できる状態になりました」と渉は言った。
「それで……」とリーニャが聞いた。「使いますか」
渉はしばらく考えた。
「使います。ただし、もう一度確認したいことがあります」
「確認?」
「帰還装置を起動した後、ダンジョン側の何かに影響が出ないかの最終確認です。先代の設計では問題ないはずですが、俺の目で一度見たい」
「それが終わったら……」
「その時に決めます」
◆
夜、渉はスマートフォンを取り出した。
田中に電話した。
「もしもし、田中。今夜、空いてますか」
「空いてる。ていうか待ってた。どうだった?」
「同期、完了しました」
田中が少し間を置いた。
「……そうか」
「田中のおかげです」
「俺は手を震わせながらスイッチ倒しただけだよ」
「それが必要だったんです」
◆
また少し間があった。
「佐藤さん」
「なんですか」
「帰ってくる?」
渉は少し考えた。
「最終確認が終わってから決めます」
「……でも、帰れるようになったんだよな」
「そうです」
「良かった」と田中は言った。「……本当に良かった」
渉は答えなかった。
しばらく、電話を持ったまま、工房の棚のナンバープレートを見ていた。
「田中、焼き肉の約束はまだ有効ですか」
「もちろん」
「じゃあ近いうちに」
「向こうに帰ってきたら、二人で行こう」
「そうします」
渉は電話を切った。
工具箱を閉めた。
工房の灯りを消した。
外に出た。
夜の空に、いつものように星が見えた。
品川の空と、同じ空だ。
薄い膜一枚を挟んだだけの、同じ空だ。
渉はしばらく空を見てから、工房に戻った。
道具の最終点検を、もう一度だけした。
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〈第六十話 了〉
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【次話予告】
最終確認のために第八層へ降りた渉が、予想外のものを見つけた。
ダンジョンのコアが、かすかに変化していた。
「……これは、帰還装置の起動で消えるのか?」
ゴールドが静かに答えた。
「消えます。我も含めて」
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【あとがき・第六十話特別版】
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第六十話、最後までお読みいただき、ありがとうございました。
「戻り油の数値が安定していない」という渉の一言は、帰還を一時間引き延ばすためのセリフではありません。本当に、渉にはそれが気になった。帰れるとわかった瞬間にも、渉は現場から目を離さない。それが彼の性分です。
道具を一つずつ拭いてしまうシーン。この作業は、この現場での「一区切り」を意味しています。渉が何かを終わらせる時、道具を拭く。整備士にとって、道具の手入れは仕事の始まりであり、終わりでもある。
リーニャがコーヒーを持って待っていた。何も聞かずに差し出した。言葉より、その行動が彼女の気持ちのすべてを語っていると思います。
田中の「良かった。本当に良かった」という言葉は、二十年間一緒に働いた人間の言葉です。渉が帰ってこられることを、自分のことのように喜んでいる。
しかし次話、最終確認で渉は重大なことを知ります。帰還装置を起動すれば、ゴールドが消える。ダンジョンのコアが消える。それを知った上で、渉はどう動くか。第二部の核心が、ここから始まります。
引き続き、佐藤渉の現場にお付き合いいただければ幸いです。
(作者)




