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その飲みかけ致死量につき。――男女比1:4の世界で普通に生活する俺が、飲みかけボトルを置き忘れた結果  作者: やっくん


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6話 その吐息、致死量につき

――おおとり 麗華れいかの視点――



 真実は、数字ではなく、現場に現れるもの。


 それがわたくしの持論です。


 鳳グループの次期後継者として、わたくしは自身の経営する店舗カフェレゼールにおいて、定期的に正体を隠して覆面リサーチを行っています。


 変装という名の仮面を被り、末端の従業員たちが鳳の規律を守っているか、あるいはブランドの価値を貶めていないかどうかをわたくし自身で確認いたします。


 そう、わたくし自身で。


 眼鏡レンズに投影されるのは、血も涙もない人事評価という名の死刑宣告。


 今回の標的は、この店舗で売上好調の要因と噂される男――結城ゆうき ゆう


(もし鳳のルールに従えぬ無能だった場合は、わたくし自らで引導を渡して差し上げますわ)


 そんな聖戦のつもりで、わたくしは研修生・小鳥麗華ことりれいかとして、この泥臭い現場へと足を踏み入れました。

 

 小鳥は偽名、麗華の名は本名ですけど、まさか本当に鳳であるとは誰も思わないでしょう。



「失礼いたします。本日よりこちらの店舗で研修を受けることになりました、小鳥ことり 麗華れいかと申します」


 名乗った瞬間、店内の空気が一瞬にして凍りついたのを肌で感じました。


 鳳家の人間として、幼少期から施されてきた英才教育。一分の隙もない立ち居振る舞い。


 それが平民たちの安らぎを凍りつかせる、絶対的な断絶の証として映ったのかしら?


(どうやら変装という名の仮面を被っていても、わたくしの放つ覇気までは隠しきれなかったようですわね……これは気をつけないといけませんわね……)


「あ、ああ、君が新人さんか。担当は、この結城ゆうき ゆうくんだ。よろしく頼むよ」


 店長が、わたくしから逃げるようにして、足早にバックヤードへ消えていきました。


(店長はわたくしに気づいているのかしら……そんなわけがないですわね。完璧な変装ですもの。わたくしの放つオーラに圧倒されただけのことですわ)


 そして、後に残された彼は困ったような苦笑いを浮かべながら、わたくしの前に進み出てきました。


「よろしく、麗華さん。僕は結城。そんなに緊張しなくていいよ。この店は楽しい場所だからさ」


 彼は親しみやすさを込めて、無防備に右手を差し出しました。


「ご丁寧に恐れ入ります、結城様。私、早く戦力になれるよう努力いたします。ご指導、よろしくお願いいたします」


(……なんですの、この男。わたくしの威圧を前にして平然と笑って手を差し出すなんて。無礼、あまりにも無礼ですわ!やはり一般人は汚らわしい!……見た目だけは及第点かしら)


 わたくしは眼鏡を指でクイと押し上げ、胸ポケットに忍ばせた鳳チェックシートを開きます。


 カキカキ。


 結城 悠:第一印象。身分をわきまえない馴れ馴れしさ。評価――×(バツ)


 自らが立ち上げたブランドであるレゼールに泥を塗るような意志の弱い無能を排除するための、聖戦。


 この男が、わたくしの定める基準に値しない存在であれば、即座に切り捨てる。それだけのことです。


「じゃあ、まずは接客の基本から。あ、ちょうどお客様だ」


 来店したのは、かなり恰幅のいい中年男性でした。


(常連の依存度の高い客。パフェ三つ。客単価の上昇。売上への貢献度、高。ここは季節限定トッピングや追加注文のお勧めを重ね、さらなる利益を……)


「佐藤さん、今日はパフェ、一つにしておきませんか?」


 わたくしの思考が、物理的に停止しました。


 彼はメニューを下ろし、困ったように、けれどどこか慈しむような眼差しで客を見つめていました。


「奥さんから聞いたんですよ。最近、血圧を気にしてるって。今日、ここで三つも食べちゃったら、明日からまた奥さんに怒られちゃうでしょう? その代わり、新作のノンシュガーハーブティーをサービスしますから。ね?」


「……参ったな、悠くんには敵わないよ。じゃあ、今日はパフェ一つと、そのお茶にしようかな」


(な、なんですって……!?)


 佐藤と名乗るお客は、どこか嬉そうに笑って席に着きました。


 シュバ!


 わたくしは即座に鳳チェックシートを展開して書き記します。


 利益を自ら捨てるなんて、商売人としてあるまじき行為! 鳳規範第12条売上機会の損失。評価――致命的な×(バツ)!


 その後も、わたくしの手帳には×(バツ)が連発されます。


 店の前でソフトクリームを落として泣きじゃくっている子供がいました。


 彼はすぐに駆け寄り、汚れも厭わずに子供の目線に合わせて話し始めました。そして勝手に新しいソフトクリームをプレゼントしました。


 子供は泣き止みましたが、お礼も言わずに去っていきました。


(ほら、見なさい!そんなことをしても意味などなくてよ!)


 シュババ!


 再び鳳チェックシートに書き記します。


 鳳規範第5条威信の失墜。下民に膝をつくなど許されません。しかも公私混同で勝手にお店の原価を流出させるなんて。評価――救いようのない×(バツ)!



 数日後。


 テーブルの制限時間を過ぎても、顔を伏せて泣き続けている女性客。


 わたくしが「お時間です」と告げようとした瞬間、彼はそれを制し、そっと温かいコーヒーを差し出しました。


「ゆっくりしていってください。気が済むまで、ここにいていいですから」


 わたくしは呆れ果てていました。


(回転率の低下。効率を最優先する鳳の正解から、この男はあまりにも遠すぎる。結城 悠……貴方は、来週でクビ確定ですわ。オーッホッホッホ……!)


「…アハハ……ハハ」


 思わず漏れそうになった高笑いを引きつった咳払いで誤魔化しながら、わたくしは胸の手帳に大きな×を書き込みました。


 わたくしの鳳チェックシートは、もはや余白がないほどに×(バツ)で埋め尽くされていました。



――しかし数日後。


「悠くん、先日はありがとうね。おかげで妻に逃げられずに済んだよ。これ、実家から届いたリンゴなんだけど、みんなで食べて」


 先日、注文を止められた佐藤さんが、山のような差し入れを持って現れました。原価計算には決して現れない信頼という名の果実。


 また別の日には。


「悠お兄ちゃん、この前はごめんね! ありがとう!」


 ソフトクリームを落とした子供が、今度は母親を連れてやってきました。


 母親は「息子がどうしてもここでお礼を言いたいって聞かなくて。今日は家族全員で食事をさせてください」と、贅沢なレゼール特性フルコースを注文しました。


 そして、失恋して泣いていた女性。彼女は今、晴れやかな顔で友人を連れ、何度も店を訪れています。


「あの時、追い出さずにいてくれたのが嬉しくて。ここのファンになっちゃった」


 わたくしは、カウンターの陰で立ち止まりました。


(……どういうことですの。売上を捨て、威厳を捨て、効率を捨てたはずのこの店が……なぜ、以前より活気に満ち溢れているのです……)


 鳳家の教育では、人は恐怖と利益で動くものだと教わってきました。


 けれど、目の前の光景は、マニュアルにはない何かによって動いている。


「……麗華さん? どうかした? 顔色が悪いけど」


(ひっ……! 結城悠が心配そうに覗き込んでくるたび、わたくしの心臓が不快なほど激しく跳ねますわ)


「なんでもありませんわ! 私は、ただ……効率の悪い現場だと思っているだけです!」


「あー、そうだね。効率も大事だよね。でも周りが笑ってくれたから結果オーライかなって」


(笑ってくれたから結果オーライ……? 人生の全て鳳に捧げてきたわたくしに、そんな楽観的なことを……!)


 わたくしの心の中で、何かが激しく軋みました。



 ――夕暮れ時。


 高級リムジンの後部座席で、わたくしは黒いウィッグを脱ぎ捨てました。


 夕陽を浴びて宝石のような金髪が車内に広がります。


「九条、窓を明けて」


「はい、ただちに」


 ポイッ。


 わたくしは下がった窓ガラスの隙間から変装用の眼鏡を外に放り投げます。


 そして、手元に開いた鳳チェックシートを見つめます。


 赤ペンを取り出し、


 くるくる、くるくる、くるくる、キュッキュッキュ。


 ペン先が、無数の×(バツ)の上を滑るように走ります。



 見開きいっぱいに、力強い大きな花丸がひとつ。



「結城悠……」


(その名を口にするだけで、なぜか胸の奥が焼けるよう……言葉にできない高揚感が全身を駆け巡りますわ)


 規律と規則こそが絶対だと信じていた私の世界を、彼はその泥臭いお人好しで見事に塗り替えてしまった。数字では測れない人の心の温かさを、彼はあんなにも軽やかに証明してみせた。


 開いた窓から吹き込む夕暮れの風が、わたくしの金色の髪を解き放つように揉らせます。


「……はぁ。……気持ちいい……ですわ」


 憎らしいほどに無垢で、けれど誰よりも強い彼の輝きが、今やわたくしの瞳には何よりも尊いものとして映るようになったのです。




 ――翌日の夜。


 店内全体の模様替えのため、深夜の店舗内は、昼間の喧騒が嘘のように冷ややかな静寂に包まれておりました。


「……くっ、……あ、あと少し、……ですわ」


 わたくしは、慣れない作業着の袖を捲り上げ、鉄製の重厚な什器の端を必死に支えていました。


 指先は痺れ、掌には鉄錆の匂いがこびりついています。


 対角線上で同じ什器を支える彼は、首筋に玉のような汗を浮かべながらも、一歩一歩着実に足を進めていきます。


「麗華さん、あと少しだ。気合入れて……っ!」


「わか、って……おりますわ……っ!」


 その時でした。

 わたくしの靴底が、剥がれかけた床のタイルに滑ったのは。


「あ……」


 バランスを崩した什器が、無情にもわたくしの方へと傾いてきました。

 鉄の塊が視界を塞ぎ、死の予感に目を瞑った。


 ――その瞬間。


「危ないっ!」


 強い衝撃と共に、わたくしの体は横へと弾き飛ばされました。


 いえ、飛ばされたのではありません。彼の逞しい腕がわたくしの腰を強引に引き寄せ、背後の壁へと押し込んだのです。


ドォォォォン!!!


 重苦しい音が響き、什器が床に沈みます。


「はっ、……はっ、……大丈夫か、麗華...さん」


 目前には、彼の胸板がありました。

 作業着越しに伝わってくる、暴力的なまでの熱量。

 わたくしの細い肩を掴む彼の指からは、岩石を砕くような剛力が伝わってまいります。


 「……あ、……あ……」


 (……なんで……声が出ません……わ)


 眼前に彼の喉仏の上下、そして乱れた襟元から覗く、赤銅色の肌に釘付けになりました。


 わたくしの思う「美」とは、洗練され磨き抜かれた静かなるもの。

 けれど、今わたくしの眼前にあるのは、汗と泥にまみれた、汚くあまりにも生々しい「命」の輝き。


 わたくしを庇うために跳ね上がった彼の鼓動が、密着した胸を通じて、わたくしの心臓を直接叩き起こしていきます。


(……ああ、……なんて、なんてこと……)


 この時、わたくしの中の何かが、確かに「パキリ」と音を立てて砕け散ったのです。



 ようやく全ての作業を終え、わたくしたちは控室へと戻りました。


「悪い、五分だけ……寝かせてくれ……」


 彼はパイプ椅子に倒れ込むなり、瞬く間に深い眠りへと落ちていきました。


 けれど、わたくしの瞳には、世界が真っ赤に燃えているように見えました。


 血管を流れる血液が、沸騰したお湯のように熱く、激しく、全身を駆け巡っているのです。


(……静か……ですわ)


 スースーと規則正しく無防備な寝息を立てる彼。


 ひっ、ひっ……と、引き攣った呼吸を繰り返すわたくし。


 その対比が、わたくしの異常性を煽り立てます。


 (……確認しなければ……さきほどの、あの、恐ろしいほどの力。あれは、どこに宿っていたの……?)


 わたくしは吸い寄せられるように、彼の傍らへ膝をつきました。震える指先が、彼の作業着をめくり――腹部のその溝へと伸びていきます。


「……かたっ!……うそ、これ……これは本当に同じ人間ですの……?」


 指先が彼の筋肉に触れた瞬間、脳内に火花が散りました。


「あ、あつい。わたくしの、わたくしの指が、溶けてしまいそうですわ……っ! 」


 脳内の火花は徐々に広がりを見せます。


「もっと、……もっと深くを知らなければ、研修生として失格ですわ……っ」


 もう、止められません。


 彼の腹部を、まるで大切なものを愛でるようにまさぐり始めました。


 指先に伝わる凹凸。


 熱い、熱い肉の感触。


「……んんっ……、はぁ、……はぁ、 ……いい、すごくいい......ですわ……ッ」


  彼の汚くて汗臭い体が、なぜかわたくしを狂わせます。


 いつの間にか、わたくしは彼の首筋に顔を埋めていました。


「……すんすん、……くんくん。匂いが、匂いが……男の匂い……っ!」


 視界はもう、真っ赤です。明け方の青い光など、わたくしの情念が焼き尽くしてしまいました。




 気がつけば目の前には無警戒に投げ出された彼の唇。


――まるで熟れきった瑞々しい果実のよう。





 ごくりっ





 その艶めかしい質感を前にして、私は獲物を追い詰める飢えた獣のごとく、静かに喉を鳴らしました。


(いけませんわ……ここを越えたら、わたくしはもう、本当に……だめになってしまう)


 理性の防波堤が悲鳴を上げています。


 そして、目の前にあるその唇は無防備に開かれています。


 彼の寝息に合わせて、その唇が小さく動きます。


 くぱっ。


 くぱっ。


 くぱっ。


 呼吸のたびに開いては閉じ、開いては閉じる。


 無防備で、無垢で、なんの警戒も持たないその動き。


 それは、まるで――蜂を誘う花弁のようでした。


 甘い蜜の香りで、ただひたすらに、何も知らぬまま獲物を呼び寄せる毒花。


 ……ああ、……来てくださいと、誘っていらっしゃるのね……


 わたくしは、震える自分の唇を指でなぞりました。


 鳳家の誇り、純潔の証。そんな重荷が、今はひどく空虚で、邪魔なものに思えます。


 わたくしは、彼という毒を最後まで飲み干したい。一滴残らず、その命を味わい尽くしたい。


 彼の誘惑の吐息がわたくしの鼻先をくすぐるほどに、彼の唇との距離が近づいていきます。





 ちゅっ――





 ついに、我慢の限界が訪れました。


「……ちゅ……ちゅ……っ、ちゅちゅ……っ……ちゅちゅんっ………っ」


 わたくしは彼の顔を両手で挟み込み、奪うように、貪るように、その唇を塞ぎました。


 甘い。泥とコーヒーの味が混ざり合っているのに、これまで口にしてきたどんな高級菓子よりも、甘くて熱い。


「……あぁぁぁ、わたくしが壊れていくぅ……でも、でもとまらない……とめられない、とまんないの……っ! だれかわたくしをとめてぇ……っ!」


 そう口ずさみながらも唇を塞ぐ行為は止まりません。


「……ちゅ……っ、ちゅ……っ。 あなたの汚い唇で、わたしがどんどん汚される……ッ!」


 得体のしれない何かに、わたくしが塗り替えられる感覚に酔いしれながら、わたくしの手はさらなる未知の領域――ズボンの合わせ目へと伸びていきました。


「……ここ……ここが、あなたの……最も汚い場所……っ! 見せなさい、あなたの……っ......いちばん汚いものを!その汚物でわたくしをすべて染めてみなさいっ」


 その膨らみを指が捉えた瞬間。




 ドクン――




 人生で最大の衝撃が脳髄を直撃します。


 過呼吸に陥った脳が、ついに活動の限界を迎えたのです。


「……しゅ……、しゅ……。……しゅごぉ♥」



 ドサッ――



 わたくしの視界は急速に暗転し、糸の切れた人形のように、彼の体の上に重なるようにして、意識を失ったのでございます。



 まぶたの裏に、じりじりとした熱を感じて、わたくしは意識を浮上させました。


 視界が開けると、そこにあったのは控室の無機質な灰色の天井でした。


「……あ、ら……?」


 わたくしは自分が床の上に、無様に突っ伏していたことに気づきました。


 体の節々が痛みます。そして何より、わたくしが今抱きかかえているのは、パイプ椅子に横たわってまだ眠り続けている彼の足首でした。


「なっ……な、ななな, なんですの、この破廉恥な体勢は……っ!」


 わたくしは弾かれたように飛び起き、乱れた作業着の裾を整えました。


 心臓が、耳の奥で早鐘を打っています。


(……ゆ、夢ですわ。そうですわ、きっと過労による幻覚を見たに違いありませんわ!)


 そうですとも。わたくしは誇り高き麗華。そんな野蛮で、はしたない真似をするはずがございません。あれは深夜の魔力が見せた、質の悪い悪夢。


 わたくしは自分に言い聞かせ、平熱を装って立ち上がろうとしました。


 けれど。


「……ん」


 不意に、口の中に違和感がありました。舌の先が、無意識に唇をなぞります。


「……っ!?」


 そこには、昨夜の残滓が、はっきりと刻まれていました。


 鉄錆と、汗と、そして彼が飲んだ安っぽいコーヒーの、苦くて甘い風味。


 夢にしてはあまりにも生々しい、あの男の味が、舌の粘膜の奥にこびりついていたのです。


 両手には鋼のような腹筋の弾力と、あの爆発せんばかりの熱の感触が。



「あ……、あ……あ……」


 夢ではない。


「や、や、やってしまいましたわ……」


 お嬢様としての品位を、教養を、そしてこれまで守り続けてきた純潔な魂を、全て投げ打ってしまった……


 あの泥臭い男に、自ら……


 わたくしは口元を震える手で押さえ、がくりと膝を突きました。


(……どうしましょう……どうしましょう……どうしましょう……わたくし……もう……)


 窓から差し込む朝日は、昨日までとは違ってひどく残酷に、そして恐ろしいほどに艶かしくわたくしの罪を照らし出しておりました。

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