37話『帝国と教皇庁』
かつて、大陸を支配した帝国がある。
その名は――ヴァルハルト。
帝国は星辰の加護を受け、時の神は“聖印”と呼ばれる首飾りに宿り、
それを戴く者を妻とする者は、大地と民を導く運命を背負っていた。
だが、どんな栄華も永遠ではない。
長きにわたる戦乱と、腐敗した貴族たちの私欲が、帝国を蝕んでいった。
そこに目をつけたのが、聖教会――教皇庁だ。
彼らはこう言い放った。
『皇帝の戴冠は神の意思にあらず。帝国は異端なり』と。
信仰を掲げた言葉は、疲れ果てた民の心を掴んでいった。
やがて帝都は裏切りに覆われ、夜の炎に飲み込まれる。
皇帝は討たれ、皇太子は戦の中で命を落とした。
皇妃は幼き皇女を抱き、命からがら逃れようとしたが……追っ手に襲われ、ついに力尽きた。
だがそのとき――幼子を抱いたひとりの侍女が、すべてを賭して逃げ延びた。
彼女が託されたのは、一通の封書と、一つの首飾り。
……皇室の血は散り散りになった。
誰が生き延び、誰が途絶えたのか、もはや定かではない。
だがただひとつ確かなのは――教皇庁は恐れていたということだ。
もしも“血”がどこかに残り、生き延びているとしたら。
もしも“聖印”が、いまだ本来の持ち主の手に戻るとしたら。
民は再び、帝室にひざまずくだろう。
だからこそ、私は探し続けている。
血を、証を、そして――真の後継者を。
この世から抹消するために。
大聖堂の奥、黄金の聖像に囲まれた密室。
「……レオナード・エル・ヴァルハルトか。小賢しい」
私は教皇マルケジウス・オルドレア。教皇庁の老朽化した頭脳を粛清し、新たな指導者として君臨した。
私は椅子の肘掛を指先で叩きながら低く吐き捨てた。
「皇帝の末弟(第七王子)の子孫の分際で、王国と協定を結ぼうとしているなどと――何を考えている」
側近の枢機卿が恐る恐る応じる。
「民心を得ようとする策かと……」
「策? 愚かなる背信行為よ」
私は目を細め、琥珀の光をぎらりと揺らす。
「王国と手を結ぶことは、神の威光を弱めること。
それを“秩序の回復”と称するとは……笑わせる」
傍らに控える魔導士グレオールが口角を上げた。
「……つまり、邪魔になるということですね」
私はゆるやかに頷いた。
「そうだ。我ら教皇庁に従わぬ者は――」
聖職者の顔に似つかわしくない、冷たい嗤いが広がる。
「レオナード。お前がどれほど帝国を想おうと……
“神意”に背く者に未来などない。必ず、我が手で潰してくれよう」
私はゆるやかに立ち上がると、背後に控える信徒たちへ琥珀色の瞳を細めて言い放った。
「帝国も王国も、すべてはもはや形骸にすぎぬ。
民心などどうでもよい。
真に人々を導くのは――我ら“神意”に選ばれし者だけだ」
その声音には、聖職者の柔和さではなく、覇者の冷酷な響きが宿っていた。
「いずれ帝家の血筋も、王国の血筋も淘汰される。
……皆、時代の残滓に過ぎん」
私は両手を広げ、荘厳な調子で続ける。
「世界は、我が手中に収まるのだ。
古き秩序を踏み潰し、真の“新世界”を築き上げる。
神に選ばれし私こそが、新たな世界の礎となろう!」
低い祈りの声が礼拝堂を満たし、やがてそれは狂信の合唱へと変わっていった。
その中心に立つ私の影は、燭台の炎に揺らめきながら、まるで世界を飲み込まんとする巨獣のように広がっていた。
*
あれは私がまだ、若き頃のこと。
帝国を滅ぼしてもなお、神の支配する世界は訪れなかった。
……原因はひとつ。まだ聖印がこの世に残っているからだ。
帝国の皇統が“神に選ばれし血”と崇められたのは、加護を受けていたからだ。
人はそれを帝室の正統と呼び、王も貴族も、民までもがひれ伏した。
そして数年がすぎた。
「聖印は、いまだ見つからぬのか」
私の問いに、グレオールが一歩進み出て囁く。
「……それらしきものを見つけました。ローズウッド家の長女が身につけております」
「……ローズウッド家の、長女だと?」
私は微笑む。
「なるほど……ならば利用できる」
私はふと唇に笑みを刻むと、思い出したように続けた。
「そういえば……教会に足繁く通っていた次女がいたな」
それにしても、何故ローズウッド家に?
「……グレオール。なぜローズウッド家に、それが渡ったのかを探れ」
胸の奥に広がる違和感。
帝国の聖印であったはずのものが、なぜリデア王国にあるのか。
やがて私は思い至った。
――あの長女こそ、皇族の生き残りなのではないか。
その瞬間、すべてが繋がった。
そして私は、次女の“使い道”を思いついたのだ。
その日、私は礼拝堂にいた。
神の像の前で、少女がひとり膝を折っているのが見えた。
細い肩が震えていた。声を殺して泣いていた。
それは、神に祈るというより、もはや魂の悲鳴のようだった。
光の差さぬ堂内で、ただ一人、己の罪を赦してほしいとすがるその姿。
私は、そこに“信仰の原型”を見た。
足音を忍ばせて、彼女の背後に立つ。
泣きはらした頬。掠れた声。
すべてが、あまりに人間的で、そして――神の加護を受ける器としては、あまりに理想的だった。
「祈っているのか、少女よ」
私の声に、少女が振り向く。
怯えと、かすかな希望が混ざり合った瞳。
その眼差しに、私は確信した。
――この子は“壊れる”ときが最も美しい。
「私はただの巡礼者だ。けれど、君のように美しく、苦しんでいる魂には目を向けたくなる」
それは優しい声だった。
だがその内側で、私はすでに彼女の心の輪郭を読み取っていた。
姉への嫉妬。孤独。承認への渇望。
神が選ぶよりも先に、私は見つけたのだ。
――新たな器を。
そして私は、彼女に“呪印”を与えた。
それは罰ではなく、祝福だった。
彼女の魂に巣食う暗い感情――嫉妬、怒り、憎悪。
それらは穢れではなく、“神意を受け取るための器”だと私は知っていた。




