第32話 お忍びの姫君
早朝、国境を越える街道に、質素な旅装束に身を包んだ二人の女性の姿があった。
セレスティアは、普段とは比べ物にならないほど動きやすい服に身を包み、長い金髪を簡素な布で覆い隠していた。傍らを歩くアンナもまた、目立たぬ地味な装いで、周囲に気を配りながら歩みを進めている。
「ねえアンナ、こんなに歩くの、生まれて初めてかもしれないわ」
「馬車を使わないという、姫様のご希望でしたでしょう」
「だって、身分を隠すなら、それらしく振る舞わないと」
セレスティアは息を弾ませながらも、その表情には隠しきれない高揚感が滲んでいた。慣れない徒歩の旅は決して楽なものではなかったが、それすらも彼女にとっては新鮮な体験の一部になっているようだった。
道端に咲く名も知らぬ花、遠くに見える農村の煙、すれ違う旅人たちの何気ない挨拶――普段の彼女なら気にも留めなかったであろう些細な光景の一つひとつが、今は不思議なほど新鮮に映っていた。
国境を越え、深遠のアミューズメント・グラウンドの噂を裏付けるように、道中の宿場町でも、その名を耳にする機会が増えていった。
「あの施設のこと、あなたたちも聞いたことある?」
宿の食堂で隣の席に座っていた旅人たちが、楽しげに話し込んでいる。セレスティアはさりげなく耳を傾けた。
「聞いたどころか、俺の友人が実際に行ってきたって話だぜ。何でも、剣聖と呼ばれた男が、辛いカレーで悶絶してる姿が見られるとか」
「剣聖が、カレーで?」
「ああ。命懸けの死闘とはまた違う、なんとも言えない面白さがあるらしい」
旅人の一人がそう続けると、周囲の卓からも次々と相槌が飛んできた。まるで一つの共通言語であるかのように、その施設の噂は、あちこちの会話に自然と溶け込んでいるようだった。
「俺も一度行ってみたいんだよなあ。噂じゃ、初心者でも楽しめる階層があるらしいし」
「俺は激辛カレーってやつが気になる。挑戦者が悶絶する姿、見てるだけで笑えるって話だぜ」
旅人たちの弾んだ会話に耳を傾けながら、セレスティアはそっと隣に座るアンナに目配せをした。アンナもまた、その盛り上がりに驚きを隠せない様子で、小さく頷き返していた。
その会話に、セレスティアは思わず口元を緩めた。瓦版で読んだ話が、こうして実際の人々の口からも語られている――それだけで、これから訪れる場所への期待が、さらに膨らんでいくようだった。
正面ゲートに到着したのは、開場から少し経った頃だった。既に長い行列ができており、セレスティアとアンナもその最後尾に並んだ。
「これが……噂の」
セレスティアは思わず足を止め、呟いた。長旅の疲れも、この瞬間だけは忘れてしまうほどだった。
行列の先に見える施設の全景に、セレスティアは思わず息を呑んだ。木造の観覧スタンド、賑やかな喧騒、そして時折聞こえてくる歓声――瓦版の挿絵からは想像もできなかった、生きた熱気がそこにはあった。
風に乗って漂ってくる香辛料の香りと、遠くから響く誰かの歓声。それら全てが混ざり合い、これまで嗅いだことのない、活気に満ちた匂いを作り上げているようだった。
「姫様、あまり見とれていらっしゃると、目立ちますわよ」
アンナの忠告に、セレスティアは慌てて表情を取り繕った。だが、内心の高鳴りまでは、どうしても抑えきれなかった。
行列に並ぶ人々の顔ぶれは、実に多種多様だった。武装した冒険者、家族連れ、そして自分たちと同じように旅装束に身を包んだ商人風の男女――身分や立場を問わず、誰もが同じ期待に満ちた表情で順番を待っている光景は、セレスティアにとって、これまで経験したことのない不思議な一体感を感じさせるものだった。
「こんなにたくさんの人が、同じ場所を目指して並んでいるなんて……」
「姫様、独り言も控えめにお願いいたしますね」
アンナの囁くような忠告に、セレスティアはくすりと笑いながら口をつぐんだ。それでも、胸の高鳴りだけは、どうしても隠しきれずにいた。
案内係を務めていたエマが、二人の順番になった際、気さくに声をかけた。彼女もまた、開業当初からの常連として、今ではすっかり案内役が板についていた。
「初めてのお客様ですか? よろしければ、簡単に施設のご案内をいたしますよ」
「え、ええ、お願いするわ」
セレスティアは緊張を悟られぬよう、精一杯自然な笑顔を作りながら答えた。庶民の娘を装う彼女の演技は、決して完璧ではなかったが、エマはそれを気に留める様子もなく、笑顔で説明を続けていく。
「わたし、リクとダンとエマの三人で、開業当初からずっとここに通ってるんです。最初はほんの数人しかいなかったのに、今はこんなに賑わうようになって……なんだか不思議な気分なんですよ」
エマの言葉に、セレスティアは興味深そうに耳を傾けた。この施設の歴史そのものを、当事者の口から聞ける機会は、瓦版などでは決して得られないものだった。
「あなたたちは、最初からこの場所を知っていたのね」
セレスティアはしみじみとそう呟いた。
「はい! 最初の挑戦者は、わたしたちだったんですよ。今思うと、ちょっと自慢できることかもしれません」
エマは懐かしそうに目を細めながら、誇らしげに胸を張った。その飾らない笑顔に、セレスティアもつられるように微笑んだ。この施設に集う人々の温かさが、旅の疲れをすっかり忘れさせてくれるようだった。
「第一階層は浮遊足場のアスレチックゾーンです。落ちても大丈夫なように、下には安全な仕掛けがしてありますから、思い切って挑戦してみてください」
「落ちても、大丈夫……」
その言葉を、セレスティアは噛みしめるように繰り返した。これまでの人生で、「失敗しても大丈夫」という前提のもとに何かに挑む経験は、ほとんどなかったように思う。常に完璧であること、常に模範的であることを求められてきた彼女にとって、その一言は、これまでの価値観を静かに揺さぶるものだった。
第一階層の入り口に立ったセレスティアは、浮遊する足場を前に、しばし躊躇していた。
「姫様、本当に挑戦されるのですか」
「もちろんよ。ここまで来て、見ているだけなんてつまらないもの」
セレスティアはそう言うと、意を決したように最初の足場に足をかけた。足元が不安定に揺れる感覚に、思わず小さな悲鳴が漏れる。
「きゃっ……!」
「姫様、危のうございます!」
アンナが慌てて手を差し伸べるも、セレスティアはなんとか体勢を立て直し、次の足場へと足を進めていった。慣れない動きに何度もよろめきながらも、彼女の顔には、恐怖よりも楽しさの方が色濃く浮かんでいた。
「ふふ、なんだか、心臓がドキドキするわ……! こんな感覚、久しぶり」
その言葉には、宮廷では決して味わえない種類の高揚感が込められていた。予定調和の中で完璧にこなすことだけを求められてきた彼女にとって、不安定な足場の上で必死にバランスを取るこの瞬間は、ある種の解放感すら伴うものだった。三歩進んでは体勢を崩し、また立て直す――その繰り返しの中で、セレスティアは次第に、堅苦しい肩書きから解き放たれていく自分自身を感じ取っていた。
その様子を、少し離れた場所からゼノンとルナリアが見守っていた。
「あれが、セレスティア様ですのね」
ルナリアが静かに呟くと、ゼノンもまた足場の上で奮闘するその姿を見つめた。
「随分と楽しんでいるようだな」
ゼノンの言葉に、ルナリアは小さく頷いた。身分を隠していても、その一挙手一投足には、育ちの良さと共に、確かな自由への渇望が滲み出ているようだった。
結局、セレスティアは第一階層を突破するのに、通常の初心者よりも長い時間を要した。何度も足を滑らせ、そのたびにアンナが冷や冷やしながら見守っていたが、彼女は一度も諦めようとはしなかった。
「姫様、少しお休みになってはいかがですか。無理をなさらなくても……」
「大丈夫よ。ここでやめたら、きっと後悔するもの」
その声には、これまで見せたことのない、芯の強さが宿っていた。
息を切らせながらも、セレスティアはきっぱりとそう言い切った。これまでの人生で、何かをこれほど強い意志で最後までやり遂げようとした経験は、あまりなかったように思う。誰かに評価されるためでも、体裁を保つためでもない、純粋に自分自身のための挑戦――それこそが、今この瞬間、彼女を突き動かしている原動力だった。
最終足場に辿り着いた時、セレスティアは息を切らせながらも、満面の笑みを浮かべていた。
「やったわ……! 本当にやり遂げたのね、わたくし!」
その声は、これまでの人生で聞いたことがないほど、弾んでいた。
「お疲れ様でございます、姫様……。心臓が持ちませんでしたわ」
アンナがぐったりとした様子で呟くと、セレスティアはくすくすと笑いながら、その肩に軽く手を置いた。
「ありがとう、アンナ。あなたが一緒にいてくれたから、最後まで頑張れたわ」
その素直な感謝の言葉に、アンナの表情も自然と和らいでいった。これまで見たことのない、生き生きとした主の姿を目の当たりにして、彼女自身もまた、この旅に付き合ってよかったと、密かに思い始めているようだった。
達成感に満ちた様子で汗を拭うセレスティアの元に、ガルムがさりげなく近づいてきた。
「お嬢さん、なかなか良い動きだったな。初めてにしちゃ上出来だ」
「あ、ありがとうございます」
思わぬ言葉に、セレスティアは目を丸くしながら答えた。実力ある戦士から直接褒められるという経験も、これまでの宮廷生活では味わったことのないものだった。
宮廷では、褒め言葉の多くが社交辞令や政治的な思惑を伴うものだった。だからこそ、この飾らない、まっすぐな称賛の言葉は、これまでどんな貴族の賛辞よりも、彼女の心に深く染み入るものだった。
「その様子だと、また来てくれそうだな」
ガルムがからかうように言うと、セレスティアは少し慌てながらも、素直に頷いた。
「ええ、きっと。……こんなに楽しい場所、初めてだもの」
その言葉に嘘はなかった。生まれてからずっと、決められた枠の中でしか生きてこなかった彼女にとって、この施設で過ごすひとときは、まるで別世界に迷い込んだかのような、鮮烈な体験になっていた。
「次は迷宮レストランにも行ってみるといい。あそこの飯は絶品だぜ」
「迷宮、レストラン……。それも、行ってみたいわ」
セレスティアの目が、期待に輝いた。この施設が用意する体験の全てを、余すところなく味わい尽くしたい――そんな欲求が、彼女の中でますます膨らんでいくのを、ガルムは気づかぬふりをしながら見守っていた。
観覧スタンドの脇では、ゼノンがその一部始終を静かに眺めていた。身分を明かさずとも、この施設の魅力を心から楽しんでくれている客の存在は、何よりも嬉しいものだった。
「支配人、あの様子だと、しばらくは目が離せませんわね」
いつの間にか隣に立っていたルナリアが、くすりと笑いながら囁いた。
「ああ。だが、無理に特別扱いをするつもりはない。今まで通り、一人の挑戦者として見守るだけだ」
「ええ、それでよろしいと思いますわ。……きっと、そういう対応こそが、あの方が求めているものでしょうから」
ルナリアの言葉に、ゼノンは静かに頷いた。身分の高さに関わらず、誰もが平等に楽しめる場所であり続けること――それこそが、この施設が最初から大切にしてきた在り方だった。その揺るぎない姿勢こそが、今日もまた一人の客の心を掴んだのだった。
深遠のアミューズメント・グラウンドの新しい客人との物語は、こうして静かに、しかし確かな熱を持って始まっていた。まだ迷宮レストランでの挑戦も、彼女を待つ数々の驚きも、これから先の話だった。




