第1話 馬車馬のように働いた結果、本物の馬になりました
結論から言おう。──俺は今、馬だ。
比喩でも何でもない。目の前にはふさふさとした自分の前髪が見えているし、視界は妙に広くて両端がやけに良く見える。視線を下に落とせば、そこにあるのは自分の足ではなく、硬く艶やかな黒い蹄だ。
「ヒヒーン!(嘘だろおいぃぃぃ!)」
声を上げようとした口からは、間抜けないななきしか漏れない。喉の奥がブルルと震える感覚が、嫌なリアルさを持って俺の全身を駆け巡った。
俺の記憶は、つい数分前(?)で途切れている。佐藤駿、三十一歳、広告代理店勤務だ。クライアントからの無理難題と上司の怒号に挟まれ、連日連夜、馬車馬のように働き詰めていた、しがない社畜だった。
三日ぶりの帰宅路、あまりの眠気に頭をフラフラさせながら交差点を渡ろうとした瞬間──何をどう間違えたのか、都心のど真ん中に突如現れた観光用馬車に正面から撥ねられたのだ。
馬車馬のように働かされた揚句、最後は馬車に撥ねられて本物の馬になる……か。
出来すぎた質の悪い冗談みたいな末路に、俺は深い溜め息をつこうとして、鼻から「ブフゥッ」と大きな息を吹き出した。
ふかふかの干し草の匂いと、整えられた木枠の香り。どうやらここは、どこぞの貴族様のものらしい、豪華で広い厩舎だった。
ギィッと重厚な木の扉が軋む音を立てて開くと、隙間から差し込んだ夕暮れの橙色の光とともに、一人の少年が足音もなく入ってきた。
陽の光を吸い込んだような柔らかい金糸の髪。そして何より俺の目を奪ったのは、その双眸だ。右目は燃えるような深い紅、左目は静寂を湛えた澄んだ緑。
「……シュン。また君の顔を見に来たよ」
鈴を転がすような愛らしい声が聞こえる。
俺はこの美しい少年を知っている。……いや、正確には前世の『記憶』にあった。
(……待て。この金髪に、綺麗なオッドアイ……間違いない!俺が社畜時代の激務の合間、唯一の癒やしとして愛でていた乙女ゲーム『聖なる乙女のロザリオリング』の悪役令嬢──エリス・フォン・ローゼンブルグだ!!)
脳裏に前世の記憶が鮮明にフラッシュバックする。
ゲームでのエリスは、主人公に嫉妬して破滅する悲劇の令嬢だった。深夜のオフィスで一人「エリスたん……俺が養って幸せにしてやりたい……」と画面越しに泣いていたあの推しが、今、目の前に──いるんだ!
(……って、あれ????)
俺はまじまじと目の前の推しを見つめた。華奢な身体や可憐な顔立ちはエリスだ。……だが、着ているのはフリル満載のドレスではなく、仕立ての良い少年のスラックスとジャケットだ。
「今日も、父様には不吉な男児だと無視された。義母様からは忌々しいと罵られてお昼抜きだ。……この広い屋敷で、僕を待っていてくれるのはお前だけだよ、シュン」
声も、どこか凛とした少年のものに聞こえる。
(えぇぇ!男になってるぅぅぅぅぅ!!?? 俺の推し、性別変わってるんだけど!?どういうバグ!?!?)
驚愕で馬の目玉が飛び出そうになった。
悪役令嬢だったはずの推しが、なぜか悪役令息になっている。だが、置かれている環境の劣悪さはゲームのままだ。幼少期に家族から虐待され、毒を盛られ続けた結果、心を閉ざしてやがて破滅の道を突き進む悲劇のルート。
エリスは細い腕を伸ばし、俺の白い首筋にそっと顔を埋めてきた。刺さるような冷たさと──抱えきれないほどの寂しさと、微かな震え。それを見て前世の記憶が重なる。終電のなくなった深夜三時、誰もいない冷え切ったオフィスで一人冷めたカップ麺をすすっていた時の、あの胃の奥が冷たく重くなる孤独。
男だろうが女だろうが関係ない。この子はあの時の俺と同じだ。大人の俺ですら潰れそうだった重圧を、こんな小さな子供がたった一人で耐えている。そしてこのまま放置されれば、彼は心を壊し、破滅の『悪役令息』へと変貌してしまう。
(……冗談じゃない!男になろうが何だろうが、お前は俺の推しだ!俺が絶対に闇堕ちなんてさせない!ホワイトな未来へ導いてやる!)
俺は首をぐっと下げて、エリスの柔らかい金髪に鼻先を押し当てた。
「ヒヒン!(泣くな!俺がお前の味方になってやる!)」
「あはは……っ、くすぐったいよ、シュン。お前、僕を励ましてくれているのかい?」
パッと顔を上げたエリスの笑顔に、馬の心臓がドキンと跳ねた。よし、まずは第一段階クリアだ!
……と、感動に浸っていたのも束の間、俺達二人の時間に邪魔が入った。
「坊ちゃん!またこのような汚らしい場所に!お食事の時間です、さあ早く戻りください!」
現れたのは、身なりの整った老執事だった。
その瞬間、俺の社畜センサーが頭の中でカンカンと最大音量の警報を鳴らし始めた。
ブラック企業の最前線で十年間戦い続けた俺の経験が告げている。執事の目の奥にある醜い殺意、嫉妬。さらに馬の超嗅覚が、執事の手袋から漂うツンとした薬品臭──『毒』の匂いを捉えた!
(あいつ、今まさにエリスに毒を食べさせようとしてやがる!)
行かせてなるものか!あんな毒飯を食べさせるわけにはいかない!
「ヒヒーン!(行くなエリス!そいつのメシはヤバイ!)」
俺は咄嗟に柵から首を乗り出し、立ち去ろうとするエリスの上着の裾を、口でガッチリと咥え込んだ。
「シュン? どうしたんだい、離してくれ……」
「ブフゥッ!(ダメだっつーの!あっちに行ったら死ぬぞ!)」
四肢を踏ん張り、全力で引き留める!だが──悲しいかな、俺はまだ、馬の力加減というものを理解していなかった。
バリッと、辺りに嫌な音が響く。
俺の力が強すぎたせいで、エリスの上着の裾が派手に破け、さらには俺の大量のよだれでベチャベチャになってしまったのだ。
「……ヒヒン(あぁ!俺のバカ!)」
あまりのことに硬直する俺。
エリスは破れた裾とよだれまみれの服を見つめ、ゆっくりと俺を見た。その瞳に浮かんでいたのは、驚きではなく──絶望だ。
「……そうか。お前も……僕が嫌いなんだね」
エリスの瞳から、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちる。
「服を破いて……僕を外へ追い出そうとするなんて。……馬にさえ、僕は拒絶されるのか」
「ブモォ!?(違う!冤罪だエリス!俺はお前を死なせたくないだけで……!あと力加減間違えて本当にごめん!!)」
俺の必死の嘶きも虚しく、エリスはボロボロと涙を流しながら執事に連れ去られてしまった。
残されたのは、口に上着の布切れをくわえたまま呆然と立ち尽くす一頭の白馬。
こうして、俺の「愛馬として推し(悪役令息)の破滅を回避する異世界生活」は、最低で最悪な大勘違いから幕を開けたのだった。
第二話 マナーの良すぎる馬、食卓に並ぶ
お楽しみに。




