20 残業ユートピア
「え……月に、80時間……?」
残業時間、月に80時間。勤堂総理は確かに、そう言った。
「い……いやいや……さすがにそれは嘘でしょう? 冗談にしたって面白くない」
信じられないようにも、呆れたようにも──信じたくないようにも見える表情で。ひどく苦し気にうめくような様子で何とか笑った労河原が、縋るようにして勤堂総理に問いかけた。
「冗談に聞こえるかね?」
「だって……それじゃあ単純計算で、一日に四時間の残業ですよ。旧社会の計算方法でも、終業時刻は22:00ってことになる……。通勤時間が一時間とすれば、いや、それが無くても寝る時間がギリギリ取れるかどうかじゃないですか」
終業時刻、22:00。家に帰れば23:00。食事と片付け、入浴だけを行ったとしても、全てが終るころには日付を超えるだろう。翌朝の起床時間を考えるならば、本当にギリギリの睡眠時間が取れるかどうかといったところである。
「──そうだよ、まさにその通り。それが普通で、当たり前だったんだ」
「…………」
もう、休恵も労河原も、何も聞きたくなかった。
「寝る時間なんてない。食べる時間だってない。全部働くための時間さ。これで家族がいれば、食事と風呂の支度くらいはお願いできるかもしれないが。それでも家族の負担にはなるし、一人暮らしともなれば……」
生きるために働く。それが生物としての大原則で、そのために休恵たちは残業禁止法を撤廃しようと試みた。
だけど、その先にあるのは。
働くために生きねばならないという、自然界の理をとことんまで否定した、悪夢を超えた地獄でしかない。
「あとはそうだね……昔は終電というのがあったんだ。だいたい夜の十二時くらいで電車は動かなくなったんだよ。家に帰れなくなったんだ。だから、酷いときは会社で床に段ボールを敷いて寝泊まりすることもあった」
今はタイムシフト制を導入しているために、そんな心配は起こりえない……と、総理は小さく補足を入れる。
「──そんな終電ギリギリまで働いて、そして始発で……朝一番の電車で会社にやってくる。少しでも残業時間を減らすために、始業時間前に準備をするために。残業ができる分、業務なんていくらでも振りあてることができたから、そうでもしないと仕事が回らなかったんだ」
「終電……始発……そんな、そんなのって……」
「それが無くても、朝が早ければちょっとはマシな電車に乗れるからね。……睡眠時間なんて、四時間もあればいいほうだったんじゃないかな?」
休恵と労河原の頭の中に、毎朝恒例のあの地獄がフラッシュバックした。
「キミたちも体験しただろう? 今と違って、昔はラッシュというのがあったんだ。みんなが同じ時間に働くものだから、電車がぎゅうぎゅう詰めになったんだよ。間に合うように駅についたのに、乗れないことだってあった。……信じられないだろう?」
毎朝のバス。あまりに混みすぎていて、時間通りに来ないばかりか乗れないこともあった。
毎朝の電車。やっぱり混みすぎていて、駅員が車両に人を押し込むような有様になっていた。そのたびに少しずつ電車は遅れるし、乗れない可能性も大きかった。乗れたとしても……そこにあるのは、圧迫地獄だ。
そんな残業の悪魔がもたらした悪夢も、残業禁止法によりタイムシフト制が導入された現代の社会では、すっかり消えてなくなっている。姿を見ないばかりか、人々の記憶からも無くなって──その存在そのものが、永久に抹殺されようとしている。
「どうだい? 残業を許せば、いつか必ず人間は増長し「こう」なる。これは推測でも何でもない、歴史が証明してきた事実だ。愚かな人間は、間違いなく歴史を繰り返す」
そうであったからこそ、勤堂総理大臣は残業禁止法を──【悪性超過勤務の禁止および健康で人間的な最低限度の生活確保に関する法律】を作ったのだ。
「収入はぐんと増える……が、失うものはあまりにも大きい。それでなお、君たちは残業をしたいと思うのか?」
したくない。
命を削ってまで残業なんて、したくない。
休恵はただ、自由に楽しく、豊かな生活を送りたいだけだ。
そのための材料がそろっていても、結局それを使えないなら何の意味も無いのだ。
「まぁ、残業代が出るだけマシだろうね。裁量労働制ともなればそれすら出ない。若者風に言うならば、定額使い放題ってやつさ」
「……裁量労働制って、残業しなくても残業したとみなされる制度じゃ」
「違う。実際の労働時間とは関係なく、事前に定められたそれを労働時間として認めるという制度だ。たしかに働く時間が少なくとも……残業がゼロでも相応の一定額が貰えるが、どれだけたくさん働いても一定額しか貰えない」
「そんな……そんなことが罷り通って良いわけが……」
「異常な社会で、そんな正常な判断ができるとでも? キミたちの常識は、この現代社会で培われたものだということを忘れるな」
勤堂総理は、さらに衝撃の事実を告げた。
「……あの時代では、それすら凌駕した本当のブラックもあった」
「総理!」
「それは!」
残業警察が、スズキが、ヤマダが──フルサワも。
休恵と労河原以外の全員が、豹変して総理のことを止めようとした。
「なんてことを……! それは、関係者以外に知られてはいけない禁忌です! 訓練を受けてない人間がそれを知れば、精神に異常をきたすと……! 未来永劫、概念そのものを永久に抹消すると決めたものですよ……!」
ブラック。単純に和訳すれば、黒──要は、ただの色。
何かの比喩、あるいは暗喩であるのは間違いないが、休恵達には何のことだかさっぱりわからない。
「どうだね、二人とも。ブラック企業……この言葉が何を指しているかわかるかな?」
「何って……」
ブラック。黒。連想していけば──闇。つまりは闇企業。
そこから導かれるのは。
「闇市場とか、闇金とか……そういうやつ、か?」
「非合法の物を取り扱う、裏社会の企業ってことです……よね?」
「──少しニュアンスが惜しい。そういう意味では表企業だよ。非合法、あるいは違法ではないだけの脱法行為をしているのは間違いないが」
「……」
「ブラック企業とは、実際の残業時間を誤魔化し、あの時代においてもあり得ない残業を強要するような企業のことさ。連日会社へ泊まり込み、休日出勤でさえも当たり前なのに……記録上では毎日全員が定時で帰っている。当然、記録に無いのだから残業代も支払われない。社員の大半は精神を病んで再起不能となり……そしてそれを強要する悪人は、居座り続けて次の犠牲者を生み出し続ける」
目の前がくらくらした。想像するだけで吐き気がした。
この世のありとあらゆる悪意を激しい憎悪で煮込んだとしても、ここまでえげつないものは生まれないだろうと、休恵は本気で思った。
「どうして、そんな……人の心が無いのか? 同じ赤い血が流れた人間の所業なのか、それが……」
「……人間とは、想像以上に愚かな生き物だからね。あの時代では【サービス残業】という言葉を誰でも知っていたわけだが、それがどういう意味なのか、誰が誰に対し、どういう意味でサービスしているのか……」
「……言葉通りの、顧客にサービスをするための残業なわけ、ないですよね」
「そうだね。もう説明するまでもない……今のキミたちなら、想像できるだろう? それくらい、当然のこととして罷り通っていた」
そんな禁忌の言葉が生まれてしまうほど、あの時代は暗黒だった。もはやそう説明するしかない。残業が許可されていたその時代は、もう何もかもが異常だったのだ。
「尤も今は、私ら政府が残業を禁じているからこそ──殺人と同等の行為として処罰しているからこそ、無賃労働なんて発生しえないがね。仕事の成果に金銭を支払わないのは、紛れもなく邪悪で唾棄すべき行いだ。たとえそれが残業という悪であったとしても、その原則は変わらない」
「そう、か……だから、親父は逮捕されても残業代は振り込まれたのか……」
「──さっきも言った通り、残業する親の気持ちはわからなくはない。残業は悪ではあるが、それでなお覚悟を以て残業するのであれば──その気持ちだけは汲もうと思ってる。そうでなければ、あまりにも……あまりにも、悲しいから」
グラスに半分ほど残っていたそのお茶を、勤堂総理大臣は一息で飲み干した。
「ようやく……ようやく、これだけの時間をかけてあの忌まわしき残業の面影をここまで消すことが出来た。もうすでに、君たちのような次の世代は、あの本当の残業のことを知らずに生きている。……そのおかげでこんなことになってしまったが、まぁ、自分たちの成果が労われたかのようで嬉しくもある」
残業の真実を知っていた勤堂総理。
その勤堂総理により、残業の悪魔から守られていたからこそ生まれてしまった、休恵たちのような存在。
それはきっと必然で、勤堂総理の努力の成果の表れでもある。
「昔はコンピュータなんてなかった。いちいちアナログで、一つの案件をこなすのに膨大な手間と時間がかかった。今では高度に発達したコンピュータがある。昔なら調べもの一つするだけでも大変だったのに、今じゃボタン一つだ。恐ろしいほどに効率化されている。……なのに、仕事の量は減らない。労力だって増えるばかり。おかしいだろう?」
豊かな社会。それを求めるのは人間の本能として自然なことだ。不便で何をするにも時間と労力がかかる社会よりも、便利で自由に好きなことができる社会の方がいいに決まっている。
ただし、だからといって……そんな自由が、誰かの自由や、ましてや生命を脅かしていい理由には決してなり得ない。
「どうして、新たな道具によって生まれた余裕を殺すのだ。余裕が出来たのに、どうしてその余裕を余裕として活用しないのだ。人々が楽をするために存在する道具なのに、それを無理やり詰め込んで結局悪い結果にしかなっていない。出来ることが増えたせいで、残業が生まれてしまっている」
本来であれば、化学や技術の発達により、人々の生活は豊かになるはずだった。今まで苦労してきたことであってもあっという間に処理することができて、その分自由気ままに、楽しく過ごすことができるはずだった。
だけど、そうはならなかった。せっかく余裕ができたのに、人間はそこで新たな仕事をするようになった。楽をするために頑張ったのに、楽になったはずのところで新たな苦労を自ら背負い始めた。
そしてそれを繰り返すうちに……残業という極悪非道な行いを、当然の物として受け入れるようになってしまった。
「浅ましい。本当に浅ましい。行き過ぎた金への欲望ほど浅ましくて薄汚いものはない」
だから。
「故に私は、残業禁止法を──【悪性超過勤務の禁止および健康で人間的な最低限度の生活確保に関する法律】を制定した。これを用いて、この世から残業を根絶するために。……残業という概念そのものをなくすために、【残業】という言葉は法律名の中には入れなかったのだが──結局は通称として残業禁止法と呼ばれるようになってしまったのは、誤算の一つだね」
だから勤堂総理は、残業禁止法を制定し、残業という概念そのものを排除しようとしたのだ。
「もう、今更語るまでもないが。あの長すぎる残業時間も、満員電車も、時間になると閉まる店舗も……なにもかも、残業禁止法の制定によって解決している。残業禁止法によって導入されたタイムシフト制があるから、今のこの便利で豊かな社会がある」
そして最後に、勤堂総理は休恵たちに問いかけた。
「もう一度だけ聞こう。なるほど確かに、キミたち若い世代が不満を持つのもわからなくはない。そのエネルギーがあれば、金なんていくらあっても足りないだろう。……そして私の考案したタイムシフト制、ひいては残業禁止法も、改良の余地はまだ残されているのかもしれない。もっと良い方法が、あるのかもしれない」
事実として、もしそれが完璧だったのなら、休恵たちは行動を起こしていない。それそのものは、勤堂総理も認めている。
「だが……それはあくまで、残業の肯定ではなく現状の改善でしかない。ここまでのことを受けて、なおキミたちは残業禁止法を否定するのか。どうかそれを、今この場で聞かせてほしい」
まっすぐ二人の目を見つめた勤堂総理は、説き伏せるようにしてはっきりと言った。
「キミたちの言う所の……明るく楽しい、希望のある未来。残業のある世界の理想が行きつくその果てにある理想郷──残業ユートピアとは、残業が無い理想郷、それすなわち私が作った今のこの社会であると私は考える。それを否定できるというのなら、それ以上のより素晴らしい未来……キミたち自身の理想の残業ユートピアがあると言うのなら──さぁ、教えてくれ」
深呼吸一回分ほどの間を開けて。
誰もの注目が集まる中、先に答えたのは……労河原だった。
「──俺も、それがベストだと思います。残業なんて、許しちゃいけない存在だ。いくらなんでも……人間の尊厳があんな風に踏みにじられるのは、あってはいけない」
「……」
「そりゃ、お金は欲しいけど。だったらもっと他の方法を考えればいい。あの社会じゃ……そういう風に、考えることもできなかった。わずかなチャンスさえ、見出すことはできなかった。少なくともこの社会なら、自分のやり方次第で……いくらでも、足掻くことができる。それだけは、保証されている」
「……わかってくれて、嬉しいよ」
そして──その場にいる全ての人間の注目が、休恵へと集まった。
見られている、というのがはっきりわかる。答えを求められている、というのを肌で感じる。
ここまで緊張したことも、ここまで何か大きな決断をすることも、休恵にとっては初めてのことで──そして目の前にいるのは、休恵なんかが束になっても敵わないほどの経験と覚悟を持った、偉大な人物だ。
「お、れは……」
それでも。
それでも休恵は、他の誰でもない──自分の頭で考えた、自分の意見を貫いた。
「──わか、らない」
部屋に満ちる、奇妙な沈黙。
それを打ち破ったのは、勤堂総理だった。
「わからない? いったい何がだね? ……今この場での発言であれば、全てを個人の意見ということで不問にしよう。私はただ、キミの本当の気持ちを知りたいだけなんだから」
それは、勤堂総理大臣の心からの本音であった。もしここで休恵が残業に賛同しようとも、もしここで休恵がこの場にいる全員を口汚く侮辱しようとも、それが休恵の考えであるとして受け入れようとさえ思っていた。
だから、まさかわからないだなんて言葉が──よりにもよって、残業禁止法制定以来初めて明確に反逆してきた相手から出てくるなんて、想像だにしていなかったのだ。
「今の社会への不満は確かにある……ちょっと考えだけでも、改善点がいくらでも出てくる……」
「ふむ」
「だけど、前の暗黒社会は許されざるものだ……あんなの、絶対に認めちゃいけない……」
「……であれば、労河原くんと同じ意見なのではないのかね? 残業というその存在を、憎むということじゃないのかね?」
休恵は、大きく首を振って叫んだ。
「でも……でも! それを言うなら!!」
それは、単純な事実。
よくよく考えてみれば誰でもわかることで、しかし絶対に触れようとしなかった禁忌。
そんな禁忌を、休恵は泣きそうになりながらぶちまけた。
「総理……あなただって残業、してるでしょう……?」
総理大臣という、替えの利かない役職。何より、残業という恐ろしいほど巨大で邪悪な悪魔に立ち向かうのに、現行の一日六時間という限られた時間ではあまりにも足りなさすぎる。
だから、もし勤堂総理がこういう風に成果を出し続けるためには……すべての国民を残業という悪魔から守るためには、自身が残業をしなくてはならない。そうでなければ、この偉業は決して成し得ない。
残業を憎んでいる人間が。世界で誰よりも残業のことを滅したいと望んでいる人間が──そんな人間が、その願いのために自らを犠牲にして、自らの正義を捻じ曲げて残業している。
そのことに思い当たってしまったから……だから、休恵はわからなくなってしまったのだ。どちらをとっても総理を否定することになるから、選べなくなってしまったのだ。
そして、総理の答えは。
「ああ──してるよ、残業を。おそらく、この国で誰よりも」
休恵の葛藤なんてまるで知らないとばかりに、あっさりとそれを認めた。
「誰かがやらなきゃいけないのに、誰もやらない。なら、私自身がやるしかない。そうするべきだと私が思っているからこそ──私はそれを、例え法に背いたとしても成し遂げる」
「そんな! そんなの、あまりにも……ッ!」
「……それにね、これは残業禁止法を定めた私の、最後の仕上げ……いいやケジメでもあるのだよ」
この時、初めて。
勤堂総理は……どこか悲しそうな顔で、儚い笑顔を見せた。
「悲しいことにね、私のこの考えも──人が持つべきその正義の責任感も、悍ましき残業を生み出す温床となるんだ。良いとか悪いとかじゃなくて、純粋に原因の一つなんだよ」
「でも……そんなことをしたら、あなたは……」
それは、本当に穏やかな……安心しきった笑みであった。
「ああ。死刑は免れないだろうね。だから私は愚かにも残業を行った史上最悪の愚者として、キミたちの手本……いいや、見せしめとして死ぬと決めている」
迷いも躊躇いも、その一切が存在しない純粋な瞳。
「こんな考えの人間、いちゃいけないんだ。自己犠牲なんてバカらしい。みんなもっと自分のために生きるべきで、残業という概念そのものを未来永劫永遠に葬り去らなきゃいけないんだ。そのためには……人々の記憶に痛烈に残るような、最後の仕上げが必要なのだよ」
なぜだか休恵には、目の前にいるその人物が──どこまでも優しい、一人の老人のようにしか見えなかった。
「故に私は自らの仕事を全うする。残業という禁忌に手を染めてでも、残業をこの世から撲滅する。たとえそれで命を散らすことになったとしても、後悔なんてあるはずがない」
残業に家族を殺され、残業を殺すことに生涯をかけてきたその老人は。
「──これが私の生涯最後の残業であり、そして人類最後の残業としてみせる」
ゆっくりと立ち上がり、そして休恵の胸倉をつかんで引き寄せた。
「それだけの覚悟を持って、私は今ここにいる。その時が来るまで、歩み続ける──キミはどうなんだ? キミ自身が描いた理想のその果てにある残業ユートピアへ、キミは向かっていけるのか?」
▲▽▲▽▲▽▲▽
あの日と同じ、公園のベンチ。吹き抜けてきた冷たい木枯らしにぶるりと体を震わせて、休恵は雲一つない夜の空を見上げた。
冷たく澄んだ空。名前も知らない綺麗な星が輝いていて、まるで夢の国か何かに迷い込んでしまったかのように思える。
唯一残念なのは、こんな時間でも煌々と灯るビル明かりのせいで、その輝きを十分に楽しめないことだろう。残業のある社会だったら、街灯も消えているのかもしれない──と、休恵はそんな考えてもしょうがないことを考えた。
「……もう、すっかり冬だな。自販機、あったかいのが増えてたぜ」
「……そっか」
缶コーヒーを買ってきた労河原が、休恵の隣にやってきた。熱々のそれを休恵の手に押し付けて、パキっと景気よくその固めのプルタブを折り曲げる。
「なあ、休恵」
「……なんだ?」
「どうするんだよ、これから」
──あれからおよそ一週間。休恵は未だに、答えを出せずにいた。
「俺達はもう、自由の身だ。会社に復帰するのでもいいし、そして──」
あのあと。全てが終った後に勤堂総理大臣から提示された、新たなる道。
「──残業警察として。残業を取り締まる政府組織の一員として活動する道もある」
「……」
最初にそれを言われたとき、休恵も労河原も自分の耳を疑った。まさか残業テロリストとして捕らえられた自分たちが、それを取り締まる側としてスカウトされるだなんて、いったい誰が想像したことだろうか。
しかし、今の休恵たちは残業の恐ろしさを誰よりも知っている。それが討ち滅ぼすべき巨悪であることを、誰よりも理解している。おまけに一般には秘匿されていた残業の禁忌も、触れてはならない総理の禁断の秘密さえも知ってしまっている。
これだけでもう、残業警察として……それも、上層の幹部クラス候補生として迎え入れるには十分すぎる理由であり、そして休恵も労河原も、この現代社会で反逆の意志を発現させ、実際に行動に移したという実績持ちだ。
さらに付け加えるならば、労河原は残業を憎む明確な動機が……自分の父親と同じ存在を生み出させないという明確な理由があるし、そして休恵は、あの地獄を体験してなお自分の頭で考え、その意志をあの総理相手にぶつけることができたという代えがたい実力もある。
すなわち二人とも、残業警察として──これからの残業社会を導く新たな世代としての素質が、十分にあるということだ。
「……労河原、お前はどうするんだ?」
休恵は、熱いコーヒーを飲みながら問いかけた。
「俺は──誘いに乗ろうと思う」
労河原は、一切の迷いなく宣言した。
「元々、今の仕事は向いてるとは思えなかったし。親父の事件のせいで、社内での評価も……な。表向きは何でもないけど、やっぱりさ」
「……」
「あと、やっぱさすがは公務員だよな。給料が段違いだし、公舎に引っ越すこともできる。弟たちにとってもその方がいい。……ちょっと、自分でも怖いくらいに都合が良すぎるって思ってる」
「……金のために、残業警察になるってか?」
「ああ、もちろん。元々俺たちはそういう人間だろ」
でも、と労河原は笑って言った。
「だけど──それだけじゃない。俺達家族みたいな悲劇を無くしたいっていう気持ちは本物だ。だから俺は……総理が持っていた優しさと思いやりを持って、残業を駆逐する。今の残業警察のやり方を、内側から変えて……そして、総理も救いたいと思っている」
今の残業警察の、その理念は共感できる。
だけど、そのやり方まで共感できるわけじゃない。少なくとも、現行のままでいいわけがない。
だから自分が、もっと良い残業警察の在り方を探り、残業犯も、残業警察も──総理でさえも、全ての人間を救える残業警察を目指すのだと労河原ははっきりと言った。
「……欲張りだな、お前は」
「おうとも。総理だってそう言ってただろ。……でもって、人間ってのはそういう生き物だ。良くも悪くも、何かを追求せずにはいられない」
「人間、ねぇ……」
残業警察。
もちろん、メリットばかりじゃなかった。
「──残業警察になれば、もう人として扱われなくなる。その覚悟はできてるのか?」
残業警察とは、存在だけしか知られていない秘密の機関だ。名前だけは誰でも聞いたことがあり、そして存在そのものは公表されているものの……その実態は、政府関係者の中でも一部の人間にしか知られていない。
その構成員が、普通の人間であるはずが無かった。
「当然。あそこにいる人間はみんな、残業を憎む人間だ。残業の撲滅のために、人生をかけて良いと誓った人間ばかりだ。……みんな、残業に人生を台無しにされてしまった人間だ……ま、よく考えてみれば当然話だよな」
「……」
「そして有事の際は、人権を失う。だから、残業禁止法の枠組みを超えて活動し続けることができる。この日本で唯一、公的に残業をすることができる」
「……できるというか、規制対象にならないってだけだけど」
「そこが妙に総理の律儀な所だよな。最初から、残業警察だけは残業規制の対象にならないってすればよかったのに。……たとえ特例でも、残業を認めたくなかったんだろうな。そのためだけに人としての権利を放棄するなんて……俺が言うのもなんだけど、作った方も受ける方もすげえ覚悟だよ」
とはいえ、表向きには普通の公務員であるのに違いはなく、人としての権利を剥奪されるのはあくまで有事の時のみに限られる。何かあった時に何かされても文句は言えないが、それ以外は普通の人間と何ら変わらない。単純に、残業撲滅を何よりも優先した一生になるというだけだ。
──それだけの覚悟が無ければ務まらない仕事だとも言える。
「スズキさんにちょっと聞いたんだけど、マジに映画に出てくるエージェントとか特殊部隊みたいな訓練をするらしい……ま、俺のことは良いとしてだ」
労河原は、ゴミ箱に向かって空になったコーヒーの缶を投げた。
「休恵、お前は?」
「……」
「個人的な要望を言うなら……できることなら、俺はお前に一緒に残業警察になってほしい。お前と一緒なら、総理の理想すら超えた、誰も悲しまない本当のユートピアを……残業のない世界の理想が行きつくその果てにある理想郷──残業ユートピアを作れる気がするんだ」
「……」
「俺とお前が一緒なら、絶対にできる……なんたって、一度は残業テロリストとして社会をひっくり返しかけたっていう実績付きだぜ?」
「……」
「古沢さんも、定年を迎えたら残業監督官として残業警察に関わっていくようにするって言ってただろ? それってつまり……お前が誘いに乗るってことを見越してるわけだ。だからそれまでに鍛えまくって、最強の残業警察になって驚かせてやろうぜ? 俺達ならそれができるし……それに俺とお前、古沢さんにヤマダさんにスズキさん……きっと楽しい職場になる。そもそも、お前だってもう会社には……」
「労河原」
残業が許されていたあの旧社会。あれが地獄であることは休恵も認める所だ。あんなもの、この世に存在していいはずがない。
じゃあ残業が規制されている社会は正しいのか。毎日きっちり六時間だけ働き、自由な時間がしっかりある──されど、何かを成すための金が無い社会は、果たして本当に正しいのか。
「……わからないんだ。本当に、今の社会が正しいのか」
休恵はどうしても、そこが引っ掛かっていた。
だって──どうしても、残業そのものが悪だとはこの期に及んでなお思えないのだ。重要なのは残業の量そのもので、それが適切であるならば、きっとあのプログラム一日目のように、誰もが満足できる社会生活になると思えてならないのだ。
そう──勤堂総理のあの考えは、残業を許したが最後、それが加速していつしかあの地獄の暗黒社会になるというその考えに基づいている。
言い換えれば。
人類が愚かでなければ。自らを律し、抑制することができるならば。
適切な残業が実現した──そんな社会が生まれるのではないのか。
もし、残業警察に入ってしまったのなら……そんな、起こりえるかもしれない希望の未来の芽でさえも、問答無用で刈り取ってしまうことにならないだろうか。
なんだかんだ言っても【残業を絶対に禁止する】というそれは、方向性が違うだけで、【残業を絶対に行わせる】という暗黒社会がやったことと同じことなのだから。
人類の善性を信じたその結果を──その未来がどうなるのか、休恵はその可能性を捨てたくないのだ。
「俺にはまだ、わからない。本当に正しいことが何なのか、この社会が行きつく未来が何なのか……本当になすべきことが何なのか」
「休恵……」
「──だからお前は、その信念通り残業警察を中から変えてくれ。いつか必ず追いつくから……先に向こうで、待っていてくれないか?」
「……それは、いつか残業警察に入ってくれるってことか?」
「さぁな。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。もしかしたら、史上最悪の残業テロリストとして相対するかもしれないし、全く別の第三勢力になっているかもしれない」
「お前なあ! 俺は本気で……!」
「──俺だって本気だよ。どういう形であれ、本気でこの国を良くしていきたい。その気持ちだけは……みんなと全く同じだ。だから、真に成すべきことを……俺自身が描いた理想が行きつくその果てにある理想郷──残業ユートピアを、本気で探してみる」
誰かの願いでも、誰かの誘いでもない。それらはきっかけであるかもしれないが、決して目的にはなり得ない。
そうではなくて──休恵は、休恵自身の考えをもって決断をしたい。たとえどういう結果になろうとも、自ら行きついたその答えにこそ本当の理想があると信じている。そうでなければ、きっと何も成し得ないのだろうと、奇妙な確信を抱いていた。
「幸か不幸か、俺には残業が無い──時間だけは、たっぷりとある。この先のことについて、ゆっくり考えてみるさ」
木枯らしが吹く、初冬の夜。
さっぱりとした穏やかな顔で笑った休恵は、熱い缶コーヒーを握り締め、冷たい風と共に誰も知らないどこかへと歩いて行った。
【残業ユートピア:了】
Q.それでもあなたが目指す、本当の『残業ユートピア』とは?
1. 残業が許された、自由な時間も平穏も無いがお金を稼げる社会。
2. 残業が禁止された、お金は無いが自由な時間と平穏が保証された社会。
3. そのどちらも出ない、自分自身の答えがある。
以上にて、【残業ユートピア】は完結です。ここまでお付き合いくださいまして誠にありがとうございます。
ここまで読んでくださった皆様であれば、色々諸々思う所や言いたいことなどあると思いますが、ぜひとも上記質問についてご回答いただけると個人的には嬉しいですね。
ちなみに私は、一切の迷いなく2番です。人間はもうちょっとこう、せっかくできた余裕を余裕として楽しむことを覚えるべきだと思います。
長々と語ってもしょうがないので、ここらで終わりといたしましょう。最後に、とっても大事な一言をもって締めたいと思います。
──この物語はフィクションです。実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
それでは、またどこかで。 【ひょうたんふくろう】




