第1/13話 駅前の英雄
この世界は、間違っている。
いや、正確に言えば、俺がこの世界に向いていない。
満員電車。鳴り止まない通知。終わらない会議。昨日決まった仕様が今日ひっくり返り、明日には「やっぱり最初の案で」と言われる社会。
こんな世界で、あと何十年も生きる? 冗談じゃない。
俺はもっと、こう、あるだろうと思っていた。
剣と魔法。冒険者ギルド。スライム。魔王。エルフ。受付嬢。チートスキル。謎の女神。学園。ダンジョン。領地改革。異世界料理無双。
そういう世界へ行くために、俺は人生を賭けてきた。
格闘技、パルクール、応急手当、災害対応、経営学、帝王学、料理、鍛冶、プログラミング。赤ん坊スタートでも、辺境の村人でも、追放された公爵家の次男でも対応できるよう、俺は準備を重ねてきた。
残された問題はただ一つ。
まだ、異世界に行けていない事だ。
「くそ……今日も平和か」
日曜の昼下がり。俺は駅前の交差点で、青信号を待ちながら小さく舌打ちした。
普通の人間なら、平和な休日を喜ぶのだろう。だが俺にとって、何も起きない休日とは、転生フラグの立たない虚無である。
過労死転生ルートを狙ってプログラマーになった俺は、ブラック企業で心身を削りながら、いつか異世界の女神に「よく頑張りましたね」と迎えられる予定だった。
ところが、俺は仕事ができすぎた。納期三週間の案件を三時間で片づけ、手作業を自動化し、部署全体の残業を八割削減してしまった。過労死はしたいが、バカな事をやって時間を潰す事に耐えられなかったんだ。
気づけば職場はホワイト化。俺の過労死ルートは、俺自身の手で潰されたのである。
異世界転生のために準備したあらゆるスキルがブラックを許さない。
「おのれ、定時退社、完全週休二日、フレックスタイム制で過労死は難易度高過ぎだろう……」
信号機を睨みつける。
そのときだった。耳に、甲高い悲鳴が刺さった。
「きゃあああっ!!」
「危ない!」
俺は反射的に顔を上げた。
横断歩道の向こう側。小さな男の子が、赤いボールを追って車道へ飛び出していた。そしてその先、大型トラックが速度を落としきれずに突っ込んでくる。
世界が、ゆっくりになった。
男の子。トラック。交差点。日曜。ボール。悲鳴。歩道に取り残された母親。
あまりにも、完璧な配置だった。
俺の心臓が、歓喜で跳ねる。
「このシチュエーション、この風景、このタイミング……」
来た。ついに来た。
俺が二十六年間待ち望んだ、王道中の王道。転生ギミックの王、トラック。しかも子ども救助型。善行ポイントは高い。自己犠牲判定も申し分ない。女神面接の第一印象も抜群だ。
これは、いける。
俺は地面を蹴った。
瞬間、俺の脳は極限の集中状態に入った。
周囲の悲鳴が遠ざかる。体が勝手に最短経路を選ぶ。
歩道の縁石を踏み台に加速。トラックとの距離を測る。男の子の体重、およそ十八キロ。速度、低速。転倒しかけ。ボールは無視。救助対象は子ども一択。いや、ボールも取っている方がポイント高いか?
俺は男の子の腕を掴んだ。
「うわっ!」
「歯を食いしばれ!」
叫びながら抱え込む。
ここで男児を突き飛ばし、反作用を利用してトラックの前に残れば完璧だった。
だが、俺の体は愚かにも最適解を選びやがった。
男の子を胸に抱き、膝関節の力を抜きながら前に倒れる。トラックの進行方向と直角に跳ぶ。着地と同時に回転。衝撃を肩から背中へ逃がし、男の子の頭を腕で固定。反対の手でアスファルトを叩き、さらに半回転。
トラックのバンパーが、俺の靴底をかすめた。風圧が頬を叩く。巨大な質量が、すぐ横を轟音とともに通り過ぎていった。
俺は男の子を抱いたまま、歩道で寝っ転がった。
一瞬の静寂。次の瞬間、街が爆発したように騒ぎ出した。
俺は腕の中を確認した。男の子は泣いていた。泣けるなら呼吸はある。頭部外傷なし。四肢の動きも問題なさそうだ。
「お母さんは?」
「あ、あっち……」
「よし。もう大丈夫だ」
駆け寄ってきた母親に、俺は男の子を預けた。母親は泣きながら何度も頭を下げる。
「ありがとうございます! 本当に、本当に……!」
俺はゆっくり立ち上がった。膝に擦り傷。右肘に打撲。致命傷、なし。
「……。」
空を見上げる。青い。信じられないほど青い。魔法陣は出ない。荘厳な声もない。駅前の大型ビジョンには、近所のスーパーの特売情報。キャベツ一玉八十八円。安い。
違う。俺が見たいのは、スキル選択画面だ。
「......上手くいかないもんですね。」
子供を助けたのに悲しげな顔で呟く俺に、周囲の人達は誤解を始める。
過去に助けたかったのに、助けられなかった人が居たんだ。
気が付けば周囲は涙で溢れていた。
やがて警察と救急車が到着し、現場は騒然となった。トラックの運転手は青ざめて謝り続け、男の子は念のため病院へ運ばれた。俺も救急隊員に診てもらったが、擦り傷と打撲だけだ。
「凄いですね! あなた、何者ですか」
救急隊員が真顔で聞いてきた。
異世界転生志望者です、とは言えない。社会的信用が死ぬ。信用だけ死んでも、異世界へは行けない。
「普通の会社員です」
「凄い動きだったそうですが、何かされてるんですか?」
俺は首を振って、それ以上説明しなかった。
その後、警察の事情聴取が続き、どこで嗅ぎつけたのか地元テレビ局のカメラまで来た。最近は何でも早い。目立たず帰りたかったが既に囲まれて動けない。
「せめて、お名前を……!」
「いえ。子供が無事なら、それで十分です」
これは本音だった。現世のお礼も名誉もいらない。俺が欲しいのは、来世の初期ボーナスである。
だが、テレビカメラはそのやり取りを、ばっちり撮っていた。
――翌日。
俺は会社で、同僚たちに囲まれていた。
「お前、ニュース出てたぞ!」「子ども助けたんだって!?」「あのトラックの前に飛び出したの、お前かよ!」
最悪だった。
「たまたまです」
「いやいや、凄い勇気と行動力だよ!」
上司までやってきた。いつもはぶすっとした顔が、今日は妙に優しい。
「無事でよかった。会社として、君を表彰したいという話が出ている」
「やめてください」
即答した。周囲が静まり返る。俺は慌ててつけ足した。
「栄誉もお金も、欲しかったわけではありません。もし何かいただけるなら、全額、交通遺児家族の支援団体へ寄付してください」
職場が、さらに静かになった。誰かが小さく言った。
「聖人かよ……」
違う。俺は聖人ではない。ただ現世の金と栄誉に、興味がないだけだ。
その日の夜。俺は自宅の六畳間で《異世界転生失敗反省会》を開いた。
PCのモニターには、交差点の防犯カメラ映像。机には手描きの交差点図、トラックの推定速度、進入角度。フレーム単位で見返して、俺は一つの結論に達した。
男の子を抱えた瞬間、俺は無意識に膝を抜いて重心を下げている。そのせいで跳躍角度が最適化され、トラックの衝突範囲から外れた。
「子どもだけを突き飛ばし、俺はトラックの前に残るべきだった……!」
完璧な転生チャンスだった。多くの転生資料によれば、赤ん坊スタート。幼少期から魔力を鍛え、王立学園に特待生で入学、飛び級して十六歳で古代魔法を再発見――
......いけたなぁ。間違いなく、いけたなぁ。
俺は反省ノートを開いた。表紙には、太字でこう書いてある。
『異世界転生失敗記録~原因と対策~』
敗因。一、救助対象を抱え込んだこと。二、受け身を取ったこと。三、日頃の訓練で身体が勝手に生還ルートを選んだこと。
最後に、次回の改善策を書き込む。
『救助後、自分だけ事故範囲に残る方法を要練習』
そのとき、スマホが震えた。
『トラック事故から男児救出 名乗らぬ会社員に称賛の声』
『現代の勇者』『無欲の聖人』『駅前の英雄』
俺はスマホを伏せた。
「違うんだよなあ……」
天井の蛍光灯がまぶしい。魔法陣は、まだ出ない。女神の声も、聞こえない。
「次の異世界転生チャンスこそ、必ずものにする」
翌朝も、俺は非常用装備のリュックを背負って家を出た。どこかで誰かが、助けを求めているかもしれない。俺を異世界へ導く、完璧なイベントが転がっているかもしれない。
俺は今日も、この世界を歩いていく。まだ見ぬ異世界を目指して。
なぜか、この世界の誰かを救いながら。




