アトラス・シトラスなんて、誰も言ってなかったじゃないか(いつの間に、アトラス・シトラスと勘違いしていた?)
私は会話に参加せず、だらだらとテーブルに頬をつけて突っ伏していた。
シアンと佑白で話がどんどん進んでいるが反応する気力もない。
「もしかしてシアンちゃん、重力ピエロ観てる?」
「あーあれ? レイプの話が苦手で読んでないんだよね。でも池袋ウエストゲートパークならサブスクで全部観たよ」
「あれが平気で重力ピエロが駄目ってどういう感覚!?」
美形二人が白熱している姿に、学生たちの視線が集中しているのが分かる。
横目でちらりと覗くだけの女子学生もあれば、露骨にシアンをまじまじと見ては佑白を睨む男子学生たちもいる。
今日のシアンも清楚なAラインワンピースにボレロ付きコートを羽織った上品な装いだ。
隣に座っているだけでいい匂いもする。
そんなお嬢様と親しげに会話する佑白は一見地味なものの、彼女に気後れせず会話できているだけで既に常人の男とは一線を介している。
「ほんと、シアンちゃんって話ししてて楽しいや。ねえ、モテるんじゃない?」
「全然もてねーし! てか、そういう風な話あんまり好きじゃないんだけどー」
「ごめんごめん。シアンちゃんが可愛いから、彼氏いたら誤解されたら悪いと思って」
「そういうのいないから! でも友達としてはめっちゃ佑白おもしろいから好きだな」
「ふふ、ありがと」
「佐紅んちで好きな映画上演会しない? うち親うるさいし。酒とスルメ買ってさー。へへッ」
「いいかもね」
私の側を通り過ぎた男子学生が、シアンを見ながらひそひそと話す。
「サロメだってさ。オペラでも観に行くのかな」
「むしろサロメ役が似合いそうだよな」
「あんな子にセクシーダンスされたら、そりゃ首の一つや二つなあ」
どうやら聞き間違えたらしい。
確かにこんな美女なら、スルメなんて言うより戯曲のサロメの話題をしているほうが似合う。
私は突っ伏したまま思わず笑った。
――その時。
ずるずると足許を漂っていたような意識が突然、釣り針に引っかったように勢いよく引き上げられた。
「聞き間違い……そうだ、聞き間違い!」
「どーしたのさー、佐紅ー」
「空耳だったんだよ! そうだよ、なんで私、いつの間にか勘違いしてたんだろう」
立ち上がった私をシアンと佑白が目を丸くして見あげる。興奮のまま私は口にした。
「アトラス・シトラス、じゃないんだよ! すっかり忘れてた、アトラスとシトラスは別の文脈だったし、それにあれは空耳だったんだよ!」
「空耳……?」
「アトラスと、シトラスに似た単語なんだよ。単語じゃなくて全然違う言葉かもしれない。ああ、すっかり勘違いしてた、もう、ばか」
「それを空耳って言うのは厳密には間違いらしいよ」
空気を読まず佑白が突っ込む。余計な茶々に今は構っていられない。
「どーゆーことぉ?」
「まって。ちょっとまって。色々思い出すから」
シアンの疑問をよそに私は頭を抱えて目を閉じ、脳細胞にあの夜を思い出せと必死で命じる。
アトラス・シトラスではない。
アトラスでもシトラスでもないし、そもそも繋がった単語でもない。
ああもう、全然違う単語を言ってなかったか。
あの少しくだけた、早口の酩酊した言葉。アトラスと、シトラスと……
「アトラスと、シトラスと。……あとらすと、しとらすと。At last, sit last。a trust. She trust――」
「つーまーりー、日本語っぽく聞こえたけど実は日本語じゃなかったかもーってこと?」
私の独り言を拾い、シアンが口を出す。
「それ、それよ! きっとそれだよ!」
「でもさあ、前後の文章がわかんないと結局意味なくね?」
「確かに」
答えながら私は気付く。
「……でも、全部英語だったり違う国の言葉だったりしたらさ。私も最初から英語だって気づいてたはずだよ。『あとらすと』『しとらすと』の部分だけ印象に残ってるってことは、他の部分はだいたい日本語だったんだよ。多分、だけど」
「『あとらすと、しとらすと』に似てる言葉ねえ」
シアンはテーブルに置いた私のスマートフォンに目を遣る。
「それ使ってみたらどうよ?」
私はすぐに合点し、彼女に頷いてスマートフォンの検索機能を準備する。
音声入力で反応する単語をチェックすればいいのだ。二人が見守るなか私はマイクに向かった。
「あとらすと、しとらすと」
私の声に反応し、すぐに電子音声が回答した。
【Web検索でこちらが見つかりました】
『アトラス年トラスト』
「ちょっと違うみたいだね」
佑白が呟く。
「も、もう一回」
私は再チャレンジした。
「あとらすと、しとらすと」
『trust distrust』
「あとらすと、しとらすと」
『Madonna stop stop stop』
顰め面で、シアンが私を見つめていた。
「佐紅、発音悪いんじゃね?」
「も、もうちょっと」
「よっしゃ、あたしも手伝うよ。英語は苦手だけどチェコ語ならイケるし。本場の巻き舌なめんなよ」
「いや、巻き舌はあまり関係ないと思うけどね!?」
私たちはスマートフォンに向かって思いつくまま、ありとあらゆる発音で『あとらすとしとらすと』と言い続ける。息切れしだしたところで、沈黙を貫いていた佑白が口を開く。
「ねえ。ここでしなくてもいいんじゃない?」
「……あ」
気付けば私たちにカフェテラスの視線が集まっていた。
目が合うと数多の視線がぱっと散る。私は頬が熱くなった。
「あぁとぅらーすとぅー!しっとlるるぁああすとォー!」
「あ、シアン、シアン、やめて、シアン!」
「ノッてきたところじゃん!」
盛り上がるシアンの手の中でスマートフォンが鳴る。
「佐紅、電話だよ」
「あっ!!!」
私は取り返して画面を確認する。
「名簿の人だ!」
スマートフォンをシアンから奪い取り、私は急いで通話ボタンを押す。
「もしもし、私最上です! 最上佐紅です」
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