1005_戻った声と戻らない想い.log
2009年4月14日(火) 朝
翌朝は、自分の自転車で学校へ行った。
またがってペダルを踏むと、身体は勝手にバランスを取った。そこは忘れていなかった。少し安心してから、自転車の乗り方まで確認する日が来るとは思わなかったな、と笑った。
お袋には3回、無理なら戻れと言われた。3回目には「分かった」と言う声が少し強くなって、逆に心配させた。
17歳の俺って、もう反抗期は終わってたはずなんだけど。45歳の中身が入って逆戻りしたのか、そもそも俺が覚えてないだけなのか。
まだ、45歳の自分と17歳の自分が同居している感覚に慣れない。いや、慣れるのか、これ。
背中のリュックには、おむすびがいる。底へタオルを敷き、動かないように固定した。鞄と一緒に前かごへ入れる気にはならなかった。
背中の箱が山の環境を観測するための装置だというのは、昨日、部室で中を確かめて分かったが、前の作業ノートにそのことが書かれているのも見つけた。
斜面で転倒したことと、ガク兄へ渡す前に修理する予定も書かれていた。その配線修理はもう終わっている。
知らない俺は、ちゃんと作業して記録も残している。なのに運搬用のケースはない。
「そこまで作ったなら持ち運ぶ方も作れよ、俺」
背中からは何も返ってこなかった。
その日の放課後、千尋が机の簡易台へおむすびを載せ、左右をクランプで軽く押さえた。
「ふいに動くとコネクタが抜けるので。締めすぎると外装が割れます。これも先輩がそう言ってやってた固定法です」
運搬用ケースも欲しいが、こういう作業の時に置ける専用の台座も欲しいな。ならいっそ、両方の機能を持たせた方がいいか。
「持ち運びにも置き台にもなるやつ欲しいな」
「固定台を作る提案を保留したのも先輩でしたが、運搬ケース兼用で作るんでしたら、改めて寸法取ります」
まだ作るとは言っていないのに、千尋はポケットからコンベックスとノギスを取り出している。制服の胸ポケットには直尺も入ってるのが見えたし、たぶん水平器とかも持ってそうだな。
「今日は観測器のデータを吸い出して、ログを見るだけ」
絃先生が念を押した。
「野外には出ない。昨日、小津が見た足跡は県警へ共有済み」
怪異の事件へ出るのは警察や専門職だと、昨日も先生に聞いた。昨日の朝のニュースで見た、帯刀した警官を思い出す。まだ、その当たり前には慣れない。
ガク兄も今日は部室にいた。大きなバックパックを床へ下ろし、上着の前を緩める。その下からプロレスのTシャツが見えた。
「学校でもそんなの着てんの?」
「お前も好きなもん持ち歩いてるだろ」
ガク兄が机のおむすびを指した。
「これは部活に必要だからだろ」
「俺も必要。これ着ないとテンション上がらん」
言い返せない。ガク兄はそれから、足元の荷物へ目を戻した。
辰馬と十和が慣れた手つきでバックパックからバッテリーと機材を取り出して充電器に繋げる。
「相変わらず、おっも」
「だから、そっちは私が持つって言ってるのに」
「鍛錬だよ」
「それはあっちでやりなよ」
十和が床に置かれた大きなダンベルを指す。
日向は窓際で自分のMacBookを開いていたが、ポケットからiPhoneを取り出して、その様子を写真に撮っている。子供の頃に親がボンダイブルーのiMacを買ったのをねだって自分のものにしたらしく、それからすっかりAppleに染まっている。
あれが話題になったから、おむすびのデザインもちょっとだけ影響を受けているようにも見える。
たしか最初は重心を考慮してピラミッド型で設計していたはずだ。AIBOへの憧れがあったはずなのに犬や人型よりもロボットらしさを出したくなったのもある。だけど、進めているうちになぜか今の形になってしまった。
そのおむすびへ千尋が自分のノートパソコンのケーブルをつなぐ。千尋のノートはdynabook。いかにも実用主義的な千尋らしい。彼女はアラン・ケイの名前も彼が提唱したDynabookも知っていた。だけど、必要なソフトが動くかどうかで選んでいる。
この世界でも2010年にiPadが発売されるんだろうか。アラン・ケイの思想に近いものに見えたが、彼の理想を実現していないと本人が否定した。今から、千尋が何て言うか楽しみになる。
『観測モードを開始します』
古い合成音声だった。AIのおむすびとは違う、昨夜、何度話しかけても会話にならなかった声。
「観測じゃなくてログの取り出しなんですが」
『音声入力に対応していません』
千尋が無言で俺に圧力をかけてくる。
「俺も昨日、同じこと思った」
ログデータの取り込みが始まると、千尋が画面をこちらへ少し傾けた。
開いていたのは、日付ごとに整理されたフォルダだった。動画ファイルのアイコンと、表計算ソフトで開く形式のファイルが並んでいる。名前の先頭には同じ日付が付いていて、後ろの英数字で記録の種類を区別しているらしい。
「これが映像です」
千尋が1つをダブルクリックすると、小さな再生ウィンドウが開いた。画面には山の斜面が映っている。おむすびに取り付けたカメラの映像だ。地面に近い位置から撮っているせいで、落ち葉や草の茎がやけに大きく見えた。
「こっちは測定データです」
千尋は動画を一時停止し、別のファイルを開いた。
白い画面に表が現れる。一番左の列には時刻。その右に温度、位置、Sh、機器情報と項目が並び、下には測定された数値が何行も続いていた。
「この時の温度と位置、それからSh値です。記録した時刻を基準にして、映像と対応させられます」
俺は表を覗き込んだ。温度や位置は分かる。機器番号も、まあ分かる。Shの列には42.7、43.1、42.9と並んでいた。昨日聞いた一般環境の30〜50 Shには収まっている。それでも、数字を見ただけでは何を判断できるのか、まだ実感が湧かなかった。
俺はおむすびの背中を見た。昨日開けた箱の中で見たセンサー類が、何のためについているのか、ようやく腑に落ちた。
「なるほど。動画と測った値を合わせて観測記録を残してるわけか」
「そのための背面の『携行式多環境同期観測補助ユニット』です」
「長い」
「正式名です」
「背面の箱でいいだろ」
「通じますけど」
「おむすびだし、弁当箱は?」
辰馬が名案とばかりに言った。
「弁当箱の方が運ばれるんですか?」
千尋に返され、辰馬はおむすびと背中の箱を見比べた。どうやら、そこまでは考えていなかったらしい。
「俺が作ったんだよな」
「はい」
「何で俺より詳しいの」
「先輩が忘れてるからです」
正論だった。
読み込みが途中で止まった。画面を見ていた千尋も止まる。
「接続切れた?」
「抜けてません」
有線だったのをつい癖で忘れてしまう。俺は千尋がコネクタの差し込み具合を確認しているのを見ながら思った。
と、おむすびの脚が、台の上で小さく動いた。千尋がすぐクランプへ手を添える。本体は固定されたまま、黒いカメラ窓をこちらへ向けていた。
『――実行環境に変更あり。設定を確認します』
息が止まった。
声が違う。
2037年の家で聞いていた声だ。俺が調整した、少し柔らかい話し方。昨日から、何度も聞きたくなった声だった。
「おむすび、か?」
『はい』
その返事のあと、俺は次の言葉が出てこなかった。千尋がパソコンから顔を上げる。辰馬も、何か言いかけた口を閉じた。
昨日も、今も、目の前にあるのはみんなにとって「おむすび」だ。だが、今の俺にとって目の前のおむすびは違うおむすびになっている。
「最後に、俺と何を話した」
『響さんとの関係についてです』
椅子の背を掴んだ。この世界へ来てから、俺以外のものが初めて響の名前を口にした。
「響が、わかるのか?」
『響さんは16歳です』
息がつまりそうになる。
「響について、何を話した?」
『響さんの曲を最後まで聴いていなかったことと、その後の進路についてです』
「曲は」
『「明日の余白」。再生時間は4分12秒。再生履歴は1分24秒で停止しています。再生を再開しますか』
「いや」
『最初から再生しますか』
「そうじゃなくて……美良は?」
『奥さまのことですか』
喉が痛くなった。
「いたんだな」
『私の記録には、あなた、美良さん、一人娘の響さん、3名の生活履歴があります。「いたんだな」と過去形でおっしゃる理由は分かりません』
家の中のことが一度に浮かんだ。俺が食べ忘れると怒る美良。進路の話を途中で止められた響。ついこの間まで、そこで暮らしていた。
「今、2人はどうしてる」
『分かりません』
「……何か記録は?」
『最後に記録されたご家族との生活についてはお答えできます。それ以降の状況は確認できません』
「そうか……」
分かった、と言おうとして、頷くだけになった。
帰れると分かったわけじゃない。2人が無事だとも分からない。それでも、昨夜、古いパソコンの前で1人で思い出していた暮らしが、俺の記憶の中だけのものじゃなくなった。
「……よかった」
声が出た。
椅子の背を握っていた手を離すと、指が少し痛かった。俺はそのまま座った。机の上のおむすびと目の高さが近くなる。
「おむすび」
『はい』
「……何でもない。呼んだだけ」
『はい』
さっきまでなら、音声入力には対応していないと言われていた。今は、くだらない呼びかけにも返事がある。
目の前のカメラ窓を見ていると、視界の端で日向の手が動いた。こちらへ伸びかけ、途中で止まる。その手は机の端に置かれた。
俺は顔を上げた。日向は何か言おうとして、やめたように見えた。
最初に口を開いたのは辰馬だった。
「……奥さん?」
「うん」
「お前、いつの間に結婚したんだよ!」
辰馬が勢いよく立ち上がり、椅子の脚が床を鳴らした。十和が袖を引く。
「声」
「だって昨日まで一緒にいたろ! 今日になって急に奥さんとか、何だよ!」
俺は口を開きかけて、閉じた。辰馬の言う昨日には、俺がいない。俺の覚えている昨日には、辰馬がいない。
「その話、ちょっと長くなる」
「長くていいから説明しろよ!」
「稲田、座れ」
絃先生に言われて、辰馬が椅子へ戻った。先生は俺を見た。
「平野。昨日からの記憶の異常と、今の話はつながっているのか」
「はい。どこから話せばいいのか、俺にも分からないんですけど」
「覚えているところからでいい」
俺は机のおむすびを見た。少なくとも、あの家で暮らしていたことを覚えているのは俺だけじゃなくなった。
「俺には、2037年まで生きてきた記憶があるんです」
「……2037年?」
辰馬が俺を見る。
「28年後。そっちでは俺は45歳だった。高専を出て東京で働いて、それから久里川へ戻って、結婚して、娘もできた。その日、寝る前まで、その娘のことでおむすびに相談してたんだ」
「娘までいるの?」
再び辰馬の椅子が鳴る。
「稲田、座れって。それで?」
「次に目を覚ましたら、28年前の家で、学校も、この身体も、2009年の17歳の頃に戻ってた」
誰もすぐには口を開かなかった。昨日から俺の様子がおかしかった理由を説明したつもりでも、説明になっている気はしない。
「つまり、未来から来たってこと?」
日向が聞いた。
「そうなのかもしれない。でも、俺の知ってる2009年には怪異なんてなかった。同じ過去に来たのか、それさえ分からない」
「……いきなり信じろって言われても困るぞ」
十和の声は落ち着いていた。怪異がなければ、彼女の家業は成立しない。俺が電気がない世界なんて想像できないのと同じようなものだろう。
「俺だって、まだ自分で信じきれてない」
ガク兄が椅子の背に手を置いた。
「ただの物忘れとは、話が違うな」
「そうなんだよ。だから、何から確かめればいいのかも分からなくて」
千尋はおむすびとノートパソコンを交互に見ていた。いつものようにすぐ何かを言うかと思ったが、黙っている。
辰馬がようやく口を開いた。
「じゃあ、さっきおむすびが言ってた響ってのが、娘?」
「うん。16歳」
「八木ちゃんと同い年じゃん!」
「同い年です」
千尋はそう答えてから、俺を見た。いつもより少し長く。
目の前にいる後輩と、自分の娘が同じ年だ。その娘の進路を心配していた俺は、ここでは1つ上の先輩でしかない。
「……こうして話すと変だな」
「話さなくても、だいぶ変だぞ」
辰馬に言われた。
「じゃあ、お前の奥さんってどんな人なんだよ?」
「たぶん、知ってる人」
「同級生?」
言わなきゃよかったと思った。
「夏倉美良」
今度こそ辰馬が立ち上がった。
「ミラ!?」
十和がまた袖を引く。
「声」
「知ってるってレベルじゃねぇ!」
辰馬が鞄を漁り、青年誌を1冊出した。表紙には、水着姿の美良がいた。
俺は反射的に取り上げた。
「持ってるのかよ!」
「今月号。てか表紙のはだいたい買う」
「俺の妻にお前が一番詳しいのやめろ!」
「俺のだぞ、その雑誌」
「それは分かってる」
返そうとして、もう一度表紙を見てしまった。昨夜も画面で見た、俺に向けたことのない笑顔だった。
辰馬が手を出したまま待っている。俺は雑誌を渡した。
「俺は、この頃の美良を知らなかったんだぞ。出会ったときには引退してた」
「も、もったいねぇ。なんか、ごめんな?」
「もうこの話やめていい?」
笑いが少し収まっても、日向は笑っていなかった。
結婚していると聞いてから、日向はほとんど口を開いていない。さっき机に置かれた手は、もう膝の上にある。美良の名前が出た時、目が合いかけて、日向の方が先に視線を落とした。
ああ、そうか。
幼馴染が変になったから心配している。それだけで、あの手が止まったわけじゃないんだな。
俺への好意が、思っていたよりずっと近いところにあった。気づいたところで、美良のことを隠すのも、日向の気持ちをなかったことにするのも違う。俺はあの家へ帰りたいし、日向には昨日からずっと助けてもらっている。
「恒一」
ガク兄が、さっきより小さい声で聞いた。
「家の人には、もう言ったのか?」
「言ってない。覚えてないことがあるって話しか」
「そりゃ、いきなり息子が老けて、もう16歳の孫がいるって言われてもな」
「母さん、今朝は学校に行くだけで心配してたし」
ガク兄が小さく頷いた。俺も、お袋の顔を思い出してしまった。
「最初は昔の夢でも見てるんだと思った。でも、怪異がある日常を俺は知らない。で、今は、おむすびまであの頃の話をする。なのに、どうしてここにいるのかは分からない」
誰もすぐには口を挟まなかった。千尋が、机の上の小さい機体を見た。
辰馬はしばらく考えてから聞いた。
「おむすびがこんな風に喋るなら、2037年って、アンドロイドとかも普通に歩いてんの?」
「人間そっくりのやつが、ってことか?」
「そう! 今じゃアシモだって展示で見るもんだろ? 未来ならそこらへんにいるのかと思って」
「いろんなのがいるよ。仕事するロボットなら普通に見かけるし、家でAIと話すのも珍しくない」
「すげえ。じゃあ、ほかには?」
「ほかって?」
「28年分、全部!」
辰馬はすっかりその気だった。俺にとっては昨日までの日常でも、こいつらにはまだ来ていない28年だ。興味が湧くのも無理はない。ただ、何から説明したものか。
「だからって、28年後の俺が何でも分かるわけじゃないぞ」
「それは昨日から見てる」
「もうちょっと期待してくれてもいいだろ」
「じゃあ、スポーツ年鑑」
「バカか。そもそも俺スポーツあんま見ない。プロレスなら少し」
ガク兄が俺の肩に優しく手を置いてくる。
十和が笑い、千尋は何かをパソコンへ打ち込んだ。今のまで記録したんじゃないだろうな。
辰馬は鞄を閉じながら、また顔を上げた。
「引退してから会ったんなら、ミラがアイドルグループにいたのは知ってた?」
「昨夜、こっちで検索して初めて知った」
「夫なのに? 話盛ってる可能性あるぞ、これ」
「そこは俺も刺さってるから、追加で刺すな」
結婚して、一緒に暮らして、それでも知らなかったことがあった。昨夜、画面の前で思い知ったばかりだ。
俺はノートを引き寄せた。言葉にしているうちに、2037年の話まで遠くなりそうで嫌だった。
〈2037年のおむすびが、2009年のおむすびの機体で喋っている〉
〈美良と響と俺、3人の生活履歴が残っている〉
そこまで書いてペンを止める。昨日は自分しか覚えていなかった。今日は、おむすびに聞ける。
「私のことは?」
日向が言った。
俺は顔を上げた。今度は目をそらさずに待っていた。
「知ってる」
「どこまで」
石段。夏祭り。小学校の帰り道。覚えていることを1つずつ話すと、日向は静かに聞いた。
途中で一度、頷いてくれた。それだけで続きを話しやすくなったのが、自分でも分かった。覚えていることが、少しでも彼女の知っている俺と重なっていてほしかった。
「一昨日、おむすびが転んだ時は?」
「……覚えてない」
「私が押さえて、コウが私を支えてくれた」
日向は俺の手を見た。俺もつられて、自分の手を見た。
そんなことがあったのか。作業ノートにあった転倒の1行のそばに、日向がいた。そこにいた俺は、日向へ手を伸ばした。
記憶には何も出てこなかった。
「それは、ない。今、聞いて初めて知った」
「そっか」
大丈夫、と言いかけてやめた。俺が忘れている側なのに、何を大丈夫と言う。
日向が俺をどう見ているかに気づいても、彼女と一昨日の俺がどんな顔をしていたかは分からない。俺の知らない時間が、すぐ隣に座っていた。
「今、思い出せない。忘れたのか、俺が日向の知ってる俺とは違うのかも分からない」
日向は頷いた。俺の知ってる世界では、彼女は高専にいなかった。そのことを告げると、彼女の目が少し震えた。でも、すぐに顔を上げた。
「じゃあ、一昨日、私と一緒にいたコウは、どこにいったの?」
答えられなかった。
その問いは、俺が一番考えないようにしていたものだった。




