第21話 国境を越える喝采
ロレンツが久しぶりに慌ただしい様子で正面ゲートに現れたのは、ガルムの新エリア突破から数日後のことだった。
「支配人殿、大変です! 例の映像契約の件、想像以上の反響ですぞ!」
息を切らせながら差し出された書類には、隣領を超えたさらに先、いくつもの町の劇場や酒場からの上映依頼が並んでいた。ゼノンはその数を見て、思わず眉を上げた。
「これは……予定していた数の倍以上だな」
「そうなんです! 最初は物珍しさだけだったのが、ガルム殿の活躍が伝わるや否や、火がついたように広がりましてな。今や『深遠のアミューズメント・グラウンド』の名を知らぬ者は、少なくともこの近隣諸国では珍しいくらいですぞ」
ロレンツは興奮を隠しきれない様子で、羊皮紙の束を何度も叩いていた。ゼノンは腕を組み、書類に目を通しながら思考を巡らせる。
「劇場ごとに映像の質にばらつきが出ては困る。シルフに確認を取らせる」
「もちろんです。細部の調整は、いくらでもご協力いたしますぞ」
傍らで話を聞いていたルナリアが、静かに口を開いた。
「一気に規模が広がりますわね。……悪い話ではありませんけれど、管理が追いつかなくなる恐れもありますわ」
「分かっている。急拡大には慎重になる必要がある」
ゼノンの言葉に、ロレンツは深く頷いた。
「さすがは支配人殿。目先の利益だけに飛びつかない、その姿勢こそが信頼を生むというものです」
ロレンツはそう言いながら、羊皮紙の中から一枚を抜き出した。
「それと、もう一つご報告が。王都に近い大劇場からも、正式な打診が届いております。これが実現すれば、王都の住民にも直接映像が届くことになりますぞ」
「王都、か」
ゼノンはその一言に、わずかに目を細めた。ボルドーやヴァルガスの息のかかった場所に近い分、慎重に扱う必要があるだろう。だが同時に、それだけ多くの人々にこの施設の存在を届けられるという意味でもあった。
「悪い話ではない。ただし、契約内容は一字一句、こちらで確認させてもらう」
「もちろんです。抜かりなく手配いたしますぞ」
ロレンツは差し出した書類の束を丁寧に束ね直しながら、ふと真面目な顔つきになった。
「支配人殿、一つだけ申し上げておきます。この施設が大きくなればなるほど、良からぬことを企む輩も現れるでしょう。くれぐれも、お気をつけくださいませ」
「忠告、感謝する」
ロレンツは深々と頭を下げると、次の商談先へ向かうべく、慌ただしく荷馬車に乗り込んでいった。その後ろ姿を見送りながら、シルフが感心したように呟いた。
「あの人、本当に商売熱心だよね。休む暇なさそう」
「それだけ、この施設に賭けているということだろう」
同じ頃、遠く離れたとある町の酒場では、旅人たちの間で例の噂話が飛び交っていた。
「聞いたか、西の方にできたっていう変なダンジョンの話」
「ああ、あの、死なないダンジョンだろ。俺も映像を見たことがあるぞ。でかい男が汗だくになって足場を渡ってるやつだ」
「あれ、本当にあんなに難しいのか。見てるだけで手に汗握ったぜ」
「一度行ってみたいもんだな。噂じゃ、初心者向けの階層もあるらしいし」
旅人たちの会話は、それぞれの故郷へ、また別の旅先へと運ばれていく。噂とは不思議なもので、一度火がつくと、誰も止められない速さで広がっていくものだった。
別の卓では、行商人らしき二人組が、地図を広げながら話し込んでいた。
「今度の商売、あのダンジョンの近くを通る道を選ぼうと思ってな。ついでに寄っていけば、話のタネにもなるだろう」
「賢いな。俺も次の巡りで立ち寄ってみるか。……なあ、本当に死人が出ないってのは本当なのか?」
「ああ、確かな筋から聞いた話だ。安全設計とやらで、どんなに派手に転んでも、痛い思いはしても命は取られないらしい。だからこそ、貴族の坊っちゃん嬢ちゃんまで見物に来てるんだと」
「そいつは豪気な話だな」
二人はそう言って笑い合い、酒杯を打ち合わせた。噂は事実に多少の尾ひれをつけながらも、確実にその評判を広めていった。
店の奥では、旅の吟遊詩人が興味深そうに聞き耳を立てていた。彼は懐から小さな手帳を取り出し、聞いた噂を書き留めていく。
「これは、いい題材になりそうだな……」
吟遊詩人の呟きは、誰の耳にも留まらなかった。だが、彼のような語り部の存在もまた、噂を歌や物語として遠くの土地にまで運ぶ役割を担っていた。深遠のアミューズメント・グラウンドの評判は、こうしてあらゆる経路を通じて、確実にその輪を広げ続けていた。
一方、王都のとある邸宅では、あの令嬢が再び窓辺で羊皮紙を眺めていた。
「侍女のミア、これを見て。あの施設の噂、本当にすごいことになっているのね」
「お嬢様、いい加減その話は……。旦那様に知られたら、大目玉ですわよ」
ミアと呼ばれた侍女は、困り顔で令嬢の手元を覗き込んだ。そこには、旅の商人から手に入れたらしい、簡素な瓦版が広げられている。挑戦者たちの奮闘ぶりが、拙い挿絵とともに面白おかしく紹介されていた。
「だって、こんなに楽しそうな場所、なかなかないもの。……お父様には内緒で、少しだけ見に行くくらい、許されるはずよ」
「お嬢様……」
ミアはため息をつきながらも、令嬢の好奇心に満ちた瞳を見て、それ以上強く止めることができずにいた。この小さな決意が、やがて隣国の宮廷にまで届く大きな出来事の種になろうとは、この時点では誰も予想していなかった。
令嬢は瓦版を丁寧に折りたたみながら、独り言のように呟いた。
「お父様は、いつも『貴族らしくあれ』とばかりおっしゃるけれど……。こんなに多くの人が夢中になっているものを、一度も見ずに終わるなんて、あまりにもったいないと思わない?」
「お嬢様は、昔からそういうところがおありですものね……」
ミアは苦笑しながらも、密かに心の中では、その好奇心を微笑ましく思っていた。堅苦しい貴族社会の中で、これほど純粋に何かへの興味を抱く令嬢の姿は、彼女にとっても新鮮に映ったのだった。
ヴァルガス子爵の領地では、事態はさらに深刻さを増していた。
「後任の管理者からの報告です。今月に入って、来客数がさらに二割減少しております」
執事の報告に、ヴァルガスは苛立たしげに机を叩いた。
「二割だと……。なぜだ、対策は打っているはずだろう」
「その、恐れながら申し上げますと……客の多くが、隣領のあの施設に流れているようでして。あちらは怪我をする心配がなく、それでいて手応えのある挑戦ができると評判が広がっているとのことです」
その言葉に、ヴァルガスの顔が朱に染まった。
「くだらん! 命の危険もない見世物ごときに、なぜ人が集まる! 冒険者とは、命を懸けてこそ本物だろうが!」
執事はそれ以上何も言わず、ただ深く頭を下げるばかりだった。彼自身、内心ではとうに悟っていた。時代の潮目は、既に大きく変わりつつあるということを。
ヴァルガスは荒く息を吐きながら、執務室の窓から自領のダンジョンの方角を睨みつけた。かつて自分が「利益にならない」と切り捨てた管理者が作り上げたものが、今や自分の首を絞める最大の脅威となっている――その事実を認めることは、彼の矜持が許さなかった。
「いっそのこと、あの若造に頭を下げて、教えを乞うか……いや、それだけは絶対にあり得ん」
誰にも聞かれぬよう独り言ちながらも、ヴァルガスの声には、隠しきれない焦燥が滲んでいた。かつての栄光にすがるだけの日々が、確実に終わりへと近づいていることを、彼自身が一番よく分かっていたのかもしれない。
「支配人、上映契約の件、返事はどうする?」
シルフの問いかけに、ゼノンは考えを整理しながら答えた。
「基本方針はこうだ。まず、映像の品質を保証できる劇場に限定する。次に、契約料の一部を、こちらの新規設備投資に充てる。そして――」
「そして?」
「挑戦者たちのプライバシーには、最大限配慮する。顔を出すかどうかは、必ず本人の意思を確認すること」
その言葉に、シルフは満足そうに頷いた。
「やっぱりそうくると思った。あんた、そういうところはブレないよね」
「当然だ。見世物として消費するだけの関係じゃ、長続きしない」
ゼノンの言葉に、ルナリアが小さく笑みを浮かべた。
「あなたのそういう考え方、わたくしは嫌いではありませんわ」
「褒め言葉として受け取っておく」
シルフは書類をまとめながら、ふと思いついたように付け加えた。
「あ、そうだ。品質保証のために、劇場側にも簡単な検査基準を作ろうと思ってるんだ。魔石の精度とか、上映環境とか。ちゃんとしたところじゃないと、映像が粗くなって台無しになっちゃうから」
「いい考えだ。その基準づくり、任せていいか」
「もちろん! あたしの本領発揮ってやつだよ」
シルフは意気揚々と羊皮紙を抱え、自分の工房へと駆けていった。その後ろ姿を見送りながら、ルナリアが小さく笑みをこぼす。
「本当に、良い人材が集まってきましたわね」
「あんたのおかげでもある。最初にガルムとシルフの気配を感じ取っていなければ、こんなに早く体制は整わなかった」
「あら、珍しく素直な評価ですこと」
「事実を言っているだけだ」
ルナリアはくすりと笑いながら、手元の帳簿に視線を戻した。数値の羅列の中に、着実に積み上がっていく成長の軌跡が見て取れる。彼女にとっても、この施設が一歩ずつ大きくなっていく様子を見守ることは、何よりの喜びだった。
「このままいけば、次の階層拡張も予定より早められそうですわね」
「そうだな。人手も資金も、揃いつつある」
夕刻、ガルムが今日の仕事を終え、汗を拭いながら広場に戻ってきた。
「よう、なんだか今日は妙に慌ただしかったみたいだな」
「映像契約の件で、少し騒がしくなった。あんたの活躍のおかげで、噂がさらに広がっているらしい」
「ほう、そいつは悪くねえ話だ」
ガルムは満足げに笑うと、大剣を担ぎ直した。
「なら、俺様もますます張り切らねえとな。噂を裏切るわけにはいかねえだろ」
「無理はするなよ。あんたが倒れちゃ、シルフの映像素材も台無しだ」
「はっはっは、心配は無用だ! これしきで倒れるようじゃ、剣聖の名は名乗れねえよ」
ガルムはそう言って、豪快に胸を叩いた。その勢いのまま、彼は思い出したように付け加える。
「そういや坊主、王都の劇場でも映像が流れるって話、本当か? だとすりゃ、そのうち王城の連中も俺様の勇姿を目にすることになるんだろうな」
「その可能性はある」
「はっ、そりゃ愉快だ。俺を役立たず扱いした昔の仲間どもにも、しっかり見せつけてやりてえもんだぜ」
ガルムの言葉には、どこか自嘲めいた響きが混じっていた。かつてS級冒険者として名を馳せながらも、表舞台から退かざるを得なかった過去が、彼の中にも確かに存在しているのだろう。ゼノンはその言葉を静かに受け止めながら、口を開いた。
「見返してやりたいなら、そのための舞台はいくらでも作ってやる」
「……ああ、頼りにしてるぜ、支配人」
ガルムはそう言って、いつもの豪快な笑みを取り戻した。夕暮れの光の中、二人の間に流れる空気は、雇い主と従業員というよりも、どこか対等な同志のそれに近かった。ゼノンはその声を聞きながら、静かに空を見上げた。噂は既に、国境という目に見えない境界線を軽々と越え始めていた。ロレンツの持ち込んだ契約、旅人たちの語る噂話、そして王都で密かに膨らむ好奇心――それら全てが、深遠のアミューズメント・グラウンドという一つの場所に向かって、少しずつ、しかし確実に収束しつつあった。
この日の空は、いつもよりわずかに赤みを帯びていた。まるで、これから訪れる新しい波乱の前触れであるかのように。




