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講義を終えてすぐ、シアンは私の顔を覗き込んできた。
「ねー佐紅。ちゃんとご飯食べてる? 顔色悪いけど」
「大丈夫、ちょっと生理前かな、そんだけ」
「そっかー。あっためとけよー」
心配してくれるシアンに笑顔で手を振り、私は大学内のカフェテラスに向かう。
学内は夜間部の学生と中間部の学生の入れ替わりの時間で、八方どちらの方向にも人の流れができている。
学食はすでに閉店しており、カフェテリアはただ座るだけの休憩所状態だ。人気のないがらんとした空間は、目にまぶしいばかりで無機質で物寂しい。
私は窓辺のカウンター席に腰を下ろし、購買で買っていたパックジュースにストローを挿す。
近くに人はいない。
レポート用の本を読んでいると人の気配が近づいてきた。
佑白だ。
「珍しいね、ジュースって」
「今購買で地方の名物フェアやっててさ。この間飲んだら美味しかったから」
言いながら、私はジュースのパッケージを見せる。
地域限定のみかんジュースだ。
「飲んだことある?」
「ないかな」
佑白は返事をしながら私の隣に座る。
私は本を閉じ、佑白をまっすぐ見つめた。
「……ん、なに」
佑白はいつものように濃い睫の奥の双眸からこちらを見つめる。
暗い海色の瞳に、真面目な面持ちをした私が映りこんでいる。
まるでカフェテリアの窓ガラスのようだ。
底知れないほど深い色だからこそ、外の世界を鏡のようにそっくり映し込む。
私はこれまで、佑白に騙される女たちを同情半分、呆れ半分で見てきた。
――どうして、この男の無害そうな容姿と言葉に、簡単に騙されるのかと。
一番騙されていたのは結局私だ。
『少し丁寧に扱うだけで、女の子はすぐ俺を信用してしまう』彼はいつも言っていたというのに。
「佑白って出身どこだっけ」
「いきなりどうしたの」
面喰った様子を見せながら佑白は答える。
「西日本。佐紅が聞いてもわからないような、田舎だけど。それがどうかしたの?」
「具体的には?」
「……何、いきなり」
「あのさ。このジュースの産地に近かったりしない?」
言いながら私はパッケージを示す。熊本県産のみかんを使ったジュース。
「九州でしょう」
佑白の視線が僅かに揺れる。その動きを私はもう見逃さない。
「俺が九州男児っぽい感じだと思ったとか?」
「まさか」
私は首を振りながら、携帯でウィキペディアを検索する。
「『一本気で、逞しい、酒豪等というイメージ』……冗談。のらりくらりしてるし、したたかだけど逞しいって感じじゃないし。お酒は好きみたいだけど」
「だったら、どうなのかな」
柔らかく口にすると長めの前髪が揺れる。
今の私にはその表情が白々しくみえた。
優しい態度も、淡々とした態度も、女の子を手軽に扱うそのやりくちもすべて。
「シアンと私と、三人でうどんを食べた日のこと、覚えてる? そのときも、佑白は地元を『田舎』だとぼかして絶対にどこか言わなかったよね」
「それは、多分地名を言ってもわからないと思って」
「具体的な地名がわからなくても、『九州』なら流石にわかる。隠さなくてもいいのに、妙に口にしたがらなかった。――九州の人間だと今はばれたくない事情があった。九州を話題に出したくなかったのね」
「……」
「ノートが見つかったとき。佑白はノートを『なおした』と言ったけど、あれは別に修理したんじゃなかったのよね? ノートをもとの場所に『しまった』のよ。うっかり口に出たんだろうけど、私が『修理した』の意味で都合よく受け取ったおかげで話は通じてしまった」
いつしか佑白の眼差しの様子が変化していた。
彼の底知れない黒々とした双眸は、射抜くようにまっすぐ私を見据えている。
眼差しの色で、不意に彼が男であったことを思い出す。
筋張った喉元や肩幅、カウンターで組んだ指の節は大きい。
――顔と態度がいくら無害そうだからといっても、彼は男なのだ。
「だいいち」
眼差しに負けぬよう、私も彼を見つめ返す。
「女一人で、私をアパートの二階まで背負っていける訳がない。……アトラス・シトラスと佑白が連絡を取って、酔いつぶれた私を家に運んでくれた。そうでしょう?」
声が震えるというのはこういう事なんだと、どこか遠い意識で思う。
人気の少ないカフェテリアの空気に、私の声がひとつひとつ、染みわたるように響く。
「佑白。あなたはアトラス・シトラスを知ってる。
地元からの知り合いだった彼女を、佑白は撮影に誘ったり、飲み会に呼んだりしていた。だから名簿に名前もなかったし、サークル部員の中に彼女の知人は誰もいなかった。唯一の知り合いである佑白は私に付きっきりになって、うまく真実に触れないように誘導していた。アトラスとシトラスをくっついた1つの単語だと思っちゃうようにしたり……違う?」
言葉にこそ出さないものの、佑白の瞳の様子は様変わりしていた。
凪の海を貫いてきた瞳孔に炎が灯る。
ちろちろと揺れる冷たい感情の炎を私は食い入るように見つめた。
佑白は息を吐いた。
「地元からの知り合いじゃないよ。偶然同郷だっただけ」
「ノートを二番目に隠したのも、もしかしてあなた?」
「だから」
佑白の口調が苛立ちに変わる。
「佐紅が困ること、するわけなかろうがって」
柔らかさの消えた強い語気に、背筋がぞくっと凍る。
脅えた私にはっとして、佑白は口元を抑えた。
「ごめん。東京に来てから、ずいぶん柔らかく話す練習したんだけど」
普段は訛りを感じさせないからこそ余計に、低く口にする訛りが怖いのだと思った。
「別に謝らなくていいよ、それより」
私は話を戻した。
「どうして、アトラス・シトラスを隠し続けているの? ずっと諦めさせようとしていたのはどうして?」
私の問いかけに溜息だけで返し、佑白は唇を引き結ぶと睫毛を伏せた。
頑なな態度を貫かれるほど私の焦れったさは増していく。
「何か言ってよ」
佑白は疲れたような、呆れるような仕草で緩慢に頭を抱える。
「――気付いてないの?」
何がよ。私がそう反論する前に、上目遣いに佑白が私を見つめる。
瞳の奥の海は感情で波立っていた。
感情の熱が伝播したのか、彼の目尻まで赤く染まっているように見える。
泣いているようにも怒っているようにも、恥ずかしがっているようにも見える赤い頬。
――これは。
なにかに気付いた瞬間、二人の間を漂っていたあいまいな霞が晴れあがったように感じた。
「佑白、」
「なに」
「……いや、まさか。まさかよね」
「なんで」
こみあげる感情をこらえるように、佑白は言葉を切る。
「なんで、まさかって思うの」
「だって」
一度気づいてしまえば、二度と気づかなかった時には戻れない。
佑白も同じだった。『覆水盆に返らず』という言葉が、私の頭をぐるぐると回る。
「私、女が好きなのよ」
「だから何」
「わ、私なんか好きになるなんてさ、意味ないじゃない。同性愛者なのよ。佑白のこと、好きだけど、好きになれないっていうか……えっと、」
「あのさ」
肝が据わったのか、佑白は私を挑むように見据える。
「佐紅だって、男が好きな女の子が好きになった事くらいあるでしょ。それと同じ」
「あ……」
自分だけ特別なように考えていた自分に気づき、私は頬が熱くなる。
ごめん、と言えば佑白は黙って頷いてくれた。眼差しが少し、いつもの佑白に戻った。
「その、……いつから私のこと、そういう目で見てたの?」
言いながら、私は佑白の前で見せた数々の奇行を思い出す。
泥酔したり、ゲロ処理手伝わせたり、色んな事に散々付き合ってもらったり。
思い出すだけで愚行すぎてめまいがしそうだ。
「……いや、ほんと、意味わかんないんだけど……こんな女を……なんて……どうかしてるよ」
友人ならともかく、恋愛感情なんてまるで湧きようもない状況だ。
特に男子なら、女に多少は綺麗な夢をみたいだろう。胃の中身まで見た相手に惚れるなんて。
佑白も静かに頷く。
「俺もどうかしてると思う」
「思うんだ!?」
佑白はにこりと笑う。消えてしまいそうな、泣きそうな笑顔だった。
「俺が初めて佐紅を家に送った日、覚えてる?」
「………………覚えてるよ」
忘れたい思い出に叫びそうになるのをこらえつつ、私はなんとか絞り出す。
「合コンで酒呑まされて、フラフラになって俺を誰かと勘違いして、俺にすがりついて泣きだしてさ」
「やめて」
「面倒だったけど仕方ないから家に送ったら、誰かの名前を呼びながらぐーすか寝るし。そのくせ朝起きて真っ先に青ざめて下着確認するあたり、めっちゃ面白いと思った」
「やめて。やめて」
「男の俺を好きだった女子高生と見間違えるなんて、どんだけだよ」
「うう……」
私は顔を覆い、過去の醜態という羞恥に耐えた。
「似た髪の長さだったし、あの子が巻いてたのと同じ柄のマフラーだったのよ」
後日酔いが醒めたとき。
佑白にこの話を問い詰められ、結果私の初恋について打ち明けることになってしまったのだった。
「佐紅が女の子好きってのにはびっくりしたけど」
佑白は視線を上げる。
ガラス張りの外は真っ暗で、植えられている木も空も同じ黒に染まっている。
佑白のブロウフレームに蛍光灯が反射した。
「佐紅のこと、一途で偉いと思ってたよ。真剣に相手を好きだったんだなってさ。性欲と恋をごっちゃにしたような、俺に構ってくる女の子たちと違うって」
「佑白、その言い方……」
「――と思ってたら、一目ぼれでデレデレになっちゃって」
佑白は吐き捨てるようにつぶやいた。
ゲロを吐くような女でも――彼の琴線に触れるような女だったのだ、私は。
そして彼は、一目惚れで舞い上がった私に鼻白んで。だから、冷めた態度を取り続けていたんだ。
「ごめん。……佑白の気持ちに気づかなくて。一応謝っとく」
「別に謝る必要はないよ」
「だよね」
沈黙が流れる。
アトラス・シトラスの件についても、佑白の件についても、物事が進みすぎて訳が分からない。
私はどうすればいいんだろうか。
黙り込んだ私たちの後ろを、大学生の大所帯がぞろぞろと通り過ぎていく。
私は反射したガラス越しに彼らを見た。
みんな、友達同士のように見えて、実はカップルな二人もいるかもしれない。
男女のカップルに見える私たちだって、実はお互い、一方通行の不毛な恋に翻弄されている。
外側だけで見える真実なんて些細なものだ。
「アトラス・シトラスに会わせて」
私はシンプルに頼んだ。
「それだけは嫌だ」
そしてシンプルに拒否される。
「嫌いになるよ」
「佐紅に嫌われる程度で済むなら、それでいい」
「どういうこと?」
「会ったって佐紅が傷つくだけだよ」
「傷つくか傷つかないかは私が決める」
「あのさ、俺は佐紅の事を思って」
「こういうときだけ、上から目線にならないで」
佑白は押し黙る。強情な姿を見るのは初めてだ。
「私は佑白が思ってるほど思慮深くもないし、一途でもないよ。佑白から見たらそりゃあ、自分になびかない私は意外な女子だったかもしれないけど。
それは最初から佑白を、恋愛感情で見てないだけ。恋愛感情で見る相手には、私だってくだらないほど馬鹿になる。佑白が適当に食い物にして消費している女の子たちと何も変わらない、同じだよ」
ここまで一息だ。
佑白は黙り込んでいる。怖いくらい深刻な表情をしていた。
「俺が思っていたより、佐紅がバカなら」
佑白は声を絞り出す。
「余計に教えられない。会わせるわけにはいかない」
どれだけ睨みあっても時間だけが過ぎていくばかりだ。
その間に幾つものグループがお茶をして、あれこれと話して去っていく。
私たちの周りの空気だけ固められたように膠着していた。
「……わかった」
根負けしたのは私の方だった。
佑白を残して立ち上がり、私は振り返らずカフェテリアを抜けた。
外に出るだけで震えるほどの寒さを覚え、思わず肩を抱く。
学内は今日最後の講義中だ。学生の姿は少なかった。
人目がないのが災いして、歩くたびに涙がにじんでくる。
悲しさか悔しさかショックか寂しさか、感情がぐちゃぐちゃすぎてどんな意味を持つ涙なのか自分でさえも分からない。
地下鉄の駅にたどり着き、タイミングよく座席に収まった途端、根が張るような疲れが溢れてくる。
目を閉じて振動に身をゆだねる。
私たちの関係は終わってしまうのだと思うと、あまりにあっけなかった。
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