第35話 お礼と舌打ち
朝。玄関の扉を開けると一祈と視線がぶつかった。
火曜は声楽部、陸上部供に朝レンがある。特に約束をしていた訳ではないが、家が向かいで目的地も目標到達時刻も同じであるならば、顔を合わせるのも不思議な事ではない。
「昨日はゴメン。もう少し言い方があった」
春久は素直に頭を下げる。
「ホントだよ。ハルちゃんは結構短気だし、その上頑固で理屈っぽいでしょ。それに融通が利かない上に冗談も通じない。斜に構えているかと思えば、変に真面目だし、更には、めんどくさがりでコミュ障気味、あとはファッションセンスは昭和だし・・・・・・」
最後の方は笑い声が混じり殆ど聞き取ることができない。
「あのなぁ」
春久は薄く睨みを利かせたものの、目の前にいつも通りの一祈がいる事に安堵を覚えていた。
「でも、素直に謝れるところはハルちゃんの意外な長所だよね」
笑顔に当てられ少しだけ視線を逸らす。
「褒めてねえぞ、それ・・・・・・」
抗議しつつ、学校へふたりで歩き出す。
「それと、一祈もごめんなさい。ハルちゃん被害者だもんね。面白おかしく噂されたりしたら不愉快なの当たり前だよね」
先ほどの言ではないが、一祈は感情も表情も豊かだが、同時に自身が悪いと感じたことには昔から素直に頭を下げる事が出来る少女だった。
「その件は、もうお互い様ってトコロにしておこうぜ。まぁ、俺は被害者って言われてもピンと来ないけどな。あと親父たちには警察から連絡があったみたいだ」
春久は昨日の晩、両親から報告を受けた内容を一祈に話した。
「じゃあ、やっぱりハルちゃん達を襲った犯人は、噂どおり学校に出入りしていた会社のオジサンなんだね」
「そうらしい」
「一連の気持ち悪い嫌がらせも、その人なんだよね」
一祈の言葉に春久はカミソリの仕込まれた写真を思い出す。
「親父の話だと警察もその可能性が高いと言っていたみたいだ。警察は明日の放課後、学校にも来るらしい。多分、声学部全員が事情聴取を受ける事になるんじゃないかな? 」
通学路である商店街を抜けると人通りが増え、その中には同じ八千代部高校の生徒の姿もちらほらと見受けられた。
「私たち犯人でもないのに、何で事情聴取を受けるの?」
大きな声を上げて驚く一祈。どうやら一祈は事情徴収というものを勘違いしているらしい。
「事情徴収って、犯人だけが受けるものじゃなくて、被害者や目撃者も受けるんだよ。よくあるだろ“その時の状況を詳しく教えてください”ってヤツ。あれだよ。俺もこの前受けたけど、あった事をただ話すだけで、そんな大げさなもんじゃねえよ」
春久の視線の先に酒匂川が見えてきた。橋を渡り川沿いに北へ向かえば八千代部高校に到着できる。
「それでも緊張するよ。ハルちゃんみたいに心臓に毛が生えている訳じゃてないんだよ、一祈は」
不安そうな表情を浮かべる一祈。とは言っても冗談交じりだ。
「大げさに考えるなよ。ホントに大丈夫だからさ」
「美夏お姉ちゃんがよく言ってたけど“ハルちゃんの大丈夫は大丈夫じゃない”から不安だよ」
美夏の口癖を真似る一祈を見るのは久しぶりの気がした。
酒匂川を跨ぐ大橋の前での信号待ち。
文句を言いつつも機嫌が良くなってきたのか一祈は例の『赤〇花・白い花』を口ずさみはじめた。
朝、まだ早い時間にもかかわらず、交通量の多い大橋は、排気ガスの臭いが立ち込めている。春久は、一祈の左側へと位置を移す。
歩行者専用の信号が赤から青へ変わった。
短めの横断歩道を渡り、カードレールの無い歩道を歩く2人の横を大きなトラックが連なり走り抜けて行く。トラックの風圧に舞う砂埃が春久の左頬を掠めていく。
「瀬谷さ・・・・・・リリア、妹に会えて喜んでたよ」
「そうなんだ」
「ハルちゃんにも凄く感謝してた」
「大げさだよ」
「ゆかぽんもだよ。もう身体も大丈夫だから、今日の午後から学校にも出てくるって」
「そうなんだ」
春久の脳裏にあの時の白い瞳が浮かぶ。
大橋を渡りきり、川沿いを真っ直ぐに伸びる遊歩道を歩いていく。200mほど前には学ランを着た長身の男性の姿。そのすぐ隣にはやたらに小柄な女性。恐らくは庚大介と獅子ヶ谷さくらだ。
一祈もその姿を認めたのか、歩くスピードを緩めていた。
「2人ともお礼がしたいって言ってるんだケド・・・・・・」
「そんなモンいらねえって言っといてくれ」
そう答えたものの、少しだけ鼓動が早まっていた。
「話は最後まで聞いて。でね、ハルちゃんもうじき誕生日でしょ? だから声楽部1年3人でそのお祝いも兼ねて、夕飯をご馳走しようって事にしたんだ」
あまりに唐突な申し出に何と答えてよいか春久は言葉を探していた。
「“したんだ”って言われてもなぁ」
何とか平静を装う。
「昨日、3人でラインやり取りして、一祈の家に集まって料理作ろうって・・・・・・ ウチならハルちゃんも来やすいしだろうし。それで、今週の金曜日の夜なんだけど空いてる・・・・・・よね? 」
ある意味、強制のような言い方にも取れなくもないが、それ以上に頭の中が混乱していた。
「金曜日の夕方は文吾に本を返す約束はしてるけど、アイツも稽古に行く前だから、そんなに時間ねえみたいなんだよな・・・・・・」
「なら、大丈夫じゃん」
一祈は事も無く笑っている。
「そうだけどよ・・・・・」
正直、二の句が告げない。
「ハルちゃん、さっきの言葉返すようだけど、大げさに考えすぎ! 部活のみんなでご飯を食べるんだって考えれば良いんだよ」
そんな春久を見透かしたような一祈の言葉。
「まぁ、飯食うだけなら・・・・・・」
「よしっ! じゃあ決定ね。それとこの事は誰にも話しちゃダメだからね」
「ああ」
こんな事を学校で話したら、面倒な事になるのは春久にも想像はつく。
舞い上がる気持ちを静めるため、春久は酒匂川の川面を眺めながら大きく息をついた。
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「22秒19!!」
朝のグラウンドに福浦副部長の声が響く。湧き上がるどよめき。
春久のベストタイムだ。
「マジかよ!」
「庚君から聞いてはいたけど、ここまで速いの?」
「今の手動だろ? ちゃんと計ればコンマ1秒は違うんじゃないか」
「タイム上がって来ること考えると21秒台狙えるわ」
膝に手を当てて呼吸を整える春久をよそに、3年生たちはストップウォッチを何度も確認していた。
「受験でブランクがあるのに少し練習しただけでコレなら、マジで関東大会、いやインターハイ狙えるわよ。別所君」
タイムを計ってくれた福浦副部長も少し興奮気味だった。
「いや、今のはマグレみたいなものです。それに県記録は20秒93って化けものじみたタイムですし・・・・・・自分なんて・・・・・・」
テレをごまかす様に春久は息が切れてるフリを続けていた。ちなみに高校生男子200m走の日本記録は20秒34。上には上がいる。
「キミは1年生。高校生活はあと3年あるわ。中長期的な計画を立ててトレーニングをすればホントに狙えるわよ。このタイムがマグレでは出せない事くらいスプリンターならわかるでしょ? 」
本当の所、偶然でない事は春久が一番理解していた。そして、まだそれを自分のモノに出来ていない事も。
実はスタートの方法を試験的に変えていたのだった。
きっかけはストーカー男。
あの男と対峙し、体当たりをするた為に地面を蹴った時の感覚。良い意味での力みをを残したようなスタートの仕方。
あの時はスタンディングでのスタート。当然、クラウチングスタートの時より腰は高い位置にくる。それがヒントだった。
中学時代、春久は出来るだけ早く前方に体重を移すため、かなり前掛かりで低いの姿勢でのスタートを得意としていた。
だが、今はスターティングブロックの左右の間隔をいつもより溝ひとつ分だけ狭くしてスタートを行ってみたのだ。間隔を狭めた事により、腰の位置が僅かながら高くなり、その作用として蹴り足には力が生まれ、身体の軸もスムーズに安定するようになった。軸の安定は早い段階での加速を発生させる。それは当然タイムにも影響する。
しかし正直な所、ここまで嵌まるとは春久も思ってはいなかった。自分をもて囃す雰囲気から逃げる為、上級生たちにスタートに変化を加えた理由を簡単に説明した。
「色々と考えてんだな・・・・・・はじめて見た時なんて、学校ジャージに緑のシューズのセンスだから、“大丈夫か?コイツ”って思ったけどなぁ」
桜木はからかう様な視線を送りながら白い歯を見せる。
「私なんてアレを見て、“庚クンの目は節穴なんだなぁ”って思ったくらいだもん」
茶目っ気たっぷりに春久に笑いかけてくる福浦副部長。
同級生ふたりのやり取りを面白そうに聞いていた庚が春久の肩に手を回してきた。
「どうだ、お前ら! 俺の目には狂いが無かっただろ? 昔からケロリと驚くような事をやるんだよ、コイツは!」
「ありがとうございます」
我が事のように喜ぶ庚に頭を揉みくちゃにされながら春久は大きく頭を下げた。
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SHRの時間までは、まだゆとりがあった。
男女が分かれていない八千代部陸上部の部室は基本的に女子専用であり、男子は3年生であっても部室脇の軒下か西棟1F脇が着替え場所だ。そしてグランド練習時の施錠・開錠は1年生が行うのが長年の慣習だ。
着替えを終えた春久はもう一人の1年生である中里理穂子を待ちつつ、部室の横でカロリーメイトを口にしていた。
「何だ、いたの?」
部室を出てきた中里の第一声。明らかにトゲがある。
「職員室に部室の鍵届けなきゃいけないだろ?」
昨日の一件もあり、春久は出来るだけ穏かに言葉を返した。
「鍵は私が戻しておくから先に教室に行っていて良いんだケド」
やはり、そうとう機嫌が悪いように思える。
春久は気持ちを抑える為、カロリーメイトを口に放り込み、それをポカリスエットで胃に流し込む。
「鍵を返すのは1年の仕事だろ?」
出来るだけ押え気味に問いかけた。
「仕事だって、バカみたい。鍵を返すくらい誰がやっても一緒でしょ」
何となく絡むような言い草に聞えた。
「じゃあ、鍵をよこせよ」
「はぁ!?」
「誰がやっても一緒なんだろ? なら俺が返しても同じだろ」
「・・・・・・理屈っぽい男」
中里は視線を前に向けたままそう言葉を洩らし、春久に部室の鍵を渡して寄こす。ブレザーの袖から覗く手首が彼女の背の高さと相俟って異様に細く見えた。
「なんなんだよ。アイツ・・・・・・」
春久は中里の背中を見つめながらそう独り言をつぶやいた。
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5時限目。
昼食を食べての授業は、得てして眠い。
まどろむ意識の中、教室後方ドアをノックする音が聞こえた。
静かに開く扉。
「先生、遅くなりました」
自然とクラス全員が後ろを振り向いた。
頭を下げながら、入室して来たのは能美由香。ゆっくりと頭を戻す彼女の髪には橙色の小さな髪留めが揺れている。
いつもと変わらぬ深く静かで黒い瞳。
そして、いつもとは違う髪型。
黒髪の右側を小さく結い上げたその姿。
春久も知らずして見惚れていた。
いや、クラスの生徒の多くがその能美の姿に一種の感動を覚えているように思えた。
男子生徒の息を呑む音が漣のように教室に流れる。
それは、感嘆の連鎖だった。
確かにひとりひとりは小さく抑えて息を呑んでいたのだ。
しかし、それを教室と言う狭い空間で、しかも多くの男子生徒が同時に行った為、それはもう“小さく息を呑む音”ではなく“感嘆のうねり”となっていた。
「……チッ」
シュールとも取れるその空間にどこからかともなく聞えた小さな舌打ち。
その悪意ある音に春久は我に返る。
「能美か、聞いているぞ。席に着きなさい。他のみんなも前を向いて、じゃあ、46ページの3問目からな」
場を納めてくれたのは数学Aの五島先生の声。
春久は黒板につらつらと書かれた因数分解の公式をノートに書き写しながら、聞えた舌打ちの意味を考えていた。




