第31話 隣国からの便り
隣国リヴェルダ王国の王宮、その一室で、一人の少女が窓辺に佇んでいた。
艶やかな金髪を結い上げ、上質な絹のドレスを纏ったその少女は、リヴェルダ王国第二王女、セレスティア。年齢は十七歳、社交界ではその美貌と聡明さで知られる存在だったが、当の本人は、堅苦しい宮廷の日々にどこか物足りなさを感じていた。
窓の外に広がるのは、整然と手入れされた庭園の景色。美しくはあるが、代わり映えのしない光景だった。幼い頃から、決められた作法、決められた予定、決められた交友関係の中で育ってきた彼女にとって、その完璧すぎる調和は、時に息苦しさすら感じさせるものだった。
「また同じような茶会、同じような話題……」
彼女の手には、隣国の商人から届いたばかりの一枚の瓦版が握られていた。そこには、拙い挿絵とともに、奇妙なダンジョンの噂が記されている。命を奪わない仕掛け、豪快な戦士の奮闘、そして絶品と噂される激辛カレー――どれもが、これまでセレスティアが触れてきたどんな娯楽とも違う、生々しい熱気を感じさせるものだった。
「深遠のアミューズメント・グラウンド、か……」
セレスティアは、その名を口の中で転がすように呟いた。瓦版に描かれた挿絵は稚拙なものだったが、そこに映る挑戦者たちの生き生きとした表情だけは、なぜか鮮明に胸に焼き付いて離れなかった。
傍らに控えていた侍女のアンナが、心配そうに主の顔を覗き込んだ。
「姫様、またその瓦版をご覧になっているのですか」
「ええ。何度読んでも、飽きないのよ」
セレスティアは瓦版を大切そうに撫でながら答えた。
「……もしや、また突飛なことをお考えなのでは」
アンナの問いかけに、セレスティアは悪戯っぽく微笑んだ。その表情だけで、アンナは全てを察してしまったようだった。
「姫様、いけません。隣国とはいえ、王族が身分を隠して他国の施設に赴くなど、万が一のことがあれば――」
アンナの声は真剣そのものだった。長年、王女の傍らで仕えてきた彼女にとって、主の身の安全は何よりも優先すべき事柄だったのだろう。
「大丈夫よ、アンナ。ちゃんと護衛も連れていくし、身分を隠す準備も抜かりなくするわ」
セレスティアは慣れた様子でそう答えた。実のところ、こうした「お忍び」の計画を立てるのは、これが初めてではなかったのだろう。その手際の良さに、アンナは半ば呆れながらも、どこか感心せざるを得なかった。
「そういう問題ではございません!」
アンナの悲鳴にも似た声に、セレスティアはくすくすと笑った。しかし、その瞳の奥には、揺るぎない決意が宿っているのが見て取れた。
「ねえアンナ、正直に言うと、わたくしもう限界なの。毎日毎日、同じような殿方たちとの茶会、同じような話題での社交辞令……。心の底から楽しいと思える瞬間が、最近ずっとないのよ」
その言葉には、普段のわがままとは違う、切実な響きが込められていた。アンナは思わず言葉を失い、しばらく主の顔を見つめていた。
「……姫様が、そこまで思い詰めていらっしゃったとは、存じませんでした」
「大袈裟に言うつもりはないのだけれど。……ただ、あの瓦版を読んだ時、久しぶりに胸が高鳴ったの。行ってみたい、この目で見てみたいって、そう強く思ったのよ」
その率直な想いに、アンナの表情から険しさが少しずつ和らいでいった。
セレスティアがこの噂に興味を抱いたきっかけは、数週間前に遡る。
王宮を訪れた隣国の行商人――ロレンツという名だったか――が、他の貴族たちに向けて熱心に語っていた話が、たまたま彼女の耳に届いたのだ。
「命を奪わないダンジョンとは、興味深いことを申される」
ロレンツの語り口は、いつも通り熱を帯びていた。行商人として各地を巡る中で、彼はこの施設の魅力を語ることに、いつしか強い誇りを抱くようになっていたのだろう。
その場にいた年配の貴族は、半信半疑といった様子で聞き流していた。だが、セレスティアの心には、その話が強く残り続けていた。
「命を奪わないというのなら、いったいどうやって挑戦者を満足させるというのだ。危険がなければ、緊張感も生まれまい」
別の貴族がそう茶化すように口を挟んだが、ロレンツは自信を持って言い返していた。
「それが、実際に見てみると分かるのです。危険がないからこそ、挑戦者は思う存分、恐怖と興奮を味わうことができる。命を懸けずとも、これほど熱狂できるものかと、私自身、初めて訪れた時には驚かされました」
その言葉に、セレスティアの好奇心はますます膨らんでいった。命を懸けることでしか得られないと思われてきた興奮を、全く違う形で実現しているという発想――それは、これまで彼女が触れてきたどんな価値観とも異なるものだった。
命懸けの戦いばかりが評価される風潮の中、挑戦と達成感を軸にした、全く新しい形の娯楽施設――それは、セレスティアがこれまで抱いてきた、窮屈な宮廷生活への違和感と、どこか重なるものがあった。
「わたくしも、いつか誰かに評価されるためではなく、自分自身が心から楽しめることを、してみたいわ」
その願いは、小さくも確かな彼女の本心だった。
そう呟いた彼女の言葉は、誰の耳にも届くことなく、静かな王宮の一室に消えていった。
一方、深遠のアミューズメント・グラウンドでは、ゼノンとルナリアが、隣国からの新たな報告を前に議論を交わしていた。
「リヴェルダ王国、か。……ロレンツの報告によれば、あちらの王族の一人が、うちの施設に強い関心を示しているらしい」
「セレスティア第二王女様、ですわね。社交界でも評判の聡明な姫君だとか」
ルナリアの言葉に、ゼノンは腕を組んだ。国内の貴族や王立ギルドとの関係は、既にある程度築いてきた。だが、隣国の、それも王族となれば、これまでとは全く違う重みを持つ話になる。
「セレスティア様は、社交界でも一目置かれる存在だと聞いておりますわ。聡明でありながら、少々型破りなところもおありだとか」
ルナリアの情報源は、こうした細やかな人物評にも及んでいた。彼女の事務処理能力は、単なる数字の管理に留まらず、この施設に関わる全ての人間関係を丁寧に把握することにも発揮されているようだった。
「型破り、か」
「ええ。定型的な社交儀礼よりも、実のある対話や新しい体験を好まれる、変わり者の姫君だという噂ですの。……そういう意味では、うちの施設に興味を持たれるのも、頷ける話かもしれませんわね」
ルナリアの分析に、ゼノンは小さく笑った。既存の枠組みに収まらない性質は、この施設に集まる仲間たちにも、どこか共通するものがあるように思えた。
「正式な来訪ということになれば、それなりの準備が必要になるだろうな」
「ただ、ロレンツ殿の話では、正式な訪問ではなく、あくまで内密に、というご意向のようですわ」
「お忍び、か」
ゼノンは小さく笑みを浮かべた。以前、この施設を訪れた身分を隠した令嬢のことを思い出す。あの時と同じように、今回も静かに、しかし確かな敬意を持って迎え入れればいい。それが、この施設のやり方だった。
「特別扱いはしない。他の客と同じように、この施設の魅力を存分に味わってもらう」
「ええ、それがあなたらしいですわね」
その頃、リヴェルダ王国の王宮では、セレスティアが密かに準備を進めていた。
「アンナ、旅装束の手配は?」
セレスティアは、既に何やら弾んだ声色でそう尋ねていた。
「……もう、諦めておりませんでしたのね」
アンナは苦笑しながら答えた。
アンナは深いため息をつきながらも、既に準備を整えていたらしく、簡素な旅装束の入った包みを差し出した。
「姫様がこうと決められたら、もう誰にも止められないことくらい、長年お仕えしていれば分かりますもの。……せめて、私にできる限りの安全策だけは講じさせていただきますわ」
「アンナ……」
「その代わり、絶対に無茶な行動は慎んでくださいませ。……本当に、心配で夜も眠れませんでしたのよ」
アンナのぼやきに、セレスティアは申し訳なさそうに眉を下げながらも、口元には隠しきれない笑みを浮かべていた。長年の主従関係の中で培われた信頼が、こうしたやり取りの端々からも伝わってくるようだった。
「本当に、行かれるのですね」
アンナの声には、これまでの反対とはまた違う、どこか諦めにも似た響きが混じっていた。長年の付き合いの中で、この主人が一度決めたことを覆すのは至難の業だと、身をもって理解しているのだろう。
「ええ。一度この目で確かめてみたいの。命懸けの戦いでもなく、退屈な社交でもない、心から楽しめる場所というものを」
セレスティアの声には、これまでにない真剣さが滲んでいた。単なる好奇心だけでなく、彼女自身の生き方を模索する、切実な想いがそこにはあるようだった。
「護衛は最小限に、目立たぬように手配いたします。……ですが、くれぐれもご無理はなさらないでくださいませ」
「ありがとう、アンナ。あなたには本当に感謝しているわ」
セレスティアはそう言うと、窓の外に広がる、隣国の方角を見つめた。噂に聞く施設が、一体どのような光景を見せてくれるのか――その期待に、胸が高鳴るのを抑えられなかった。
これまでの人生で、これほど自発的に何かを求めた記憶は、あまりなかったように思う。誰かに命じられたからではなく、誰かに評価されるためでもなく、ただ純粋に自分の意志で選び取った小さな冒険――それだけで、セレスティアの心は、これまでにないほど軽やかになっていた。
数日後、ロレンツが再び深遠のアミューズメント・グラウンドを訪れ、ゼノンに詳細な報告をもたらした。
「支配人殿、セレスティア王女殿下が、近いうちにお忍びでいらっしゃる可能性が高いとのことです。護衛は最小限、あくまで一般の客として振る舞われるご意向とか」
「分かった。特別な準備はしない。……ただ、万が一の安全対策だけは、念のため強化しておこう」
「賢明なご判断です。ガルム殿の存在が、こういう時こそ心強いですな」
ロレンツの言葉に、ゼノンは小さく頷いた。命を奪わない設計とはいえ、王族を迎える以上、細心の注意は必要になる。だが、それも普段の運営姿勢を大きく変えるものではない。
その夜、ゼノンはガルムとシルフを呼び、簡単な打ち合わせの場を設けた。
「近いうちに、隣国の姫君がお忍びで来る可能性がある。表向きは普段通りの対応でいいが、安全面については、あんたに頼みたい」
「おう、任せろ。誰であろうと、うちに来た客を危険な目には遭わせねえ」
ガルムは頼もしげに胸を叩いた。その一言だけで、ゼノンの胸に安堵が広がる。
「シルフ、映像配信については、その方が映り込まないよう配慮してくれ。身分を隠している以上、うっかり素性が漏れるようなことがあってはならない」
「了解! 顔がはっきり映らないようなアングルを心がけるよ。それに、必要なら一部の映像は編集でぼかすこともできるし」
シルフの手際の良い返答に、ゼノンは満足げに頷いた。開業当初からの仲間たちが、こうして自然と適切な対応を考えてくれることに、改めて心強さを感じていた。
窓の外には、いつもと変わらぬ賑わいが広がっていた。ゼノンは静かにその光景を眺めながら、これから訪れるであろう新しい客人に、静かな期待を寄せていた。
誰であれ、この施設を訪れる者は、皆同じ挑戦者だ。身分の高さも、来歴の複雑さも、この場所の在り方を変える理由にはならない。ゼノンはそう静かに自分に言い聞かせながら、いつも通りの一日の締めくくりに向けて、記録簿へと視線を落とした。
深遠のアミューズメント・グラウンドの物語は、国境を越えて、また新しい章へと歩みを進めようとしていた。




