既読:あの人は気をつけて。きっと、佐紅は傷つくことになる。…………本当にごめん。
今日は2回更新します!
普段乗る学生街を通る路線と違い、この路線は身なりの良い主婦や高齢者が多く、昼間の閑散とした車内もあいまって落ち着いた雰囲気が漂っている。
ゆったりと空席に座り電車に揺られて一時間弱、ほどなくして下車駅にたどり着いた。
駅を降りてすぐ感じたのは違和感だった。
住宅街の駅らしく、駅前からすぐ平屋建ての家屋が見渡せたのだが、全体的に私の想像する『住宅街』より壁が高くて広い。
目の前に見える車道の大きさと民家の比率が妙におかしくて、私はしばらく言葉を失う。
「アトラス・シトラスってどんな人なの……」
ともあれ私はスマートフォンの地図アプリを開き、佑白から教えてもらった住所へ向かった。
私の普段暮らす世界とは、まるで空気の色さえ違うような住宅街だ。
サイズ感も、距離感も狂ってくる。私は不思議の国のアリスにでもなった気分で歩いた。
やっとアトラス・シトラスに会える。
嬉しいはずなのに、実際のところ私はまだあまり実感がなかった。
たった半月程度の時間が空くだけでも、甘い記憶が現実のものか妄想だったのか分からなくなる。
――その記憶が甘いものであればあるほど、夢なんじゃないのかと。
たどり着いた目的地は、フロントだけでも高級ホテルのようなマンションだった。
たかがインターホン一つも指紋をつけがたい上品なデザインだ。
磨き上げられた大理石と照明でフロントもエレベーターホールも鏡のようだ。自動ドアの向こうに女性が見える。フロントサービスまでいるようなマンションがこの世にあるのか。
きょろきょろと眺めていると、不意に鏡に映った安っぺらの服を着た小娘と目が合う。私だ。
一番お気に入りの服を着て、髪も丁寧に整えてきたはずなのに、このマンションのフロントでは小手先のお洒落なんて通用しない。場違いすぎる自分が恥ずかしくなり、私は髪を手で撫で付けた。
インターホンを前にして何度か深呼吸を繰り返し、私は慎重に部屋番号を押した。
「はい」
あの日聞いた声。
肌をぞわっと興奮が走る。
「待ってたわ。どうぞ」
アトラス・シトラスの歓迎と共に、待ちわびたように自動ドアが開く。
出迎えたエレベーターに乗り込んだ。
夢うつつのまま最上階に到達し、部屋の前に立つ。
タイミングよく彼女はドアを開いてくれた。
「いらっしゃい」
「あ……」
夢にまで見た、何度も反芻したチョコレート味の声音。
甘くつやつやした黒い眼差しに、さらさらのショートカット。
ルームウェアのしどけない姿で玄関に立つ彼女に私は思わず硬直した。
「こ、こんにちは……」
長い廊下を背に彼女はほぼすっぴんの顔で微笑む。
纏ったルームウェアの、柔らかい綿のドレープが醸し出す雰囲気は、あの夜よりもずっと生々しく綺麗だった。
じろじろと眺めてしばらくして、私ははっと我にかえる。
「あの、覚えていますか。私、映像制作サークルの……」
「覚えてるわ」
赤く塗っていない唇も、ぽってりしていて十分色っぽい。
「あの時は本当にありがとうございました。ご迷惑もたくさんおかけしちゃって」
「迷惑なんてないわ。あたしも楽しくお酒呑めたから」
「私、あなたにもう一度逢いたくて……ずっと探してました」
「そう。嬉しい」
チョコレートのような彼女の眼差しに、身構えていた緊張がみるみる蕩けていくのを感じる。
佑白があそこまで隠していた理由は、結局彼なりの嫉妬でしかなかったのか?
(――嫉妬、か)
思い出すと胸の奥が痛む。
あの男に言いたいことはいくらでもあるが、少なくとも彼は私を彼女に会わせてくれた。
悪気がない人には変わりないのだ。
ここを出て講義を終えてもし時間があれば、今日中に佑白に会いに行き、感謝の気持ちを直接伝えよう。
玄関先で私たちは本質に触れない会話をする。
早く部屋に入って、この人に思いを告げたい。
通り一遍の挨拶なんて済ませて、早く抱きしめたい。
「あの、私、あなたのことが――」
おぎゃあああああ!
甘い期待を切り裂くように、耳をつんざく音が部屋の中からけたたましく響く。
子猫を踏みつけたら出そうなくらいヒステリックな高音。
「あー」
彼女はくたびれた溜息を吐く。
「起きちゃった」
彼女は追い立てられるように奥に入りながら、思い出したように私を振り返る。
「あ、あなたも入って」
「お邪魔します」
広い玄関に足を踏み入れる。
真っ先に目に飛び込んできたのは、玄関の隅っこにフックで吊るされた、手のひらよりも小さな可憐な靴。マカロン色をした犬のワッペン付きの可愛いそれは、歩くためというより、足を愛らしく保護するためのもので。
続いて目に飛び込んだのは、フックに吊るされたパステルカラーのサブバック。
廊下に貼られた、丸文字で描かれた時間割。
一歩一歩廊下を進むごとに、沼地を進むように足が重くなっていく。
見ない振りをしようとしても、目を逸らした先からはまた、新たな乳臭い暴力が飛び込んでくる。
何より、甲高く耳をつんざく泣き声。
リビングルームの真ん中で、彼女はこちらに背を向け何かをゆすっていた。
ふわふわと餅のように柔らかい足と、むずがって揺れる産毛の生えた頭。
「ぎゃあああ、あああ、あああああ」
「あー、よしよし。ごめんね、びっくりしちゃったのね」
サイレンの鳴き声が響くなか部屋を見渡す。
酩酊した頭では気づかなかったのか? あの夜酔いつぶれて転がされていた部屋と、この部屋の様子はまるで違うものに見える。
部屋のいたるところに、隠そうともしない幼児の証がある。しかも、何人分も。
テーブルの角を覆うクッション、パステルカラーの小物、壁に貼ったミニカーのポスター。
――きわめつけ、つけっぱなしのテレビからは子供向けののどかな歌番組が流れていた。
ひとしきり泣いた子供が落ち着いた後、私はアトラス・シトラスに訊ねた。
「ご結婚、されてるんですか?」
彼女は子供をあやしながら苦笑いする。
「シングルマザーで、こんな部屋に住めると思う? 旦那は今、仕事よ」
頭が真っ白になる。私は、何も考えれなかった。
「不倫……ですか」
「は?」
「わ、私との関係は不倫、ということでしょうか?」
「は?」
声音から甘さを消し、彼女は片眉を潜める。
その眼差しを浴びた瞬間、ふわふわとした幸せな夢から、一気に現実に引き摺り落とされたのを感じた。
「私にキス、しました?」
大きな黒目の眼差しが、あからさまな嘲笑で細くなる。
「キス? ……ああ。忘れちゃった。したっけ?」
足場が崩れていく感覚がした。
「あ、あー、……じゃあ、私の勘違いだったん……ですね」
自分の現状を頭は何も理解できていない。手が震え、舌が全自動で言い訳を紡ぐ。
「旦那さんがいる人とチューしちゃって、不倫なんてことになったら、その、まずいなあとか思っちゃって。あはは。その、私すごく酔ってたから、ごめんなさい、なんか勘違いしてたみたいで、……その」
「あはは。だから不倫とかなんとか言ってたのねえ。女同士じゃない」
視線を落とした先に紙おむつのパッケージが飛び込む。
私は彼女の方言を『アトラス・シトラス』と勘違いして確信していたけれど、そんな言葉を彼女は口にしていなかった。
思い込んでると見えないものがある。
アトラスとシトラスにしかり、彼女に対する私の思い込みにしかり。
彼女は私を恋愛対象として愛してくれていたわけでも、私を受け入れてくれた訳でもない。
ただの女で、母親で。
私が期待した『アトラス・シトラス』なんていなかった。
「それともあたしとそういうこと、したかったの?」
からかい交じりの言葉に、私は卑屈に笑って首を振る。
「いえ、あはは、まさか」
「嘘つき」
ここまでお読みいただき感謝です。
いつもブクマ・評価・ランキングクリックいただきありがとうございます!
しんどいシーンは次で終わります。
お気に召していただけましたら評価いただけたら嬉しいです。




