桜咲く異人館
あっという間に一週間の時がたった。
桜予報通り、町のあちこちで大量の絵の具をこぼしたかのように、ピンクや白の桜が色づいていた。
きっと『外交官の館』と同じ敷地内にある『ブラフ18番館』の桜も満開を迎えていることだろう。
「ちょっと出掛けてくる」と、まだパジャマを着ている母親に告げて、玄関を開ける。
ふらっとコンビニに向かったりすることも多いからだろう。
早朝の外出を特別不審がられることも無かった。
厳しい冬を越えて、だんだんと日が伸びているようだ。
七時前なのに、空はもうかなり明るくなっている。
きらきらと眩い朝の太陽に目を細めて、駅に向かうであろう人の流れに逆らい、足早に『外交官の家』へと向かった。
――・――・――・――・――・――・――
「啓太くん、こっちこっち!」
美雪さんは、日陰に一人たたずんでいた。
普通、このくらいの気温なら、日向にあるベンチに腰掛けそうなものなのに。
日焼けをしたくないのだろうか。
だけど、あんなにオシャレに無頓着なのに?
自問自答を繰り返していると、美雪さんは待ちきれないといった様子で、俺の手首を掴み「行こう!」と微笑みかけてきて。
眩しいくらいの笑顔に、細かいことなどどうでもよくなってしまい、微笑み返してうなずいた。
春を迎えて『外交官の家』の庭も、色とりどりの花が咲き、見違えるほどに華やかになっていた。
朝の光を浴びて水路は輝き、花壇には黄色の蝶が遊んでいるかのように飛んでいる。
『ブラフ18番館』のそばに一本だけあった桜の木は、一体どんなふうになっているのだろう。
特別大きいわけでもない木だ。
ひょっとしたら、あまり見ごたえはないかもしれない。
そんなことを考えながら庭園を進み、階段を下りていき『ブラフ18番館』という館の前にたどり着く。
確か、桜の木があったのは、入口から少し離れたところだったはずだ。
二人で館の周りを周りはじめると、すぐにその木は見つかった。
「わぁ……これが、桜の花……」
美雪さんは、感動のため息と共に、呟くように言ってすぐ、駆けだした。
「ちょっと待って!」
慌てて追いかけると、美雪さんは桜の木の下にたどり着いていて、薄ピンクの花をじっと見上げていた。
確かに西洋風の館と桜のコラボレーションは、綺麗だとは思う。
だけど、この桜自体は、特別大きくも、珍しくもない。
何の変哲もない普通の桜に、そんなに興奮するか?
わけがわからなくて、ちらと美雪さんの横顔を見ると、朝露みたいな涙が、次から次へと滑らかな白い頬を伝っていた。
「ど、どどどどどうしたの急に!?」
動揺を隠せないまま尋ねると、美雪さんは桜に魅入ってしまったようで、視線をそらさないまま呟くように言ってくる。
「私ね、この花はじめて見たの……桜ってすごく、綺麗な花を咲かせるんだね……」
「え……?」
思わず目を見開く。
日本にいて、桜を見ないなんてことはあるんだろうか。
もしや外国にいたのだろうか。
いや、それにしたって違和感がある。
あれやこれやと考えが巡るが、何一つとしてしっくりくる答えは見つからない。
ぶわりと一際強い風が吹きつけ、花びらが一斉にあたりを舞う。
まるで、吹雪の中にいるみたいだ。
「雪にも似てるけど、全然違う。“あの人”が見せたいと言ってくれた花を、最後に君と見ることができて、よかった」
美雪さんは短くなった髪を翻し、こちらに視線を送って微笑んできた。
「最後って、どういう……ッ!」
すぐに言葉を失くした。
静かに舞う桜の花びらが、ふっと美雪さんの身体をすり抜けたのだ。
「もう時間切れみたいだね。冬は、おしまい」
ふっ切れたような顔で美雪さんは笑う。
「どういうこと……ねぇ、説明してくれよ!!」
いったいいま、何が起こっている!?
全然理解が追い付かない。
混乱のままに大人げなく声を荒げていくと、美雪さんはわずかに眉尻を下げた。
「黙っててごめん。私は、人じゃないんだ」
あまりにも常識から外れている言葉に衝撃が走ったが、一方で、すとんと胸に落ちたような気もした。
彼女から漂ってくる、独特の儚い雰囲気も。
時折、話が噛み合わなくなることも。
そして、自分のことを何も言おうとしないことも。
全部“人ならざる者だからだ”とすれば、納得できたからだ。
「人じゃないのなら、一体何なの……」
「うーん……雪の化身とでも言えばいいのかなぁ。雪女、って言われて石を投げられたこともあったよ」
困ったような顔で、美雪さんは誤魔化すように笑う。
だが、その手を見ると小刻みに震えていた。
恐らく、いつかのように拒絶されることを恐れているのだろう。
きっと、怖がられてしまった過去があったから、“あの人”に想いを伝えることも、正体を明かすことも恐れて……
何も言えないままに、別れることになってしまったんだ。
「驚かせてごめんなさい、怖いよね、気持ち悪いよね。このことは、忘れて」
後ずさりをして、どこかへ去ろうとする素振りを見せた美雪さんを見て、慌てて引き留める。
「違う! そうじゃない。雪の化身って、このままだと溶けちゃうんじゃないの!? 冬になればまた会えるの!?」
怖がらない俺の態度にほっとしたのだろう。
美雪さんの震えは止まり、表情からも強ばりが消えた。
「ううん。二度と会えない……。自然は減り、信仰心も薄れ、自然に対する畏怖も消えつつあるんだ。もう私たちみたいなものが生きられる世界じゃなくなってしまったの」
「そんな……」
頭の中が真っ白に染まり、ひどいめまいが襲ってくる。
もう二度と会えないだなんて、そんなの信じたくなんかなかった。
「本当はね、来年が最後の年になるはずだった。だから、次の冬を迎える力を失くしてでも、また“あの時”みたいに人と関わってみたくなった。“あの人”が一番好きだと言った花、桜を見て、触れてみたかったの」
風に揺れる桜の花に手を伸ばした美雪さんは「見ることができて良かった」と、幸せそうに笑う。
そんな彼女に伝える言葉を何一つとして見つけられないまま、その場に立ち尽くした。
「私は啓太くんに会えて本当に良かった。楽しかったし、いろんなことを教えてもらえて嬉しかったよ。ありがとう。だから……」
美雪さんは、困ったように笑い、俺の頬をそっと撫でてくる。
微かに感じた温度は雪のように冷たく、美雪さんが人ではないということが、はっきりと感じ取れた。
「消えるのももう、怖くはないの。大丈夫だから、お願い。そんな顔しないで」
ここには鏡もないし、いま自分がどんな顔をしているかさっぱりわからない。
だが、美雪さんの心配そうな表情を見れば、自分がいまどんなにひどい顔をしているか、想像がつく気がした。
「本当に、もう会えないの……?」
美雪さんは、こくりと頷く。
「ねぇ、啓太くん。春って優しくて、ふんわりして、暖かいね。貴方に会えて、私の心も春みたいに暖かくなれたよ」
美雪さんは、暖かな日だまりの元へと歩みを進めながら、穏やかに笑う。
彼女の身体はだんだんと薄れており、嫌でも最期を予感させてくる。
“行かないで”という、言葉を必死で飲み込んで、耐え続けた。
こんな言葉、俺のわがままでしかない上に、伝えたところで彼女を困らせるだけなんだ。
「“あの人”も、こんな柔らかい気持ちで消えたのだったら、いいなぁ」
日だまりの下で立ち止まった美雪さんは、桜の花と青い空とを見て微笑む。
彼女の横顔を見ながら、同じように俺も笑んでみせた。
「きっと、そうだよ」
「ありがとう。ずっと、ずっと、啓太くんの幸せを願ってるから」
“もうすぐ春が来るね”と寂しそうに言い続けた美雪さん。
もう、その口癖は聞こえない。
最期に彼女が言った言葉は……
「春が、やってきたね」
美雪さんは、頬を桜色に染めながら、柔らかく幸せそうに微笑んでいた。
もう、これで二度と彼女に会えない。
消え行く姿を見て、その言葉が鐘を打ったかのように脳内に響く。
身体は自然と動きだし、微かに残った彼女の姿に触れようと、慌てて手を伸ばした。
「お願いだ、美雪さん、待って! 俺、美雪さんのこと……」
だが、その身体に触れる直前、ふっと泡がほどけるようにして美雪さんは、消えた。
風の音だけが、静かな空間に響き渡り、桜の花びらが空高く舞う。
言葉もないままそれを見ていると、舞い落ちてきた桜の花びらと共に、雪のような結晶が降ってきて。
両手で受け皿を作り、花びらと雪の結晶とを静かに受け止めた。
美雪さんが想い出に、花びらも持っていったのだろうか。
雪と花びらとは、俺の体温にとかされて音も無く消えてしまった。
何もなくなってしまった手のひらを見つめ、強くこぶしを握りしめる。
どうして。
なんでこんなにも胸が痛くて、苦しいのだろう。
ああ……そうか。
俺は――
こんなにも美雪さんのことを好きになっていたんだ。
風が吹くたびに降ってくる花びらがまるで、何度も二人で見た雪のように見える。
どうせ想いを伝えたところで、何も変わらなかっただろうけど。
それでも最後に「ありがとう」くらいは、言いたかったな……
ぼんやりと桜の花と空とを見ていると、次第に喉元から寂しさと悲しさとが込み上げてきて、何度も何度もしゃくりあげる。
からっぽのこぶしを額にそっと当てて、静かに目をつむった。
いまはまだ、優しく笑う顔がこうやって鮮明に浮かぶけれど、時がたてば、この笑顔も思い出せなくなるかもしれない。
あの柔らかい声だって、もう二度と聞くことができないんだ。
こんなにも大切で、好きだったのに。
雪のように消え、花のように散ってしまった、儚くて美しい女性を想い、人知れず泣き続けたのだった。
――・――・――・――・――・――・――
あれから三年の時がたち、朝日が降り注ぐ『外交官の家』を横目に、あの桜の樹の下に立った。
満開の桜の姿は三年前と一つも変わっていないが、あの日とは大きく違うものもある。
それは、俺のカバンの中にある、たくさんのハサミとコームだ。
ほら見てくれよ。美雪さんのおかげで、今年の春から美容師になれることになったんだ。
大切な夢を思い出させてもらえて、諦めなくて、本当に良かった。
にこりと微笑みながら、空を仰いで目を閉じ、必死に彼女の姿を思い描く。
よかった。まだ、大丈夫。
さらさらとした黒い髪も、柔らかく細められる目元や、優しく弧を描く唇も、ふんわりとした声も全部思い出せる。
「美雪さん。“あの人”とは出会えた、かな?」
再会できていて欲しいという気持ちと、ほんの少しの寂しさをこめて笑った。
自分に気持ちが向いていなかったのは苦しかったけれど、月日がたって自分も大人になったからか、彼女の幸せを願うことができた。
「二度と、迷わないから」
カバンを握り締めて、この夢は絶対に離さないと決意を込める。
今日から、東京で一人暮らしになる。
就職先は、美雪さんが昔いたであろう渋谷にある、技術は確かだが小ぢんまりとした美容院だ。
もうここには、これまでのように来れなくなってしまう。
「美雪さん、貴女のことがずっと好きだった。本当に、ありがとう。さようなら」
あの日あの時言えなかった言葉を伝えて微笑み、桜の木に背中を向けて自分の夢へと歩み出す。
花の匂いで満ちている庭を行くと、風にのってやってきたのだろう。
桜の花びらが一つ、舞い降りてきている。
両手で椀を作って受け止めると、ふわりと微かにだけれど、優しい雪の香りがしたような、そんな気がした。
fin.
『雪香る異人の館に桜舞う』は、これにて完結です。
ここまでお読みくださいまして、本当にありがとうございました!
お話の中で、少しでもセンチメンタルっぽさを感じていただけたらいいなぁと思います。
(と言いつつ、センチメンタルの定義をよくわかっておりません。笑)
銘尾 友朗さま企画の『春センチメンタル企画』に、このお話で参加させていただいています。
胸がきゅっとするステキな物語がたくさんありますので、ぜひ検索して覗いてみてくださいね。