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第六十話「職人の最終点検」

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第六十話「職人の最終点検」

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 同期が完了したのは、開始から三十八分後だった。


「同期完了。圧力差、ゼロ」とメイが静かに言った。


 装置のインジケーターが全点灯した。


 第八層全体の振動が、少しずつ落ち着いていった。


 渉はレバーから手を離した。


「田中、聞こえますか」


「聞こえてる……終わったの?」


「地下側は完了しました。そちらはどうですか」


「スイッチが……なんか自動で元の位置に戻った。振動も止まった」


「完了です。手を離してください」


「……離した。手がしびれた」


「お疲れさまでした」



 ゴールドが「帰還装置、連動確認。起動可能状態に移行」と言った。


 渉は工房の棚に置いてきた品川ナンバーを頭に浮かべた。


 帰れる。


 その事実が、静かに渉の中に降りてきた。


「渉さん」とメイが言った。


「なんですか」


「帰還装置のメーターが動いています。見てください」


 渉はゴールドが管理している帰還装置の端末を見た。


 数値が「0.0」を指していた。


 ゼロ。


 起動条件が、全て満たされた状態だ。



 勇馬が渉の横顔を見ていた。


 何も言わなかった。


 メイも、ゴールドも、静かにしていた。


 渉はメーターを見た。


 それから調整装置を見た。


 四十八本のボルトを外した後。


 端子を清掃した後。


「……戻り油の数値が安定していない」


 渉は言った。


「え?」とメイが聞いた。


「調整装置の内部。油圧系の数値が、まだ安定していません。このまま帰還装置を起動すると、同期が途中で乱れる可能性があります」


「数値を見てもらえますか」


 メイが確認した。


「……確かに微振動があります。でもこれは許容範囲内では……」


「俺の感覚では、許容範囲外です」


 渉はバッグから工具を出した。


「微調整します」



 それから一時間、渉は装置の内部を調整し続けた。


 油圧系の一か所に、わずかなガタがあった。


 ネジ一本の緩みだった。


 カチッ。


 締まった。


「もう一度確認してください」と渉がメイに言った。


 メイが計測した。


「……安定しました。微振動、消えました」


「よし」



 渉は道具を仕舞った。


 インパクトレンチ。バール。ノギス。スピンナハンドル。ガストーチ。


 一つずつ、丁寧にウエスで拭いた。


 汚れを落とした。


 定位置に収めた。


 勇馬が横で黙って見ていた。


 メイも、ゴールドも、黙っていた。


 渉の手が、いつもの手入れと同じテンポで動いていた。


 違うのは、今日だけは少しゆっくりだということだった。



 第八層から地上に戻ると、管理センターの前にリーニャが立っていた。


 コーヒーを二杯持っていた。


「……聞きました。終わったそうですね」


「同期は完了しました」


 リーニャが一杯を渉に差し出した。


 渉は受け取った。


「帰れるんですか」


「帰れます」


 リーニャが隣に座った。


 何も言わなかった。


 コーヒーを飲んだ。


 渉も飲んだ。



 しばらくして、渉は工房に戻った。


 棚の品川ナンバーを手に取った。


 品川 530 あ 12-34。


 先代の工場のプレート。


 先代が触ったはずのプレート。


 渉はウエスで一度拭いた。


 その後、工房の中心に持っていった。


 作業台の上に置いた。


 正面から見える位置に。



 翌朝。


 渉は全員を集めた。


 リーニャ、メイ、フィオナ、勇馬、ゴールド、田所。


「帰還装置を起動できる状態になりました」と渉は言った。


「それで……」とリーニャが聞いた。「使いますか」


 渉はしばらく考えた。


「使います。ただし、もう一度確認したいことがあります」


「確認?」


「帰還装置を起動した後、ダンジョン側の何かに影響が出ないかの最終確認です。先代の設計では問題ないはずですが、俺の目で一度見たい」


「それが終わったら……」


「その時に決めます」



 夜、渉はスマートフォンを取り出した。


 田中に電話した。


「もしもし、田中。今夜、空いてますか」


「空いてる。ていうか待ってた。どうだった?」


「同期、完了しました」


 田中が少し間を置いた。


「……そうか」


「田中のおかげです」


「俺は手を震わせながらスイッチ倒しただけだよ」


「それが必要だったんです」



 また少し間があった。


「佐藤さん」


「なんですか」


「帰ってくる?」


 渉は少し考えた。


「最終確認が終わってから決めます」


「……でも、帰れるようになったんだよな」


「そうです」


「良かった」と田中は言った。「……本当に良かった」


 渉は答えなかった。


 しばらく、電話を持ったまま、工房の棚のナンバープレートを見ていた。


「田中、焼き肉の約束はまだ有効ですか」


「もちろん」


「じゃあ近いうちに」


「向こうに帰ってきたら、二人で行こう」


「そうします」


 渉は電話を切った。


 工具箱を閉めた。


 工房の灯りを消した。


 外に出た。


 夜の空に、いつものように星が見えた。


 品川の空と、同じ空だ。


 薄い膜一枚を挟んだだけの、同じ空だ。


 渉はしばらく空を見てから、工房に戻った。


 道具の最終点検を、もう一度だけした。


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           〈第六十話 了〉

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【次話予告】

 最終確認のために第八層へ降りた渉が、予想外のものを見つけた。

 ダンジョンのコアが、かすかに変化していた。

 「……これは、帰還装置の起動で消えるのか?」

 ゴールドが静かに答えた。

 「消えます。我も含めて」



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【あとがき・第六十話特別版】

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 第六十話、最後までお読みいただき、ありがとうございました。


 「戻り油の数値が安定していない」という渉の一言は、帰還を一時間引き延ばすためのセリフではありません。本当に、渉にはそれが気になった。帰れるとわかった瞬間にも、渉は現場から目を離さない。それが彼の性分です。


 道具を一つずつ拭いてしまうシーン。この作業は、この現場での「一区切り」を意味しています。渉が何かを終わらせる時、道具を拭く。整備士にとって、道具の手入れは仕事の始まりであり、終わりでもある。


 リーニャがコーヒーを持って待っていた。何も聞かずに差し出した。言葉より、その行動が彼女の気持ちのすべてを語っていると思います。


 田中の「良かった。本当に良かった」という言葉は、二十年間一緒に働いた人間の言葉です。渉が帰ってこられることを、自分のことのように喜んでいる。


 しかし次話、最終確認で渉は重大なことを知ります。帰還装置を起動すれば、ゴールドが消える。ダンジョンのコアが消える。それを知った上で、渉はどう動くか。第二部の核心が、ここから始まります。


 引き続き、佐藤渉の現場にお付き合いいただければ幸いです。


                   (作者)

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