第三十話 違う
その日の夜はとても静まっていた。昼間のざわめきが嘘みたいに。でも、この静寂の中で私は落ち着けないでいた。
何かが起こる。それがわかっているからこそ、警戒を解くことができない。私は窓際のへりに座って、外の景色をただ眺めていた。月明かりが辺りを優しく照らしている。
「……カノン姉様。」
海が運んでくれた姉様の最後の感情。絶望に満ちたそれを目の前にしては、動かずにはいられなかった。
姉様を泡にした犯人を、私は絶対に許さない。
改めて決意を固めていたその時のこと。
__コツ。
廊下から、微かな足音が聞こえた。私は外の景色から部屋の扉へと目を向ける。こんな時間に廊下を歩くのは護衛くらい……だけど、足音がゆっくりすぎる。
コツ、コツ。
足音はどんどん大きくなってくる。確実にこちらへ近づいてきていた。ざわざわと嫌な予感が胸をかき乱していく。
私はゆっくりと立ち上がった。扉の向こうで足音が止まる。
コンコン。
軽いノックの音が響く。こんな夜更けに訪ねてくる人物なんて、一人しか思い当たらない。
「……どなたですか?」
扉越しに問いかける。少しの沈黙が私の鼓動を早くしていく。
「……私ですわ。」
いつも通り、彼女は静かな声をしていた。ドクドクと鳴る心臓を抑えながら、私は扉をゆっくりと開けた。
そこに立っていたのは、レベリオ王妃だった。銀髪が隙間風に揺れていて、艶やかな印象を受ける。
けれど__どこか様子が違った。
月明かりに照らされた紫色の瞳は、どこか虚ろだった。
「……こんな時間にどうしたんですか?」
王妃は首を傾げる。それから少し微笑んでこう言った。
「眠れなくて。」
声は穏やかだった。だけど、どこかに違和感がある。
「貴女も、そうでしょう?」
「ええ……まぁ。」
「一緒にお話でもしませんか?」
王妃はそう言って、部屋の中へと視線を移す。私は少し迷ったが、扉を大きく開けた。
「どうぞ。」
「ありがとうございます。」
王妃は静かに部屋に入った。歩くたびにネグリジェの裾がゆらゆらと海藻のように動いている。窓から差す月光が、部屋を青白く照らしていた。
王妃は窓の外を見る。
「……綺麗な月ですね。」
「ええ。」
私がそう答えても、王妃は外を見たままだった。
「……海が見えるのね。」
その言葉に、胸がざわついた。
「そうですね。」
王妃は暫く黙っていた。まるで、何かを思い出しているみたいに。そして突然。
「血って……」
小さく呟いた。私はそれを聞いて王妃を凝視する。それでも、彼女は視線を海から逸らさなかった。
「血って、海に落ちると……すぐに消えるのね。」
心臓がどくんと、大きく鳴った。胸元の鱗が逆立っている気がする。
「赤いのに……」
王妃がゆっくりと瞬きをする。
「すぐに広がって……」
そこで言葉が途切れた。彼女の指先がわずかに震えている。
「……まるで、最初からなかったみたいに。」
私は様子がおかしい王妃に一歩近づいた。
「……王妃?」
王妃はそこで、はっとしたように振り返った。紫色の瞳が揺れている。
「……あら、変なことを言ってしまいましたわ。」
慌てて微笑みを浮かべる王妃、だがその笑顔はどこか歪んでいた。彼女は額に手を当てて、眉をハの字にする。
「最近、変な夢を見るんですの。」
「変な夢?」
「そう……誰かが、名前を呼んでいるの。」
次の言葉を聞いて、全身が凍りついたように固まって、喉がきゅっと締まった。
「……セレン、って。」
その名を、私の名を聞いた瞬間、呼吸が一瞬止まった。王妃は不思議そうに首を傾げている。
「変でしょう?知らない誰かが貴女を呼んでいるのよ。」
苦しい、苦しくてたまらない。でも、聞かずにはいられなかった。
「泣きそうな声で……」
王妃は目を細めて私を見る。
「逃げて、って。」
そこで一度言葉が止まり、王妃の指先がまた震え出す。
「それから、血が……」
次の瞬間、王妃が頭を抑えて呻き声を上げた。
「王妃……!?」
「うぅ……違う……!!」
掠れた声で、何度も『違う』とうわ言のように呟いている。呼吸が乱れていて苦しげな表情を浮かべている。私は背中をさすろうとして近づいた。
「私は……刺したくなんて……」
その言葉がこぼれた瞬間、遠くの海がざわめいた気がした。
__逃げて、セレン。
あの日、海が運んできた最後の声。それが頭の奥で蘇る。姉様は最後、私の身を案じてくれていたのだ。
でも、どうしてだろう。その言葉の真意が、うまく読み取れない。
「う……あ……」
王妃の苦しげな声がして、はっとして顔を上げる。彼女は両手で頭を抑えていて、呼吸が荒い。肩も小刻みに震えている。
「王妃!」
「違うの……私、わたしは……!!」
掠れた小さな声だけが部屋に響く。焦点が合っていない瞳が揺れている。
すると、王妃の体がふらりと横に倒れた。私は咄嗟に彼女の腕を掴んで支える。
「あ……ぁ……違う……!!」
王妃は依然として『違う』と言い続ける。
(このままじゃ、埒が明かないわ。)
私は王妃を床に座らせて、ベッド横の小さな机へ向かう。机の引き出しの中に、瓶が入っているから。
取っ手を引き、瓶を取り出して王妃の元へ駆け寄った。蓋を開けて__中から鱗を取り出した。
あと三枚の鱗。これなら王妃を正気に戻せるだろう。
(……そうよ、これは情報を集めるために必要なこと。)
私は王妃に無理やり鱗を持たせた。目を閉じて、王妃が元に戻るように祈り続ける。すると、鱗がだんだん熱を持っていく。
「あ……あたたかいわ……」
鱗がじわりと王妃の手に溶けたところで、紫色の瞳は私をしっかり捉えた。まるで、初めて見るみたいに。
「……セレン、さん?」
その声は先ほどよりも落ち着いていた。虚ろだった瞳に、ようやく焦点が戻る。王妃は困惑したように瞬きを繰り返していた。
「私は……どうしてここに……?」
ふと、王妃の視点が彼女の震える手元に落ちた。
「血……」
ぽつりとそう呟く。すると、彼女の顔から血の気が引いていく。
「私……」
王妃はゆっくりと顔を上げた。その瞳は恐怖で満ちている。
「私、あの方を刺してしまったの……?」
その瞬間、王妃の手がびくりと震えた。溶けた鱗の跡が淡く光っている。
まるで海が、その罪を忘れないと言っているみたいに。




