36話『母の決意』
胸の奥に、どうしようもない重さが広がっていく。
真実を知ることは、恐ろしい。
母に抱かれて育った日々が、嘘だったと言われるようで……その愛までも偽物になってしまう気がして。
――知りたくない。
知らなければ、私はただのアメリア・ローズウッドのままでいられる。
けれど。
ルシアンのまっすぐな瞳に見つめられると、その弱さに逃げ込むことが許されない気がした。
彼は私を拒まない。血筋がどうであれ、今の私を見てくれている。
だからこそ、なおさら怖い。
もし真実を知ってしまえば……私はもう、母の娘ではなくなるのではないか。
ローズウッドの名を背負うことも許されず、ただ「どこの誰とも知れぬ女」になってしまうのではないか。
「……私は」
言葉が喉に絡まって出ない。
声にしてしまえば、すべてが壊れてしまう。
でも――このまま背を向ければ、私の弱さがすべてを呑み込んでしまう。
母への愛も、ルシアンの信頼も。
結局答えは互いに出せないまま私は帰路についた。
まだ夜明け前の薄闇。馬車を降り、屋敷の門をくぐった瞬間――
玄関の明かりがぽつりと灯っているのが見えた。
「……お母様?」
扉を開けると、そこにいたのは夜着の上にショールを羽織った母だった。
髪はきちんと結い直されていない。明らかに眠れぬまま、ここで待っていたのだとわかる。
「アメリア……どこへ行っていたの」
その声は強く責めるものではなく、ただ震えていた。
胸の奥が痛む。
心配をかけたくなかったのに――結局、泣かせてしまった。
「ごめんなさい……」
私は堪えきれず、涙をにじませた。
お母様は小さくため息をつくと、歩み寄り、両腕で私を抱きしめる。
「何も言わずにいなくなるなんて、心配するじゃない……」
耳元に落ちてきたその囁きは、怒りではなく安堵に満ちていた。
抱きしめられた胸の温もりに、私の喉がつまる。
血筋がどうであれ、この人は揺るがずに“母”でいてくれる。
「お母様……」
零れた嗚咽に、母の手が背を優しく撫でる。
夜明け前の薄光が差し込み始めたころ、二人は母の書斎に移った。
小さなテーブルに紅茶が置かれ、白い湯気がふわりと立ちのぼる。
互いに言葉を探しながら、しばしカップを傾けるだけの時間が流れた。
「……アメリア」
お母様の声が静かにその沈黙を破った。
私はそっと顔を上げる。
母の瞳は揺れていなかった。ただ、どこか覚悟を宿しているように見えた。
「あなたを愛しているわ。……その気持ちは決して嘘ではない」
カップを置く音が小さく響く。
「けれど同時に、ずっと恐れていたの。――あなたを奪われる日が来るのではないかと」
「……え?」
お母様は目を伏せ、ゆっくりと続けた。
「リリーは、私の実の娘。けれど……あなたは血の繋がらない子。孤児院から引き取ったとき、封筒に入っていた手紙と首飾り。その時は、さほど気にはとめてなかったわ」
私の胸がざわめいた。
お母様は紅茶のカップを握りしめたまま、遠い記憶を見つめるように言葉を続けた。
「リリーが生まれた時……私は恐れたの。あなたとリリーを比べてしまうのではないかと。
血を分けた我が子を抱きながら、あなたへの愛が薄れてしまうのではないかと。……それが何よりも怖かった」
お母様の瞳が揺れる。
「でも、そんな時だったのよ。――あの首飾りが、帝国皇室のものではないかと知ったのは」
私は息を呑んだ。
「ただの装飾品じゃなかった。調べるうちに、私はあの手紙に仕掛けられた隠し文字を見つけたことはこの前話したわね」
「はい……」
「あの時、言うかどうしようか迷っていた」
お母様の声が震える。
「そこには、こう記されていたの。――“この子こそ、帝国皇室ヴァルハルト家の正統な後継者”と」
私の指先から力が抜け、カップが小さく揺れた。
「……正統な、後継者……?」
お母様は深く頷いた。
「そう。あなたはただの孤児なんかじゃない。……帝国の血を継ぐ、本物の皇女なのよ、アメリア」
部屋の空気が一瞬で張り詰める。
私の鼓動は早鐘のように鳴り響き、お母様の言葉が心を焼きつけるように沈んでいった。
胸の奥がざわつく。
あたたかなはずの紅茶の香りが、急に遠くに感じられた。
「……本当に、私が……皇女……?」
声に出した瞬間、その言葉があまりにも自分に似つかわしくなくて、私は思わず唇を噛みしめた。
お母様は静かに頷く。
「調べてたわ、きちんと」
だが、その瞳の奥には、愛と恐れが入り混じった複雑な色があった。
思い返せば、リリーと比べられたことは一度もない。
いつも「貴女は貴女」「アメリアは私の娘」と抱きしめてくれた。
その言葉が、どれほど心を救ってきたことか。
――けれど。
「お母様……もしそれが本当なら、私は……あなたから愛されていたのではなく、“血”に縛られていただけなのではないのですか?」
震える声で問いかけると、お母様は即座に首を振った。
「違うわ! たしかに私は恐れた。けれど、その恐れ以上に、あなたを失うことが怖かったの。血筋なんて関係ない。私にとって、あなたは……愛しい娘以外の何者でもないのよ」
その言葉に胸が熱くなる。
けれど同時に、心の奥底で冷たい疑念が芽生えていた。
(――私は、本当に“アメリア・ローズウッド”なのか。それとも……“ヴァルハルト家の皇女”なのか)
母の腕の温もりを信じたい。
だが、ネックレスが示す真実は、確かにそこにある。
涙が頬を伝い落ちる。
「お母様……私はいったい、何者として生きればいいのでしょう……」
私の涙が頬を伝うのを、お母様は黙って指先で拭った。
そのまま、ぎゅっと私を抱き寄せる。
「何者であろうと関係ありません。あなたは私の娘。――それだけは、決して揺らがないの」
その声はあまりにも優しく、心の奥にまで沁みてくる。
その温もりがあればこそ、これまで生きてこられたのだと、痛いほどにわかってしまう。
(……でも、母の愛が真実でも。
ネックレスが示した“血の証”も、また真実……)
抱きしめられたまま、私は目を閉じた。
愛しい母の胸の鼓動に耳を澄ませながらも、心の奥に渦巻く疑問は消えてはくれなかった。
「お母様……私は、これからどうすれば……」
返ってきたのは、ただひとつ。
「あなたが望む道を、歩きなさい。でも、貴女は何があっても私の娘よ」
その言葉にまた涙があふれ、私はお母様の胸に顔を埋めた。
――揺るぎない愛に包まれながらも、己の血筋と運命への葛藤を抱いたまま。
*L*
扉は固く閉ざされていた。
けれど、かすかな隙間からは、紅茶の香りと声が漏れていた。
「――あなたは、帝国皇室ヴァルハルト家の正統な後継者」
その言葉に、私の心臓がどくん、と大きく跳ねる。
(……今、なんて? お姉様が、皇女……?)
耳を澄ます。母の声が続いている。
「何者であろうと関係ありません。あなたは私の娘。――それだけは、決して揺らがないの」
優しい声。
それを聞くたびに、私の胸に冷たい針が突き刺さる。
(またなの!? どうして……? 私のほうが“実の娘”なのに……。
なのに、どうしてそんな言葉をお姉様に……)
手が震える。爪が掌に食い込み、血の匂いがかすかに漂った。
その夜――。
私は、ずっと苛立ちを抱えていた。
お姉様がひとり、こっそり家を抜け出したのを侍女から聞いたからだ。
(……こんな夜更けに、どこへ? 何を隠しているの、お姉様)
胸の奥に広がるのは、不安と疑念、そして説明できない苛立ち。
眠ることもできず、私は玄関に近い回廊でじっと待っていた。
やがて、馬車の車輪の音が遠くで止まり、お姉様が帰宅する気配がした。
そして慌ただしく迎える母の声――。
そのまま二人は、灯りのついた母の書斎へと消えていった。
私は足音を殺し、扉の陰に身を潜めた。
そして知った。
姉の正体を。
「あなたが望む道を、歩きなさい。でも、貴女は何があっても私の娘よ」
お母様の囁きが、決定的な刃となって私の胸を裂く。
(……結局、血で繋がっている私より、お母様は“お姉様”を選ぶ……!)
その瞬間――
首筋の奥、見えぬ刻印がじわりと熱を帯び、紫黒の光をかすかに脈打った。
私は息を殺し、暗い廊下の影に身を潜めながら、歪んだ笑みをこぼした。
(いいわ……なら、私がすべてを奪ってみせる。
お姉様の“本物”も、“愛”も、“運命”も――全部)




