6 魔物との邂逅
翌日。
朝霧の中で目を醒ました晃は、自分の半身が柔らかい土に覆われていることに気づいて飛び起きた。上半身を起こした拍子に細かな土塊が中に舞う。同時に体の節々が痛んだ。寝心地の悪い場所で長時間、横になっていたためだった。
見れば、膝から下は完全に土に埋まっていた。慎重に足を引き抜きながら、恐怖に唾を飲み込む。寝起きの気怠さはすでに吹き飛んでいた。
「気づかずに眠り続けていたら、このまま窒息死していたってことか」
土を払いながら周囲を見回す。昨晩の清流は影も形もなく、せせらぎの音も聞こえてこない。まばらに生えた木々と湿った土が広がるだけだ。相変わらず水の匂いは濃い。その匂いがどこか日本の里山を感じさせて、晃は苛立ちと切なさを感じた。
胸元から姫理の葉を取り出す。薄い霧の中、太陽に向けてかざしてみるが、葉脈がわずかに震えただけで、文字は現れなかった。
『おはようございます。昨晩はよく眠れましたか?』
頭の中に響いてきた『神』の声に晃は反応する。辺りを見回し、険しい口調で問い質した。
「あなたは俺を殺す気か? 味方なら、こんな異常な自然環境の中で警告のひとつやふたつくれてもよかっただろ。それとも、あの言葉は嘘か?」
『はっはっは。何を弱気になっていますか。このような試練、まだまだ序の口ではありませんか。あなたぐらいであれば、たとえ全身を飲み込まれたとしても強い意志と信念で脱出するはずでしょう』
買いかぶり、という言葉の意味を伝えるべきか、晃は本気で悩んだ。
姿は見えないが、『神』は笑っていることが伝わってくる。
『しかし、今からそれではこの先保ちませんぞ。サマデオス山地にいる間は我も特に労することなく声をかけられるでしょうが、その先はどうかわかりません。我としては早めに適応していただきたいところですな』
「言われなくてもそのつもりだ。やるしかないんだったら、進むだけだ。けどな、これはあくまで俺たちが目的を達成するためだ。あなたの希望を叶えるためじゃない」
結構結構、という返事とともに『神』の気配は消えた。晃は眉根を寄せたまま荒っぽい仕草で身支度を調える。そのときになって、眠るときに脱いでいた靴がなくなっていることに気づいた。どうやら土地が動いたときに一緒に飲み込まれたらしい。
『神』に揶揄されたことで少し気が立っていた晃は、太陽の位置から方向を確認すると靴下のまま歩き出す。だがすぐに後悔した。靴を履いていたときは何でもなかった道のりが、ひどく歩きにくいものに変わってしまっていた。雑草に覆われた地面に足を突っこむたび、葉先や枝に引っかかれて細かな傷ができる。血と傷はすぐに治まるが、破れてしまった靴下はどうにもならない。ものの一時間もしないうちに靴下は使い物にならなくなったため、捨てた。ゴミの不法投棄だという意識は上らなかった。
素足の疼痛に慣れ始めたとき、今度は別の深刻な事態に遭遇する。
突然、体が重くなったのだ。視界が歪み、回り始める。
「あれだけ動いて、昨日から何も食べてないんだ。これも当然か」
独り言を漏らす。自嘲の笑みを貼り付けたまま晃は周囲を見回した。これまでの旅で、この一帯に日本でも見かける小動物が暮らしているのは確認済みだ。今も近くの樹の枝から、数匹のリスらしき動物がこちらを見ている。
晃は彼らを捕まえて食べる気にはならなかった。猛烈に飢えているはずなのに、食欲が湧いてこない。理性が「これはヤバイ」と伝えてきた。
とにかく一刻も早く人里に出なければ――晃は重い体を引き摺ってひたすら歩き続けた。汗はやがて出なくなり、口の中が乾いていく。肌に艶がなくなり、指先が割れた。次第に自分が歩いているという意識もなくなって、植物が周囲で蠢く様子を見ても動じなくなった。ただ、変化する地形に飲み込まれる不安から眠りは浅くなった。
そうやって夜を迎え、朝を迎えを繰り返した。人里は、いまだ影も形もない。
――二日後。
朝日に照らされ、機械的に身を起こした晃は、自分が何かを口にしていることに気づいた。吐き出してみると、それは小さく柔らかな葉だった。よく似た形と質感の葉をつけた低木がすぐ傍らに生えている。どうやら無意識の内に新芽を摘んで口に入れていたらしい。
晃は、自分でも予想外の行動に出た。
「美味いな、これ」
一枚、二枚と摘んで口の中に放り込む。良く噛んで味わった。苦みも渋みもなく、代わりに水分とほのかな甘みが舌の上に広がる。ごくりと飲み込むと、体の奥底から力が湧いてくるように思えた。
結局、十枚ほどを平らげた晃は、寂しくなった枝を見て力なく笑った。
「ヤギみたいに葉っぱを食べて、ついに味覚もおかしくなったか」
『そうではありませんよ』
またも絶妙なタイミングで『神』が語りかけてくる。晃は不機嫌そうに空を見上げた。
『あなたの体が魔力を求めた結果です。クリスレグラでは動物よりも植物に多く魔力が含まれる。魔力を摂取しなければ、たとえ食物を腹に詰め込んでも餓死は免れないでしょう』
「それじゃあ何か。俺たち転生者は全員草食系に生まれ変わったということかい」
『ご心配なく。凡百な転生者はそこまで純化しておりません。魔力を摂らないで飢え苦しむのはあなたくらいです』
晃はすでに怒る気力も失せていた。
『ただ、飢餓で倒れようものならヒメリ殿はひとりになる。くれぐれもお忘れなく』
「そんなことは言われなくてもわかってる」
太陽の位置を確認し、さっさと歩き出そうとしたところに、再び『神』が告げてくる。
『ところで、これは我の期待の表れとして聞いていただきたいのですが』
「何だ」
『魔物が近づいています。それも多数』
晃の足が止まった。辺りを見回すが、それらしき姿はない。物音もしない。
魔物と言われて想像するのは、筋骨隆々な異形の生物だ。武装して襲いかかられたらひとたまりもないような化物連中。
皮肉を込めて、晃は尋ねた。
「あなたは俺に何を期待する? 武器も防具も着けていない俺が、素手でばったばったと敵をなぎ倒す姿か? まさかご親切に『逃げろ』と警告するつもりじゃないんだろ」
『ええ。別に戦う必要はありませんが、堂々と対峙してください』
「お断りだ。どこかでやり過ごす」
『無駄な努力はおやめなさい。あなたのみならず、転生者は魔物にとって異質な存在です。魔力の質の違いを彼らはすぐに嗅ぎ分ける。それよりも……おっと』
不意に『神』が言葉を濁す。
『いくら素晴らしい原石であろうと、手の加えすぎはよくないですな。では、くれぐれも野垂れ死にだけはしないように頑張ってください。我は常に、あなたを見ておりますゆえ』
勝手なところで切り上げ、『神』は去っていった。もっとも、ここ数日で『神』の底意地の悪さを見せつけられてきた晃にしてみれば、今更驚くようなことでもない。
晃は自らの言葉を実行に移すため、隠れられる場所を探した。洞窟のような都合の良いところはなく、茂みはあっても体を完全に覆い隠すほどではなかった。木々は五、六メートル間隔で散在し、視界を完全に遮るものにはなっていない。
まだ、魔物らしき存在を捉えることはできない。
晃は胸元にしまった姫理の葉をシャツ越しに触り、慎重に一歩を踏み出した。現状、魔物の姿は見えないし、そもそも魔物がどんなものなのかもわからない。このまま立っていても不安に潰されるだけだった。
些細な音も聞き漏らさないよう気を張りながら、晃は歩みを再開した。
素足になったことで足音はかなり低減されている。魔力が豊富に含まれているらしい葉を食べたせいか体は軽い。魔物は一向に現れない。そうして順調に距離を稼いでいく内、晃の警戒心は緩んでいった。
「どうせ『神』がまた、俺を脅して精神的に追い詰めるために吐いた台詞なんだ」
投げやりにつぶやいた、その直後。
背中を強い力で押され、晃は前のめりに倒れ込んだ。四つん這いの状態で顔だけを背後に向ける。
人の腰ほどはある大きな狼が、晃の背に爪を立てた状態で見下ろしていた。晃は大声を上げ、全力でもがいた。押さえつけようとする狼の爪が肉に食い込むのがわかったが、構っていられなかった。
大きく肘を振り上げる。肘先が狼の顎下をかすめ、拘束の力が緩む。晃は思いきり土を蹴り、低い姿勢から走り出した。だが直近の樹にたどり着く前に、今度は上から複数の影が落ちてきて行く手を塞がれる。
大きさに若干の違いはあれど、皆、鋭く尖った白銀の毛並みを持つ美しい狼たちだった。
まさか樹の上を音もなく移動してくるとは思わなかった晃は、合計八匹の獣に囲まれてその場に立ち尽くした。背中がじくじくと痛み、これが夢でも幻でもないことを告げる。晃はとっさに傍らの枝を折り、威嚇の意を込めて振るが、獣たちの包囲網に綻びは生まれなかった。
胸元を押さえる。死んでたまるかと口にしても、震えは止まらなかった。恐怖を誤魔化すためと、わずかな希望にすがるため、手にした枝を思い切り噛む。味はなく、代わりに樹液のように魔力が滲み出てくるのを感じた。
〈待て、お前たち〉
若い男の声がして、晃は周囲を見回した。だが人の姿はない。先程までじっと晃の顔を見つめていた獣たちの視線が、ある一匹に集中する。獣たちが注視しているのは、最初に晃を背後から襲った狼だった。他の個体より体が若干大きく、目付きが鋭い。初めて目にしたときには白銀の毛並みを剣山のように逆立てていたが、今は毛先が寝ている。
〈こいつは転生者だが『奪った者』じゃなさそうだ。匂いが違う〉
晃は口から枝を離した。狼の目を見る。
この獣は声を介さずに人語を発している。『神』と同じように。
獣たちは互いに顔を見合わせ、相談を始めた。
〈確かに胸糞が悪くなる感じはしないけど、それにしたって妙な匂いじゃないか。やっぱり馬鹿な転生者どもの一味では?〉
〈しかしこの辺りに世界樹はないはずだ。魔力の供給源がないのにこんな危険な場所へ『奪った者』が来る理由がないだろう〉
〈どうだか。奴らは考えなしで、理屈が通らない化物なんだぜ。世界樹がなくても関係ないのかもしれねえ〉
〈世界樹がない……本当にそうだろうか〉
最も体の大きな狼の一言に仲間たちがどよめく。
〈サマデオス山地は魔力が豊富だ。にもかかわらず、これまで世界樹の姿を目にしたことはない。だから我らはこうして定期的に探索してる。この一帯のことを一番知ってるのは俺たちだ。だが見てみろ。この光景を。かつてこれほど活発に大地が動き、植物が繁茂したことがあるか?〉
〈確かに〉
〈俺はこの現状を、世界樹が生まれたからだと考えてる。だとすると〉
狼の目が晃に向けられた。
〈こいつがここにいることは、世界樹と無関係じゃないのかもしれない〉
「俺を、どうするつもりだ」
晃にしてみれば精一杯の虚勢が思わぬ反応を生んだ。眼前の獣のみならず、包囲した他の獣たちまで驚きの声を上げたのだ。
〈貴様、我らの声が聞き取れるのか〉
「ああ」と短く首肯する。わずかに狼狽えた様子の獣たちに勇気を得た晃は、今度は自分から質問をぶつけた。
「君たちは世界樹を気にしていた。そして転生者を化物と言った。君たちは魔物なんだろう? 教えてくれ。魔物は世界樹の害となる存在なのか?」
途端、獣たちが低く唸りを上げ始めた。明らかに怒っている様子だった。
眼前の、最も体格の大きな獣が鋭い歯を見せつけるように口を開きながら尋ねる。
〈貴様。それは我らが誇り高き白フェリテ族だと知っての暴言か〉
「白フェリテ……知らない。気分を害したなら謝る。けど、これは俺にとって重要なことなんだ」
〈聞いてどうする〉
「もし魔物が世界樹にとって危険な存在なら、俺は止めなきゃならない」
〈わからんな。だったらなぜ出会い頭に魔法を使わなかった。貴様も転生者ならそのぐらいのことはできるはずだろう〉
「魔法とか何とか、俺は知らない! ただ俺は世界樹を、姫理を救いたいだけだ。一刻も早く、あの姿から解放したいんだよ。だからっ」
沸騰しかけた頭を鎮めるため、大きく息を吸う。
「だから、君たちを説得しようと思った。話が通じるなら、それもできるかなって」
〈貴様、呆れた馬鹿者だな〉
言葉通り呆れ果てた様子で首と尻尾を振る獣。
〈自分の口で、この先に世界樹があると白状しているようなものだぞ〉
「君たちが世界樹にとって悪ではないのなら、別に知られたって構わないだろう。俺は君たちの口からそれを確かめたかったんだ」
〈ほう。おい貴様、名は何と言う〉
突然尋ねられ、晃は名乗った。一方、眼前の獣は自らの名を『ダダハ』と告げた。
〈まず言っておくぞ、アキラ。我ら白フェリテ族は世界樹に危害を加えようなどと露ほども考えていない。貴様の疑問は的外れで、我らを侮辱するものだ〉
「う……」
〈加えて、我らは貴様ら転生者を野放しにするつもりはない。ゆえにこのまま黙って見過ごすわけにはいかん。一緒に来てもらおうか。確認したいこともある〉
「確認したいこと?」
〈さっきの貴様の啖呵が本心からのものかどうか、だ〉
そう言ってダダハは再び犬歯を覗かせ、凄んだ。




