第8話 岩流瀬と二宮尊徳
2018年7月24日 サブタイトル変更いたしました。
一祈の予報通り、その日の6限目を終える頃になると教室から見える空は分厚く黒い雲に覆われていた。当然いつも窓越しに見えている富士山はおろか金時山すらも望む事が出来ない。
校庭の隅に佇む二宮金次郎の像も心なしか大雨を心配しているように見える。
あまり知られていないのだが、酒匂川の堤防の基となる治水工事をしたのも二宮金次郎、後の二宮尊徳だ。
「傘持ってこなかったよぉ」
「私もぉ!!」
「すげー空だな。こりゃあ、岩流瀬の方は、もう降ってるべ」
教室の中では、帰りの準備を始めたクラスメート達が窓の外を眺めながら思い思いの言葉を並べている。
「別所君、一祈ちゃんが呼んでるよ。廊下で待ってるって」
春久にそう話しかけてきたのは、能美由香だった。
息を呑むほどの美少女と言う陳腐な表現があるが、彼女が正にそれだと春久は思っていた。腰まで届くその黒髪はクセが無く真っ直ぐな上に艶やかで、長い睫と吸い込まれるような瞳はいつも静かな憂いを湛えている。そして、小さく丸い顔は透明感すら感じる程白く、薄い唇は小さな品の良い赤い弧を描いていた。身体の線も瑞々しい上に一つ一つの所作に艶があり、嫌が応にも異性を強く感じてしまう。
「和泉が? そういや今日、声楽部に見学行くから付き合えとか言われてたな」
別に一祈との約束を忘れていた訳ではないが言葉が上手く出せない。
「うん、一祈ちゃんからも聞いてるよ。別所君も今日見学に来るんでしょ?」
「和泉は見学だけど、俺は時間つぶしだよ」
春久と一祈は小学4年生の時にお互いを名前呼びしている事をクラスメートにからかわれて以来、プライベートと学校では呼び方を使い分けていた。
「一祈ちゃん、私が誘ったの。声楽部に来ないかって……歌、上手だし」
透明感のある能美の声に、ふと昨日の昼休みに見た彼女の涙を思い出す。
「そうなんだってな。俺は顔を出すだけだけど、後で行くから宜しく!」
「うん」
何をどう宜しくなのだろう?
春久は自分自身にそう問い質したが、答えなど分かるはずもなく、ただ、急ぎ荷物をまとめ、鞄を担ぐと一祈の待つ廊下へと向った。
廊下に出ると一祈が3人程の男子生徒に囲まれていた。
背はけっして低い方ではない一祈だが、坊主頭の野球部員と思しき体格の良い生徒達に囲まれるとやはり小さく見えてしまう。そして何よりも今の一祈は明らかに困惑している様子だ。
「和泉。悪いな待たせて」
春久の声に一祈が男子生徒たちの間から顔を覗かせる。男子生徒たちは明らかに顔を顰めていた。
「はる……別所君!! 遅いよぉ」
パタパタと小走りに春久に近寄ってくる一祈。
「じゃあ、俺たちは練習に行くから和泉さんも考えておいてね」
眼鏡をかけたリーダーらしき男は一祈そう声を掛けると、なぜか春久に目線だけで笑いかけ、階段のある西側へと向っていってしまった。
「……遅い!!」
一祈は明らかに拗ねている。
「まぁ、その、すまない」
あまり責められる謂れは無いような気もするのだが、とりあえず頭を下げる。
廊下にいる生徒たちの視線が自分たちに集中している気もしたが、今は気にしても仕方がないだろう。
「あいつらは?」
「野球部の1年生。分明中出身の福富君と都筑君とかいう人。もうひとりは名前も教えてくれなかった。野球部のマネージャーにならないかって誘われた」
何となく言葉に違和感を覚える。
「入る気なんて無いだろ」
「うん。声楽部に入ろうと思ってるって伝えたんだけど、座りながらボールを磨いてれば良いから楽だし、野球部のマネージャーなら学校のカースト上位だとかって言ってた……今度、声を掛けられたら、もう一度しっかりと断るよ」
表情に険が見える。元々、思っている事が顔に出やすいタイプという事もあり、非常に分かりやすい。
一祈は昔からひとつの物事に熱量を集中する事を好む。それに物事をやっつけで行う事がその性格的に出来ない。そしてなによりその手の厭らしさを極端に嫌う。ある意味野球部の勧誘の仕方は一祈に対しては最悪に近いアプローチと言えた。
一瞬、廊下にスッと影が落ちる。
それは空に浮かぶ雲がより厚さを増した為だ。おそらく直に一祈の予報通りゲリラ豪雨が降ってくるのだろう。
廊下では生徒達が「ヤベぇー」「こわっ!」「こりゃくるな」等と声をあげている。
「そろそろ、声楽部に行かないと」
一祈は眼鏡の位置を直して、腕時計で時刻を確認すると慌てて歩きはじめた。
「そうだな」
そう答えた春久も、暗くなり始めた空を窓越しに眺めながら音楽室へと向かいはじめた一祈の後に続く。
音楽室は西棟4階の一番隅にある。
防音壁であるものの、多種多様な楽器の演奏や合唱などが行われる性質上、隅っこの方が都合良いのだろう。
本来、音楽室へ向かうのであれば東棟を4階へと上り、通称“空中回廊”と呼ばれる4階部分にある東西の棟をつなぐ通路を通るの音楽室への最短ルートなのだが、学校における暗黙の不文律により、3年生以外は空中回廊の使用を許されていない。
よくあるくだらないルールなのだが、そのルールの為1.2年生は皆わざわざ一旦1階まで降りて、1Fの“地上回廊”と呼ばれる通路を通り、西棟へ渡った上で再度階段を使い4階まで上がらなければならないのだった。
「ハル!!」
春久がそう呼び止められたのは、ちょうどその地上回廊を通り抜けている最中だった。
「あっ、大ちゃん」
声を上げたのは呼び止められた春久ではなく、隣にいた一祈だった。
「庚先輩だろ!」
春久は回廊の窓越しに見えるジャージ姿の庚大地に軽く頭下げつつ、一祈に注意をする。
「庚先輩スイマセン。昔のクセで……」
一祈は慌てて訂正し、頭を下げる。
「気にしなくていいよ。ハルなら怒鳴り飛ばすところだけど、和泉なら大ちゃん呼びは歓迎だよ」
笑顔を浮かべて、そう話す庚大介は、春久たちと同じ町内に住んでいる謂わば昔馴染みだ。学年は2つ上だが、昔から面倒見が良く、性格も温厚だ。多分、春久が昔のあだ名で呼んでも怒りはしないだろう。
「ハル、例の件はどうだ?」
高校の入学式初日に春久のいる教室に直々に訪れ、陸上部に勧誘をしてくれたのも庚だった。
「正直、まだ決めあぐねてます」
春久は正直に答えた。
「相変わらずだな。優柔不断というタイプでは無いのになぁ。まぁ、ハルらしいって言えばハルらしいけどな。今日あたり声を掛けてみてくれって、昨日、文吾からもメール貰ってな……あいつも中学の時から変わらないな」
そう言いながら乾いた笑いをもらす。確かに世話好きの文吾らしい行動だ。
庚は続けた。
「難しい事は考えず、2,3日練習にだけ参加してみるのはどうだ? その結果入部しなくても責めはしないさ。部長のオレが言うんだから安心しろ」
庚は小学生の時から度量が広く、春久のような集団の中で浮きがちな人間にも常に気を掛けてくれていた。
「……」
隣にいた一祈が春久の肘を突付く。彼女の言いたい事は何となく想像がつく。文吾や庚先輩にここまで気を使って貰っているのだから、それなりの返答をしろと言いたいのだろう。
「ありがとうございます。では、来週の月曜日から顔を出します。」
「そうか! 悪徳商法みたいな勧誘だけど頼むな。ここまで誘っておいて何だが無理はするなよ。なんだかんだでウチは進学校だからな、学業優先ってのが基本的なスタンスだ。まぁ、実際は部員が少なくて困っていると言うのがオレの本音なんだよ。3年はオレを含め5人いるが、2年は3人しかいないし、頭が痛い事に新1年生に至っては未だ新入部員が1人だけなんだよ。泣けてくるだろ?」
「そんなに人気が無いんですか?」
「おい!!」
一祈のデリカシーのない言葉に今度は春久が肘で突付く。一祈も思わず口を押さえていた。
「はははっ、手厳しいなぁ。まぁ、事実だから仕方ない。しかし、これでハルが入部してくれれば、1年生は2人とも関東大会経験者って事になる。まぁ、ウチは量より質で勝負だよ」
そう言いつつウインクしてみせる庚。
しかしその実、陸上に於ける関東大会経験者と言うのは、他の部と比べれば、その競技数の多さも手伝って、かなりの人数がいる。当然、庚もそれを知らないわけではないだろう。恐らくは春久の関心が少しでも高まればとの配慮だ。
「じゃあ、月曜日にグランドの南側に来てくれ。丁度、あの砂場の前あたりがウチの縄張りだ」
そう言いながら庚は目線だけで砂場の方角を春久に示した。地上回廊からだと砂場の位置はかなり奥になる為、よくは見えないが、ひとりの赤いジャージを着た女性が、ストレッチをしている姿が目にとまる。一祈も同じ方向を見つめていた。
「分かりました。宜しくお願いいたします。」
春久はもう一度頭を下げる。
「楽しみにしてるよ。まあ、この空じゃあ、今日はウチもウエイトとミーティングになるだろうから、ハルの事はミーティングの時に他の部員にも上手く伝えておくよ」
庚は、少し恨めしそうに空を見上げると、じゃあなとばかりに右手をあげ、陸上部らしい軽ろやかな足取りで、砂場の方へと走っていった。
「また、かけっこするんだね」
一祈は春久の顔を覗きこみ微笑んだ。
「そうなるな」
部員は10人にも満たない少所帯、部長は人格者、勝手な物言いだが条件はかなり良い。何事にもこう言ったキッカケを求めてしまう自分の性格が少し嫌になる。
「一祈もハルちゃんくらい、運動神経がよければなぁ」
確かに自転車にすら乗る事が出来ない一祈は、お世辞にも運動神経が良いとは言えない。
「俺くらいのタイムのヤツはゴロゴロいるよ。現に関東大会は予選敗退だった」
春久の出場した男子中学生200m走の世界では、24秒台前半でない限り全国では早いうちにも入らない。高校ともなれば23秒台でなければ話にもならないであろう。
「それでも、やっぱり関東大会出場はスゴイ事だよ」
一祈の妙にまじめな褒め言葉に春久は何と答えて良いか分からず、ただ、黙って雨が降り出しそうな空を眺めていた。