35話『ルシアンの私室にて』
雨が窓を叩く静かな夜。
重い扉の向こうから現れたアメリアは、深いフードを被っていた。
私は執務机に書類を広げていたが、彼女の姿を認めてすぐ席を立つ。
「…誰にも気づかれていない?」
「ええ。念のため裏口から出て来たわ。母も侍女たちも休んでいるはず」
私は彼女を部屋の奥へと招き入れ、扉に鍵をかけた。
扉を閉めた瞬間、私は思わず息を呑んだ。
アメリアの身体から滴る水が、床に小さな水溜まりを作る。
濡れたドレスは肌にぴたりと張りつき、襟元から透けた鎖骨の曲線、薄い生地の奥にある身体の輪郭が、否応なしに目に入った。
「……まさか、こんなに降るなんて思ってなかったのよ」
アメリアは困ったように笑いながら、濡れた髪をかき上げた。
その仕草に、私は視線を逸らす。
「先にタオルを……いや、着替えを用意しよう。少し待っていてくれ」
私は机の脇に置かれていた呼び鈴へと手を伸ばしかけたが、すぐに動きを止めた。
――誰にも気づかれてはならない。彼女がここにいることを。
逡巡の末、私は自ら衣装棚へ向かい、替えの上衣を取り出して戻ってきた。
「とりあえず、これを羽織って」
アメリアは受け取りながら、小さく笑った。
「ありがとう」
濡れた布越しに指先がわずかに触れた瞬間、私は心臓を打ち抜かれたように息を詰めた。
思わず視線を逸らすが、目の端にはどうしても彼女の姿が映ってしまう。濡れた布地の向こうに隠しきれない、柔らかな輪郭。
「……アメリア」
低く名前を呼んだ声に、自分でも驚くほど熱がこもっていた。
アメリアは肩に布を掛けながら、少しだけ首を傾げる。
「なに?」
アメリアの頬に紅が差すのを見た瞬間、私は自分の胸の奥で危うい衝動が膨れ上がっていくのを感じた。
――だが、次の瞬間、深く息を吐き、瞼を閉じる。
「……すまない」
低く呟いてから、私は一歩、彼女から距離を取った。
「感情に呑まれるのは、王太子としてあるまじきことだ」
その声音は、いつもの冷静で端正な調子に戻っていた。
アメリアはそっと首を傾げる。
「君を呼んだ理由は、ただひとつ……“真実”を確かめるためだ」
私は机に手を置き、視線を真っ直ぐにアメリアへと向ける。
「だから、落ち着いて聞いてほしい。――どうして君ではなく、偽りの君が現れたのか。その答えを探さなければならない」
室内に、雨音だけが響いた。
先ほどまで熱に浮かされていた空気は、いつしか静かな緊張に変わっていた。
「……どうして、本物ではなく偽物だと?」
アメリアは、濡れた髪を指先で払いながら静かに尋ねた。
私は一瞬だけ言葉を飲み込む。その視線には揺るぎない確信が宿っている。
「君が“君らしく”なかったからだ」
「……」
アメリアは胸元を押さえた。心臓が、強く跳ねる。
「けれど……」彼女は小さく首を振る。「私は、なにも覚えていないのです。……まるで一日分の記憶が、すっぽり抜け落ちているかのように」
言葉にすることで、その違和感がより鮮明になっていく。
彼女自身の中にある“空白”。
私はその答えを待つように、じっとアメリアを見据えた。
まるで、彼女の沈黙すら真実の欠片だと信じているかのように。
*A*
「……偽物」
思わず口にした言葉が、部屋の空気を震わせた。
ルシアンは真っ直ぐに私を見つめ、はっきりと告げる。
「君は――あの日、王宮には来ていない」
「でも……」
私は首を振る。頭がぐらぐらと揺れるようだった。
「私には、その記憶がないの。……なにも思い出せない」
信じたい。けれど、自分の中にある“空白”が、私を裏切る。
どちらが真実なのか。
自分さえも信じられない。
唇を噛み、俯いた私に、ルシアンは一歩近づいた。
そして、濡れた髪ごと私を抱き寄せる。
「いいか、アメリア。――今、こうして怯えている君が、その証拠だ」
「証拠……?」
「記憶を失った“本物”のアメリアだからこそ、こんなに自分を責め、戸惑っている。偽りで生きる者に、その顔はできない」
胸の奥が熱くなった。
自分を見失いそうだった私を、彼はただ一言で、引き戻してくれる。
「……でも、一体誰が」
自分でも声が震えているのがわかった。
ルシアンの目が、鋭く私を射抜く。
「アメリア、ネックレスは?」
胸元に手をやり、私は首を振る。
「……なくしてしまって」
その瞬間、彼の表情が強張った。
「だが……王宮に来た“君”は、確かにそれをつけていた」
「え……?」
耳の奥で心臓の鼓動が大きく鳴る。
ルシアンの瞳が細められる。
「では、誰なんだ……?」
私はためらったが、やがて小さく告げた。
「……実は、先日リリーが欲しがったのです。あの首飾りを」
「リリー嬢が?」
ルシアンの声に疑念が混じる。
「ええ。けれど……そんな変化の魔法など、あの子には使えないはずです」
「……」
「それに、あのネックレスに“そんな力”があるなんて、私も聞いてはいませんでした」
重苦しい沈黙が落ちる。
「……あのネックレスは、どこで?」
ルシアンの声は静かだった。けれど、その奥には鋭い探求の光が潜んでいる。
私は思わず息をのんだ。
胸の奥で小さく疼く――あまり言いたくはない過去。
「……母から、いただきました」
口にした瞬間、視線を落とす。
その“母”が実の母ではなく、私を孤児院から引き取ってくれた義母であること。
それは私が語らずとも、周知の内容ではある。
引き取られた時、その封筒の中にネックレスが入っていたことを語るために、私は出目を自ら語らなければならない。
その言葉が、続かない。
ルシアンの瞳がわずかに細められる。
彼は続きを待っていた。だが、私は黙り込んでしまう。
「……アメリア」
低く呼ばれる名に、心臓が跳ねる。
私は静かに深呼吸をし、覚悟を固めた。
「……ですが、それはローズウッド家に伝わるものではありません」
言葉を吐き出した瞬間、ルシアンの眼差しが鋭く私を射抜く。
私は視線を逸らさず、続けた。
「――私が捨てられていた場所に、手紙と共に封筒へ収められていたのです」
重苦しい沈黙が落ちる。
それでも、私は震える指先を握りしめ、言葉を飲み込まずに告げきった。
「アメリア、これは僕の推測に過ぎない。だから……どうか、期待はしないで欲しい」
ルシアンは静かに告げ、深く息を吐いた。
「覚えているか? 星花祭の夜のことを」
「……星花祭?」
私が問い返すと、彼は頷き、視線を落とす。
「ずっと引っかかっていたんだ。あの露天で老人が話していた言葉を覚えているだろう?」
胸の奥が強く脈打った。あの時の、懐かしむような老人の目を思い出す。
ルシアンは続けた。
「気になって少し調べたんだ。……やはりあれは帝国で皇族の証とされていた“聖具”だ。君が偶然持っているとは思えない」
「そうかもしれません……ですが、だとしてそれが――今の私に、何を意味するのでしょう」
震える声で言いながら、私は自分の手元をぎゅっと握りしめた。
ルシアンは即座に答えず、静かに私を見つめる。
その瞳はただ揺らぎなく、深い決意を湛えていた。
「……君の出生に、関わっているのではないか?」
ルシアンは静かに口を開いた。
思わず、胸が締めつけられる。
避けてきた問いを、彼の真摯な眼差しが容赦なく突き刺す。
「出、自……」
声が震えて、最後まで言葉にならなかった。
ルシアンは一歩、私に近づいた。
「アメリア、もしもそのネックレスが“証”であるなら……君は、ただの侯爵令嬢ではないかもしれない」
その一言に、心臓が跳ねた。
母の愛に心が満たされていた私には、出目などどうでも良かった。
私は視線を落とした。
「そのことを、知りたくはないのです」
幼い頃から与えられた優しさ、抱きしめられた温もり、あの人の笑顔。
それだけで私は“娘”でいられた。
それ以上の答えなど、欲しいはずがなかった。
だが――ルシアンの瞳は揺るがない。
「アメリア。血筋がどうであれ、君は君だ」
「ルシアン……」
「でも、この事件の背景には、そのことが関係していると僕は思っている」
その言葉に、胸がきゅっと縮む。
触れられたくなかった扉の奥に、確かに何かが眠っている――。
私は無意識に首元へと手を伸ばした。そこにあるはずの、あの温もりを求めて。
「……もし、本当にそうなら」
声が震える。
「私は、いったい何者なのですか?」




