第二十三話 水はさみしさに応える
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夜の庭園は静まり返っていた。昼間とは違い、噴水の音だけがやけに大きく響いている。
エディアスは水盤の縁に手をかざした。ちゃぷ、と小さな音を立てて、水を撫でるように指を通す。
水に異変は見当たらず、ただ静かに流れていた。
「殿下。」
背後でローブの裾が擦れる音がする。エディアスが振り向くと、そこには老いた宮廷魔術師が立っていた。
「調査の結果は?」
「水そのものに異常はありません。ただ__」
老人は言葉を選ぶように一拍置いた。エディアスの逆鱗に触れないように、慎重に。
顎の髭に触れながら、口を開いて話し始める。
「水への共鳴反応が見られました。」
「共鳴?」
「そしてこの反応は、とても強いものでした。強い適性……もしくは、切っては切れない関係性の__」
そこまで言うと、老人は口を閉ざした。エディアスの表情を見て、閉ざすべきだと判断したのである。
眉をひそめ、口を硬く結び、目を細めている。老人はそれを『怒っている』と勘違いした。
しかし、エディアスは怒ってなどいなかった。彼が思い出すのは、噴水の前で手をかざしているセレンの姿。
「……記録に、残すべきか?」
「通常なら。ですが、規模が小さいので"偶発"として処理することも可能です。」
__偶発。
飴玉をゆっくりと味わうように、その言葉を心の中で転がした。確かに、そうしてしまえば波は立たない。
「……今回は保留にする。」
「承知いたしました。」
老人はそれ以上何かを問うことはなかった。
エディアスは水面を見る。噴水は何事もなかったかのように満月を映していた。月光が水面をてらてらと輝かせている。
(怯えていた。)
あの時の彼女の目は、罪を問われる者のそれだった。暴かれることを恐れていた。
(だが、あれは__)
あの目は、隠そうとする者の目ではない。何かを守ろうとする者の目だった。
エディアスは噴水から手を引いて立ち上がる。
「触れるなよ。」
「はい?」
「この噴水だ、しばらくは触れるな。」
「心得ました、皆にも伝えておきます。」
理由は言わない。言えば意味を持ってしまう。彼女に枷をつけるようなことはしたくなかった。
老人を先に戻らせ、エディアスは一人夜空を見上げる。幾多もの星が暗い夜を彩り、月光が道を照らしている。
満月に手をかざして、拳を握った。届きそうで届かない、近くにあるのにとても遠い。まるで__セレンのよう。
「……彼女は何を見て、どんなことを抱えている?」
問いは胸に沈め、エディアスは答えを求めなかった。
知ってしまえば、立場が変わる。変わってしまえば、もう元には戻らない。
彼は誰よりもそれを理解していた。
エディアスは満月から視線を外し、静かに踵を返した。
◆◆◆
眠れなかった。瞼を閉じても、水の音が頭から離れてくれない。今もすぐ近くに噴水があるみたいだ。
噴水のはずなのに、昼間のあれは違った。あの時、水は私の意思よりも先に動いていた。
喉が渇く。飲みたいわけじゃないのに、全身が干からびそう__とにかく、水に触れたい。
私はベッドから立ち上がり、部屋にある水差しへと近づいた。そして、確かめるようにゆっくりと手を伸ばす。
指先が縁に触れたその瞬間、水面がわずかに波打った。
「……え?」
私は思わず、水差しの縁から手を引っ込めた。触れていない。まだ触れていないのに。
もう一度手を近づけた。水は手のひらに引かれるように、私の方へ寄った。まるで、呼吸をしているみたいに。
(違う。)
これは偶然なんかじゃない。手を引くと静まり、近づけると水は波打つ。
そして__私の鼓動に合わせて揺れている。
どくん、どくん。ゆらり、ゆらり。
まるで、私と同じ命を持っているみたいだ。
「私と……同じなの?」
水に問いを投げかけるも、答えは返ってこない。ただ、静かな暗い部屋に私の声が響くだけ。
その時だった__コンコン、と小さなノックの音が聞こえた。少し遠慮がちなその音に返事をすると、リッテの声がした。
「お姉ちゃん……」
私は聞き慣れた声に息を止めた。こんな時間に、今のタイミングで訪ねてくるなんて、全くの予想外である。
「今、行くわ。」
私は水差しから手を離す。水は揺らぎを落ち着かせていき、すぐに凪を取り戻した。縁を布で拭いてから、私は部屋の扉へと駆け寄った。
「リッテ、こんな時間にどうしたの?」
扉をゆっくり開けると、寝間着姿のリッテが立っていた。ヒトデのぬいぐるみを抱えており、大きな瞳は涙ぐんでいる。
「怖い夢をみたの……」
「どんな夢?」
「水に呑まれてしまう夢よ。」
心臓が跳ねて、一瞬だけ呼吸が乱れた。慌てて水差しを見る。もし、今も動いていたら__言い逃れはできない。だが、水は凪いだままだった。
「……そうだ、さっき水の音がしたのよ。」
「み……水の音?」
「うん。お姉ちゃんの部屋から聞こえたから、夢が本当になっちゃうんじゃないかって……」
そこまで言うと、リッテは大粒の涙を零してしまった。夢と現実が混ざって、怖くなってしまったみたい。
「きっと、まだ夢うつつだったのよ。」
「そっかぁ……」
リッテは安心したように笑った。その姿に心が痛み、思わず抱きしめてしまった。
純粋なこの子には、知られてはいけない。巻き込みたくない。
「リッテ、もう大丈夫だからね。こっちへいらっしゃい。」
私はリッテの手を引いてベッドへ連れて行く。それから、ベッドに寝かせるために彼女を抱き上げた。
リッテは以前より肉付きが良くなっていて、健康的な重さになっている。
(……鱗を持ってきておいて、本当によかった。)
残りは……あと三枚。
「ねえ、お姉ちゃん。」
ベッドで横になっているリッテから、不意に話しかけられた。私は慌てて微笑みを携え、リッテに顔を向けた。
「なぁに?」
「水はね、さみしいと大きくなるんですって。人魚姫さまの本に書いてあったの。」
「そうなの?」
「うん……人魚姫さまは、水とつながってるのよ。だから……」
『きっと、人魚姫さまはとっても寂しいのね。』
安心して眠気が襲ってきたのか、リッテはそこまで言うと眠ってしまった。
水差しのぬるい水が、ちゃぷんと小さく音を立てていた。




