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第2話「日常」

 翌朝、目が覚めたら肩が上がらなかった。


 正確には上がる。けど少し動かすだけで、皮膚の下を針金で引かれるみたいな痛みが走った。


 昨日貼ったガーゼがジャージに張りついていた。


 剥がしたとき、変な声が出た。


 洗面台の鏡で傷を見た。思ったより浅い。けど、裂けた皮膚の縁はまだ赤くて、そこだけ昨日が残っていた。


 学校は、いつも通りだった。


 当たり前だ。昨日のことを知っているのは僕だけだ。ゴブリンに追いかけられたことも、逃げたことも、肩を裂かれたことも、誰も知らない。


 宮前蓮は、クラスで特別目立つわけでもない。特別いじめられているわけでもない——というのは表向きの話で、正確には「絡んでもあまり面白くないやつ」として処理されているだけだ。


 桐島たちに昼の箸を取られたのが中一の夏で、それ以来ずっとそういう立場だった。誰もあからさまには手を出さない。でも、誰も特別気にもしない。そういう位置。


 授業中、ノートを取るたびに肩が痛んだ。服が擦れて、じくりと熱を持つ。


 でも、その痛みは消えてほしくなかった。痛いと、昨日のことが本当だったと思えた。教室に座っている今のほうが、たまに薄かった。


 昼休み、一人で弁当を開いた。いつもの教室の隅だ。


 箸があるのを確認してから蓋を開けた自分に気づいて、少しだけ手が止まった。


 食べながらスマホで調べた。筋トレ、初心者、自重。


 昨日の敗因は単純だ。弱すぎた。蹴られた一発で終わりかけた。技術とか以前の話だ。まず土台がない。腕立て、スクワット、プランク。道具はいらない。まず始めろ、と書いてあった。


 そこまで言われる側か、と思った。でも、今の僕はたぶん、そのへんだった。


 弁当を食べ終わって立ち上がろうとしたとき、少し顔をしかめた。肩が引きつった。


「何それ、どうしたの」


 声がして振り向くと、桐島の横でよく笑っているやつが立っていた。


「別に」


 反射でそう言った。


「え、でも痛そうじゃん」


 軽い調子で言いながら、そいつは僕の右肩に手を伸ばした。


 避けるより先に、触られた。


「っ……!」


 息が漏れた。昨日裂かれたところを、指先が押した。強くじゃない。たぶん本当に軽く。けど、痛みは一気に走った。


「うわ、マジで痛いやつ?」


 そいつは少し笑った。悪気があるのかないのか、よくわからない笑い方だった。


「なに、ケガ?」「知らん。なんかすげえ痛がってる」


 笑い声が混ざった。


 僕は肩を押さえたまま、何も言えなかった。大丈夫でもないし、大丈夫じゃないとも言えなかった。昨日ダンジョンでゴブリンに切られました、なんて言えるわけがない。


 追い払うことも、睨み返すことも、できなかった。


 そいつはしばらくして、つまらなそうな顔で「ふーん」とだけ言った。それで終わりだった。


 なのに、しばらく動けなかった。


 昨日と同じだった。ゴブリンが笑ったときも、僕は固まった。今も固まった。相手がモンスターでも、クラスメイトでも、やっていることがあまり変わらない。


 結局、また何もできなかった。


 放課後、そのまま帰った。


 今日はダンジョンには行かない。怖いからだけじゃない。まず体を作らないと話にならないと思った。


 部屋でジャージに着替えて、床に手をついた。


 腕立て伏せを一回。二回目で肩が引きつって止まった。


 二回もできないのか、と思った。いや、一回はできた、と考えた自分が少し嫌だった。それ、言い訳の練習じゃないのか。


 右肩が駄目なら下半身をやればいい。スクワットを始めた。十回で太ももが重くなる。十五回で崩れる。二十回で脚が笑った。


 情けなかった。でも、昼休みの自分のままで終わるよりはましだった。


 夜、布団に入る前にノートを開いた。


 昨日逃げたときのことを書いた。体が固まった。パイプが重かった。蹴られて壁に当たった。肩を切られた。逃げた。


 書きながら、少し整理できた気がした。次に行くときは、蹴られる前に体をずらす練習をしよう。それだけわかった。


 ノートを閉じて、布団に入った。肩を触る。触れただけで、まだ少し痛い。


 ダンジョンでついた傷なのに、学校で痛め直したことが、なんだか無性に腹立たしかった。


 ゴブリンに勝てないのも嫌だった。教室で何も言えないのは、もっと嫌だった。


 このままの自分でいるのは、もう嫌だった。

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