第34話 姫君の決意
夕暮れ時、迷宮レストランでの試練を終えたセレスティアとアンナは、まだ帰るには早すぎるとばかりに、観覧スタンドへと足を運んでいた。空にはうっすらと茜色が滲み始め、日中の熱気が少しずつ和らいでいく心地よい時間帯だった。
「アンナ、まだ時間はあるかしら」
「日没までには、あと二刻ほどございますが……。姫様、まさかまだ何かなさるおつもりですか」
「せっかくだもの。あの、剣聖と噂の方の試練を、この目で見てみたいわ」
セレスティアの言葉に、アンナは深いため息をついたが、もはや止める気力もないといった様子で、静かに頷いた。
「分かりました。ですが、そろそろ日が傾いておりますし、あまり遅くなりすぎないようにいたしましょう」
「ええ、分かっているわ。……本当に、あなたには苦労をかけてばかりね」
セレスティアの素直な労いの言葉に、アンナは少し驚いたように目を見開いたが、やがて柔らかく微笑んだ。
観覧スタンドに到着すると、ちょうどガルムが新しい試練エリアに挑もうとしているところだった。水晶パネルに映し出されたその巨体は、遠目にも圧倒的な存在感を放っている。周囲の観客たちも、既に高まる期待に、そわそわとした様子を見せていた。
「あれが、噂の……」
セレスティアは思わず身を乗り出した。観客席から響く歓声、実況を務めるルナリアの澄んだ声、そして何より、ガルム自身が纏う闘志――それら全てが、これまでの人生では触れたことのない種類の熱狂を、彼女の胸に呼び起こしていた。
「本日は、剣聖ガルム様による特別試練の様子をお届けいたします!」
ルナリアのアナウンスに合わせて、ガルムが大剣を担ぎ直し、試練エリアへと足を踏み入れていく。重力の反転、視界を遮る煙幕、そして予測不能な連続攻撃――彼が一つひとつの困難を乗り越えていく様子に、セレスティアは息を呑んで見入っていた。
「すごい……。まるで、物語の中の英雄みたいだわ」
「姫様、随分と熱心にご覧になっていますね」
アンナがからかうように言うと、セレスティアは頬を染めながらも、視線を逸らさずに答えた。
「だって、こんなに生き生きとした戦いぶり、宮廷の御前試合では絶対に見られないもの」
宮廷での御前試合は、あくまで様式美を重んじる儀式的なものだった。剣士たちは決められた型に従い、勝敗すらもあらかじめ調整されていることが多い。そこには、ガルムが見せるような、命がけの緊張感も、予測不能な躍動感も存在しなかった。
「型にはまった美しさも、それはそれで価値があるのでしょうけれど……。でも、こういう剥き出しの熱量には、また別の魅力があるのね」
セレスティアの呟きに、アンナも思わず頷いていた。彼女もまた、これまで見てきたどんな戦いとも違う、この施設ならではの迫力に、静かに心を動かされているようだった。
試練を見事に突破したガルムが、汗だくの姿で観覧スタンドに近づいてきた。彼は偶然セレスティアたちの前を通りかかり、気さくに声をかけてきた。今日もまた、観客たちからの惜しみない拍手が、彼の勝利を称えるように鳴り響いていた。
「お、さっきの浮遊足場の嬢ちゃんじゃねえか。見物してくれてたのか」
「え、ええ! とても……とても素晴らしい戦いぶりでした」
セレスティアは興奮気味にそう答えた。実力ある戦士から直接言葉を交わされるという経験は、彼女にとって何度経験しても新鮮なものだった。宮廷での堅苦しい謁見とはまるで違う、対等な人間同士のやり取りが、彼女には何よりも心地よく感じられた。
「はっはっは、嬢ちゃんも見る目があるじゃねえか。今度は自分でも挑戦してみるといい。俺のところまではまだ早いだろうが、腕試しの階層なら十分楽しめるはずだ」
ガルムはそう言うと、豪快な笑い声を響かせた。
「わたしにも、できるでしょうか」
その問いには、これまでの人生で滅多に見せたことのない、素直な弱さが滲んでいた。
「できるかどうかは、やってみなけりゃ分からねえ。だが、少なくともここじゃ、失敗しても命は取られねえ。思い切ってやってみりゃいいのさ」
ガルムの豪快な言葉に、セレスティアは胸の奥が温かくなるのを感じた。失敗を恐れず、ただ挑戦することそのものを楽しめばいい――それは、これまで誰からも言われたことのない、しかし彼女が心のどこかでずっと求めていた言葉だった。
宮廷では、失敗は許されないものだった。一挙手一投足が常に評価の対象となり、少しの粗相ですら、家名を貶める過ちとして扱われることもあった。だからこそ、「失敗しても構わない」というこの単純な一言が、セレスティアの心にこれほど深く刺さったのかもしれない。
「ありがとうございます。……今度は、自分の足で挑戦してみます」
セレスティアの声には、確かな決意が滲んでいた。
セレスティアの言葉には、これまでにない力強さが宿っていた。ガルムはその変化に気づいたのか、満足げに頷いた。
「その意気だ。楽しみにしてるぜ、嬢ちゃん」
そう言い残すと、ガルムは次の挑戦者たちの元へと豪快に歩いていった。その後ろ姿を見送りながら、セレスティアはしばらくその場に立ち尽くしていた。彼女の胸の中では、新しい決意が確かな熱を伴って灯り始めていた。
その日の終わり、正面ゲートへと向かう道すがら、セレスティアはふと足を止めた。
「アンナ、少しだけ、あの人と話をしてきてもいいかしら」
彼女が視線を向けた先には、記録簿を片手に立つゼノンの姿があった。夕暮れの光を受けたその横顔には、支配人としての落ち着きと、どこか少年のような親しみやすさが同居しているように見えた。
「支配人殿と、ですか。……お気をつけてくださいませ」
アンナは短くそう応じながらも、少し離れた場所で静かに待つ構えを見せた。
アンナの忠告に頷きながら、セレスティアはゆっくりとゼノンの元へ歩み寄った。
「あの、少しよろしいでしょうか」
セレスティアは緊張の面持ちで、静かに声をかけた。
「ああ、何か問題でも?」
ゼノンは特に構える様子もなく、いつも通りの穏やかな声で応じた。
ゼノンが振り返ると、セレスティアは少し緊張した面持ちで言葉を紡いだ。彼女にとって、こうして自分から相手に話しかけるという行為自体、決して当たり前のことではなかった。
「今日一日、本当に素晴らしい経験をさせていただきました。……こんなにも心から楽しいと思えた一日は、久しぶりでした」
その言葉に、ゼノンは静かに微笑んだ。
「それは何よりだ。楽しんでもらえたなら、こちらとしても本望だ」
ゼノンの飾らない言葉に、セレスティアは少し驚いたように目を見開いた。宮廷で交わされる社交辞令とは違う、この率直さこそが、この施設全体を貫く空気なのかもしれないと、彼女は改めて感じ取っていた。
「あの、失礼ながら……。支配人殿は、いつもこのように、お客様一人ひとりに直接お声をかけていらっしゃるのですか」
「気になった時は、そうしている。この施設は、俺一人の力で成り立っているわけじゃない。だが、支配人として、できる限り一人ひとりの声には耳を傾けたいと思っている」
ゼノンの言葉に、セレスティアは深く頷いた。組織の頂点に立ちながらも、末端の声に真摯に耳を傾けようとする姿勢――それは、彼女が知る多くの為政者たちには、決して見られないものだった。
「一つ、伺ってもよろしいでしょうか」
セレスティアの問いかけに、ゼノンは軽く頷いた。
「あなたは、なぜこの施設を作ろうと思われたのですか。……普通なら、もっと『安全な』道もあったはずですのに」
その問いは、単なる好奇心を超えた、真剣な響きを帯びていた。
その問いに、ゼノンはしばし考え込んだ。身分を隠した客からの、思いがけず本質的な質問だった。それでも彼は、誤魔化すことなく、正直に自分の過去と向き合うことを選んだ。
「昔、俺は理不尽な理由で、それまでの仕事を追われた。効率だけを求める組織の中で、俺のやり方は『無駄』だと切り捨てられたんだ」
「そんな……」
セレスティアは思わず息を呑んだ。理不尽な仕打ちを受けたという話に、彼女自身の胸の内にも、何か通じるものを感じ取っているようだった。
「だが、追放された先で気づいた。人が本当に求めているのは、単なる効率や利益じゃない。挑戦する喜び、乗り越えた時の達成感、そして誰かと分かち合える感動――それこそが、人を本当の意味で満たすものなんだと」
ゼノンの言葉に、セレスティアは胸を打たれたように黙り込んだ。それは、彼女自身が今日一日で、身をもって実感してきたことと、まさに重なるものだった。
「理不尽な扱いを受けたにもかかわらず、恨みや復讐ではなく、こうして誰かを楽しませる場所を作り上げる……。並大抵の強さでは、できないことだと思います」
「強さ、というよりは、意地みたいなものかもしれないな。俺を切り捨てた連中を見返してやりたい、という気持ちも、正直まったくなかったわけじゃない」
ゼノンは苦笑しながらそう付け加えた。その飾らない告白に、セレスティアはかえって好感を抱いたようだった。
「でも、それだけじゃない。今は、この場所に集まってくれる人たち、挑戦者や仲間たちの笑顔を見ることの方が、何倍も大切に思えている」
その言葉には、確かな実感が込められていた。セレスティアは静かに頷きながら、目の前の青年の在り方に、深い敬意を抱き始めていた。
「わたしも、いつか……。誰かに与えられた枠組みではなく、自分自身の意志で選び取った何かを、大切にしたいと思います」
その言葉には、単なる感想以上の、確かな決意が滲んでいた。ゼノンはその真剣な眼差しに、何か特別なものを感じ取っていた。
「今日はありがとうございました。……また、必ず来ますわ」
その声には、確かな約束の響きが込められていた。
セレスティアはそう言うと、深々と一礼をした。その所作には、庶民の娘とは思えないほどの、洗練された美しさが滲んでいたが、ゼノンはあえて何も指摘しなかった。
傍らのアンナも、静かに頭を下げていた。長旅の疲れよりも、確かな満足感の方が、二人の表情には色濃く浮かんでいるようだった。
「いつでも歓迎する。この施設は、誰であろうと変わらず迎え入れる場所だからな」
その一言に、迷いのない誠実さが込められていた。
その言葉に、セレスティアは満面の笑みを浮かべた。夕暮れの光の中、その笑顔は、これまで見せてきたどんな貴族的な微笑みよりも、はるかに輝いて見えた。
正面ゲートを後にする二人の後ろ姿を見送りながら、ゼノンは静かに呟いた。
「あの様子だと、本当にただの客じゃなさそうだな」
いつの間にか隣に立っていたルナリアが、くすりと笑いながら、いつもの調子でそう言った。
「気づいていらっしゃったのですね」
「まあな。……だが、それでいい。身分がどうであれ、この場所を心から楽しんでくれる客であることに変わりはない」
ルナリアはその言葉に、深く頷いた。彼女もまた、身分の垣根を越えて人を惹きつけるこの施設の在り方を、誇らしく思っているようだった。
「あの方、きっとまた戻っていらっしゃいますわね」
「ああ、その予感はする」
ゼノンは静かにそう答えながら、遠ざかっていく二人の背中を、いつまでも見つめ続けていた。今日という一日が、単なる一過性の出来事ではなく、この施設にとって、そして自分自身にとっても、何か大きな意味を持つ転機になるかもしれない――そんな予感が、彼の胸の中に静かに広がっていた。
夕日が沈みゆく空の下、深遠のアミューズメント・グラウンドの一日が、静かに幕を閉じようとしていた。国境を越えてやってきた一人の姫君との出会いは、これから先、思いもよらない大きな展開へと繋がっていくことになる。




