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日の出はまだ遠い刻限。
目立たぬように最小限に灯された篝火を頼りに、高倉入道は夜陰に紛れ、網代車に乗り込もうとしていた。
配流の勅命を受け、屈辱に震えながらも、従者の勧めにしたがい、人目につかぬうちに密やかに流刑地へ出立しようとしていたのだった。
入道は此の期に及んでも酒に酔っており、覚束ない足取りであるのを従者に支えられ、うわ言のように誰にともなく悪態をついている。
「高倉入道殿」
入道が胡乱な目で声のした方を見やると、夢か幻か、殺したいほどに憎々しい男とその妻がひっそりと立っていた。
「何用ぞ!堀川の犬め!奴の代わりに儂を嘲笑いにきよったか!!」
人目を忍んでいた事も忘れ、激昂する高倉入道に対し、聡目とその妻は憐れむような視線を向ける。
「いいえ、入道殿。この度はご忠告に参りました。」
聡目が静かにそう告げると、妻がおもむろに入道へ近づき、形ばかり入道の腹部に鼻を寄せたかと思うと、
「あぁ、やはり…。」
と呟き、すぐに袖で鼻を覆い離れる。
「入道殿、お酒を断たれませ。さもなくばそのお命、あと一年と持ちますまい。」
有無を言わせない巫女の託宣の如く無慈悲な響きに、従者達は気圧される。しかし、憎悪に支配された入道は夜目にも分かるほど、顔を赤くして怒り狂う。
「なんと!!この儂を呪うつもりか!この化け物が!!」
「えぇ、この私の化け物じみて良く効く鼻に臭うのですよ。腐り始めた入道殿の臓腑の饐えた臭いが…。」
妻は艶然と微笑み、衵扇で入道の腹を指し示す。
「このまま酒を飲み続ければ、それ、臓腑はあっという間に腐り落ち、痛みにのたうちながら血を吐き、もがき苦しみながら事切れましょう。」
あまりの内容に、赤かった顔を青ざめさせながら押し黙った入道に、聡目が進み出る。
「入道殿。私のこの聡目、見え過ぎるが故に時として、此の世に在らざるモノも見ます。」
篝火を浴びて妖しく色を変える琥珀の瞳が弓張り月のように細められる。
「貴方の背後に、貴方を黄泉へと引きずり込もうとする魑魅魍魎が見えます。恐らく、腐った臓腑の臭いに寄って来たのでしょう。」
そこまで言うと、従者達は情けない悲鳴をあげ後退り、入道は歯の根も合わない有様でその場に崩折れた。
「酒を断ち、心を入れ替えて御仏にお縋りなされ。」
そう言い残して二人はその場を去った。
***
「ふふふふ。入道の奴、ざまぁないわ。いくら鼻が良いって言っても臓腑の臭いまで分かるわけないのにね〜!」
「俺も生憎、目に見える物しか見えないがな。」
「ま、これで少しは、可愛い我が娘の受けた仕打ちの意趣返しが出来たかしらね?」
高倉入道の陰謀に巻き込まれて誘拐され怪我を負った愛娘。
髪を切られ、全身至る所にアザや擦り傷、凍傷が出来ていたが幸いな事に大事には至らなかった。
当の本人は想い人と気持ちが通じて、あれよという間に結婚まで話が進んだ事で慌てふためきながらも幸せいっぱいで、犯人達を恨む余裕はないようだったが…。
「…それにしても、いくら二の宮様に嫁ぐからといって、堀川様に養女にまで出さずとも良かったのではないか?」
二の宮の北の方となるにあたって、外野から身分が釣り合わないだの何だの余計な茶々を入れさせない為に、堀川様の勧めにしたがって娘は堀川右大臣の養女となっていた。
形だけとはいえ、娘ではなくなる…それが娘にとって一番良いと分かってはいる…が、やはり父の心は複雑なようだ。
「それに通い婚ではなく、いきなり宮様の邸に連れ去られてしまって、婚礼道具の準備も出来ず、露顕しもあちらの邸でなど型破りにも程がある…。」
「あら、いいじゃないの?光る君と紫の上みたいで!宮中でも宮様が溺愛しすぎてうさぎの君を攫って邸に隠したんだって言われてるみたいだし?」
怪我の療養も兼ねてそのまま宮様の邸に滞在していたら、いつの間にかその「光る君と紫の上」といった噂が流れ始め…というか、やんごとない方々によって意図的に情報操作されたようだが。
高倉入道の一件が片付き、娘が宮中に出仕する必要も失くなった為に、噂に便乗してそのまま退職し結婚といった流れになっていた。
母としては娘が幸せなら形式など何でもいいかと思うのだが、娘の結婚というものに少なからず理想を抱いていた父としてはいろいろ面白くないらしい…。
「まぁまぁ、あの子がせっかく掴んだ幸せなんだから、見守ってあげましょうよ?娘が欲しいならもう一人産んで差し上げるわよ?」
そう言って艶やかに微笑む妻の肩を、聡目は苦笑しながら優しく抱き寄せた。
空からは聡目の細めた瞳のような弓張月が夜闇を淡く照らしていた。




