アトラス・シトラス
――夕方。
臨時に会議室に集められた役員の前で、部長はノート持出事件(一回目)が解決したことを明かした。
ランランは役員全員に謝罪した。
撮影の為に部外者から連絡先を貰おうとしたが、ノート持出届の成功する自信がなかったので黙って持ち出したこと。その後ノートを落としたため数日かかって捜索し、無人の部室にノートを返したのだということ。二回目の持出事件に関しては関与していないということ。
部長の隣に立つランランから語られる内容は昼間、私たちに打ち明けられたものほぼそのままだった。
一度目の持出に関しては解決したものの、二度目の持出に関しては手がかりが一切ない。
円満解決を期待していた役員たちは、それぞれくたびれた溜息を漏らす。
「悪気が無かったんでしょうけど、早く連絡してほしかったわね」
書記――望月先輩が呟く。
私は副部長がいないことに気づいたが敢えて指摘しないでおいた。
突然の招集だったので参加できなくてもおかしくはない。
最も厳しい会計がいないおかげで、幸福にもランランは過度に吊し上げられることもなく、彼が今後退部するか如何などの処遇はノートが見つかってからの決定でまとまった。
ランランはとても真面目で熱心な部員だ。彼が許されることを私は心から願った。
しかし。
ノート事件はまだ完全には終わっていない。
あと五日後に迫ったサークル委員会議までに出てこなければ、廃部の危機だ。
会議が解散した後、私は佑白と二人で駅まで向かう。
夏ならばまだ薄く夕暮れの明るさを残している午後七時でも、真冬ともなれば街灯と車のヘッドライトばかりが目立つ暗闇だ。人通りはあるものの、皆帰宅ラッシュの混雑を思うのか無口で物寂しい。
駅までの道、佑白はいつも以上に寡黙に歩を進めていた。
不機嫌さはいつもより広い歩幅に感じる。
先を行く背中を追いかけるようについて行っていると、佑白は背を向けたままぽつりとつぶやいた。
「佐紅はずるいね」
「え」
振り返り、暗い凪の眼差しが私を射抜く。
凪いだ海のような、朝焼け前の夜空のような、いつもの彼らしい静かな眼差しだった。
私は不意に、彼の静かな眼差しにどこか苦しさが混じっているよう感じた。
「何が?」
「――なんでもない」
それから再び、佑白は沈黙を貫いた。
私も余計な口を利かず一緒に歩いていく。
彼の言う言葉の意味はわからない。わからないけれど、そのまま質問してはいけない気がした。
---
佑白と別れた後、私はまっすぐアパートに帰宅した。
シャワーも明日の準備も済ませ、私はベッドに仰向けになり、じっと天井を見つめていた。
昼間、失恋に泣くランランにフラッシュバックした苦い記憶と、感傷的な佑白の目を交互に思い出す。
「どうしてだろう……佑白があんな顔をするなんて……」
その時。
唐突になった電子音にビクっとして、私は鳴り響くスマートフォンを手に取る。
シアンからだ。
通話ボタンを押すなり派手な笑い声と音楽が弾け、思わず私は耳から離す。
「もしもーし! もーし! さーくー?」
飲み会にでも出ているのか、すごいテンションのシアンに、私は音量を下げつつ応対する。
「あ、な、なーにー?」
「佐紅!? マジ、マジすっごいから、マジ」
「マジばっかり言われてもわかんないよ!」
「マジすげえって、マジ! ちょっと待ってな、友達にかわるから!」
声が遠くなり、変わって雑多な女の子たちの声が聞こえる。
私の座る自室が、まるでどこかの飲み屋とドアで繋がったような不思議な感覚だった。
「あーこれ? シアン、これでいーの? つながってる? あ、そう。もしもしー」
シアンとは違うハスキーな女の子の声だ。
「もしもしー」
「シアンに聞いたんだけどさ。あとらすなんとか、ってのを調べてんだっけ?」
酔っている調子ではあったが、シアンほどの勢いではないので安心する。
(というかおそらくシアンは素面だ。素面で、ああいう子だ)
「そ、そうだけど」
答えた途端、電話の向こうで弾けるようにげらげらと笑い声が響く。
バカにされるために電話がかかったのかと不安になる。
一度ハブられた経験がある私は、どうにも自分が蚊帳の外になった笑いにビクビクしてしまう。
「あ、あの……」
「やー、ごめんごめん。うちらにとっちゃ別に不思議でもなんでもない言葉だからさあ。あー、関東の人がきくとそう聞こえるんだねってー。あはは」
私は弾かれるようにベッドに正座する。
「あ、アトラス・シトラスの意味、わかったりするの?」
「わかるわかる、普通にわかるわー。てか、アトラスとシトラス、繋がってないんでしょ?」
私はまたすっかり忘れていた。そうだ、彼女の言葉は「アトラス」と「シトラス」だった。
一度シアンと佑白と三人で話した時に、ちゃんと思い出していたのに。
すぐ繋げてしまって、頭の中で別の言葉にしてしまっている。だめだ。
「で、……繋がってないなら、その……わかるの?」
心臓が弾けそうに脈打つ。
半分寝ぼけていた意識が勢いよく覚醒していくのを感じる。電話口の声はのんきに続ける。
「でも、くだんないからもしかしたら違うかも。てか、違うとおもうけど、あはは」
「お、教えて! くだらなくないと思うから!」
「くだらないよ? 本当に、笑わないでよ」
言いながら電話口の女の子は含み笑いするので、私はたまらなく焦れったくなる。
「笑わないから教えて、全然わからなくて本当に困ってるの。お願い!」
「あっとらすと、しっとらすと」
一瞬、何を言っているのかわからなかった。
アクセントの置き方が変わっただけのように思えたからだ。
「えっと、……その。どういうこと?」
「会っとらすと、知っとらすと。方言だよ。九州弁。東京の言葉に無理やり直すなら、会ってらっしゃるんですかー、知ってらっしゃるんですかー……って感じ?」
「会っとらすと、知っとらすと――アトラスと、シトラスと……」
口に出しながら、私は全身から力が抜けるのを感じた。
どう考えても分かる訳がない。
けれど解ってしまえばあまりに簡単で明解な回答だった。
理解すると同時に、あいまいだった記憶が鮮明によみがえってくる。
彼女の電話口での声が、全体的によく聞き取れなかったのを思い出す。
聞き取れなかったのに、私は彼女が話しているのが英語ではなく日本語だと確信していた。
酔っていたから聞き取れなかったのと思い込んでいたが、違ったのだ。
耳慣れないイントネーションと単語が混ざる日本語の中で、耳になじみやすい「アトラスと」「シトラスと」だけが、酔いつぶれた頭にくっきり残ったというわけだ。
あの夜の声音を思い出す。
疑いようもなく、あれは「あっとらすと」と「しっとらすと」だった。
「耳慣れない人には外国語に聞こえてもおかしくないよ」
電話口の向こうから笑い交じりに話しかけられ、私は我にかえる。
「ありがとう、助かったよ。九州弁なんて絶対教えてもらわないと気づけなかったから」
感謝しながら、口にした単語に新たなひらめきが誘い出される。意識するより前に口が動いていた。
「あの、最後にひとつだけいい?」
「ん、なーに?」
「このこと、九州の人ならすぐにわかるかな?」
「わかるんじゃない? いや、いきなり言われてもわからないけど、こういう話し方をしてる人がいたけど~とか言われたらピンと来ると思う。あと東京長い人もわかんないかも。でも地元から出たばっかりの大学生なら分かるんじゃね? ほら、あたしわかったし」
彼女はきっぱりと言い切る。
「今日シアンが言ったときさ、あたしも友達もすぐにわかったもん」
電話口がシアンに代わる。
「どうだった?」
「ありがとう! これで間違いないよ! 本当にありがとうね!」
電話を切ると、再び部屋は静けさを取り戻す。
茫然としているうちにスマートフォンの明かりも自然と消え、私は何も音のない部屋で目を閉じた。
――九州弁だと判ったからといって、現実的には特にそれ以上の進展なんてない。
でも。
ひらめきはいつだって突然、閃光のように寝ぼけた意識を目覚めさせる。
ここ数日間に起きたことが、巻き戻しフィルムのように勢いよく頭の中をめぐる。
なんとなく見逃していた不思議に全てがつながった。
私はスマートフォンを手に取る。かける相手は決まっていた。
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